一
武州《ぶしゆう》高尾《たかお》の峰《みね》から、京は鞍馬山《くらまやま》の僧正谷《そうじようがたに》まで、たッた半日でとんでかえったおもしろい旅の味《あじ》を、竹童《ちくどう》はとても忘れることができない。
果心居士《かしんこじ》のまえに、首尾《しゆび》よくすましたお使いの復命《ふくめい》をしたのち、その晩、寝床《ねどこ》にはいったけれども、からだはフワフワ雲の上を飛んでいるような心地、目には、琵琶湖《びわこ》だの伊吹山《いぶきやま》だの東海道の松並木《まつなみき》などがグルグル廻って見えてきて、いくら寝《ね》ようとしても寝られればこそ。
「アアおもしろかったなア、あんな気持のいい思いをしたのは生まれてはじめてだ。お師匠《ししよう》さまは意地悪だから、なかなか飛走の術《じゆつ》なんか教えてくれないけれど、おいらにクロという飛行|自在《じざい》な友だちができたから、もう飛走の術なんかいらないや。それにしても今夜はクロはどうしているだろう……天狗《てんぐ》の腰掛松《こしかけまつ》につないできたんだけれど、あそこでおとなしく寝ているかしら、きっとおいらの顔を見たがって啼《な》いてるだろうナ。アアもう一ど、クロの背《せ》なかへ乗ってどこかへ遊びにゆきたい……」
「竹童《ちくどう》竹童」となりの部屋《へや》で果心居士の声がする。
「ハイ」
「ハイじゃあない、なにをこの夜中にブツブツ寝言《ねごと》をいっている。なぜ早く寝ないか」
「ハイ」
竹童はそら鼾《いびき》をかきだしたが、心はなかなか休まらないで、いよいよ頭脳明晰《ずのうめいせき》になるばかりだ。
「ハハア、竹童のやつめ、鷲《わし》の背なかで旅をした味《あじ》をしめて、なにか心にたくらみおるな。よしよし明日《あす》はひとつなにかでこらしておいてやろう」
いながらにして百里の先をも見とおす果心居士《かしんこじ》の遠知の術《じゆつ》、となりの部屋《へや》に寝ている竹童《ちくどう》のはらを読むぐらいなことはなんでもない。
とも知らず、夜が明けるか明けないうちに、亀《かめ》の子《こ》のようにムックリ寝床から首をもたげだした竹童、
「しめた! お師匠《ししよう》さまはあのとおりな鼾《いびき》、いくらなんでも寝ているうちのことは気がつくまい。どれ、今のうちにおいらの羽をのばしてこようか」
ほそっこい帯《おび》をチョコンとむすび、例の棒切《ぼうき》れを腰にさして、ゆうべ食べのこした木《き》の芽団子《めだんご》をムシャムシャほおばりながら、猿《さる》のごとく荘園《そうえん》をぬけだした。
そのはやいことは、さながら風!
空にはまだ有明けの月があった。あっちこっちの岩穴《いわあな》からムクムクと白いものを噴《ふ》いている、朝《あさ》の霧《きり》である。竹童のあわい影が平地《へいち》から崖《がけ》へ、崖《がけ》から岩へ、岩から渓流《けいりゆう》へと走っていくほどに、足音におどろかされた狼《おおかみ》や兎《うさぎ》、山鳥などが、かれの足もとからツイツイと右往左往《うおうざおう》に逃げまわる。
いつもの竹童ならば、こんな場合、すぐ狼を手捕りにする、兎を渓流のなかへほうりこむ。とてもいたずらをして道草するのだが、きょうはどうしてそれどころではない。なにしろこれからお師匠《ししよう》さまの朝飯となるまでに、日本国じゅうの半分もまわってこようという勢いなのだから。
「やアどうしたんだろう、いない! いない!」
やがて、瘤《こぶ》ケ峰《みね》のてッぺんにある、天狗《てんぐ》の腰掛松《こしかけまつ》の下にたった竹童《ちくどう》は、素《す》ッ頓狂《とんきよう》な声をだしてキョロキョロあたりを見まわしていた。
「おかしいな、きのうかえってから、この松の木の根ッこへあんな太い縄《なわ》でしばっておいたのに、どこへとんでッちゃったのだろう」
がっかりして、しばらくあっちこっちをうろうろした竹童は、とうとう目から大粒《おおつぶ》の涙《なみだ》をポロリポロリとこぼしながら、あかつきの空にむかって声いッぱい!
「クロクロクロクロ。クロクロクロクロクロ」
それでも影を見せてこないので、かれはグンニャリとなり、天狗の腰掛松へよりかかってしまったが、ふとこのあいだ居士《こじ》が扇子《せんす》をなげて鷲《わし》を呼びよせた幻術《げんじゆつ》をおもいだし、
「よし、おいらもあの術をまねしてみよう」
竹童はもう目の色かえて一心である。呪文《じゆもん》はわからないが、腰の棒切れをぬき、一念こめて、エエイッと気合《きあい》を入れて虚空《こくう》へ投げる。
棒はツツツと空へ直線をえがいてあがった。
「やア、奇妙《きみよう》奇妙」竹童は嬉《うれ》しさのあまり、手をたたき、踊りをおどって狂喜した。
と見る、谷をへだてたあなたから、とんでくるのはクロではないか、間《あい》の谷《たに》を、わずか二つ三つの羽ばたきでさっとくるなり、投げあげられた棒切れを、パクリとくわえて、かれのそばまで降りてきた。竹童《ちくどう》が有頂天《うちようてん》となったのもむりではない。