三
「ア痛《いた》、アイタタタッ……」
跛《びつこ》をひきながら、草むらよりころげだしたのは竹童《ちくどう》である。地上二、三十|尺《しやく》のところまできて、ふいに鷲《わし》の嘴《くちばし》からはなされたのだ。
これが尋常《じんじよう》の者なら、悩乱悶絶《のうらんもんぜつ》はむろんのこと、地に着かぬうちに死んでいるべきだが、山気《さんき》をうけた一種の奇童《きどう》、三歳児《みつご》のときから果心居士《かしんこじ》にそだてられて、初歩の幻術《げんじゆつ》や浮体《ふたい》の秘法《ひほう》ぐらいは、多少心得ている竹童なればこそ、五体の骨をくだかなかった。
「オオ痛《いた》い。クロの野郎《やろう》め、おいらがあんなにかあいがってやるのに、よくも恩人をこんな目にあわせやがッたな、アア痛《いた》、痛《いた》、痛《いた》、畜生《ちくしよう》畜生、どうするか覚えていろ!」
腰骨をさすりながら、ふと後ろをふりかえって見ると、なんとにくいやつ、すぐじぶんのそばに、すました顔で、翼《つばさ》をやすめているではないか。
「けッ、癪《しやく》にさわる!」
竹童はいきなり帯《おび》の棒切《ぼうき》れをひッこ抜《ぬ》き、クロをねらってピュッと打ってかかる。と、鷲も猛鳥の本性《ほんしよう》をあらわして、ギャッとばかり、竹童の頭から一つかみと爪《つめ》をさかだってきた。
「こいつめッ、生意気《なまいき》においらにむかってくる気だな」
とかんしゃくすじを立てた勢いで、ブーンと棒を横なぐりにはらいとばすと、こはいかに、鷲の片足が、ムンズとのびて竹童の胸をつかみ、
「これ竹童、なにが生意気なのじゃ」とにらみつけた。
「あッ、あなたはお師匠《ししよう》さま?」
さらぬだに目玉の大きい竹童《ちくどう》が、瞳《ひとみ》をみはってあきれ返った。なんと、鷲《わし》とおもって打っていたのは、鞍馬《くらま》におるはずのお師匠《ししよう》さま、果心居士《かしんこじ》ではないか。
ふしぎ、ふしぎ。かれは天空から落ちたときよりぎょうてんして、からだを石のようにこわくさせ、口もきけず、逃げもできず、ややしばらくというもの、そこにモジモジとしていたが、ガラリと棒切《ぼうき》れをすてて、地べたへ額《ひたい》をすりつけてしまった。
「お師匠さま。わたしがわるうござりました。どうぞごかんべんあそばしくださいまし」
「びっくりしたか、どうじゃ悪いことはできないものであろう」
居士は、ニヤリと笑って、足もとの岩へ腰をおろした。
「まったくこんな胆《きも》をつぶしたことはございません。これからけっしてお師匠さまにむだんで遠くへまいりませんから、どうかおゆるしくださいまし」
「よしよし、仕置《しおき》はさんざんすんでいるのじゃから、もうこのうえのこごとはいうまい」
「エ、じゃアとんでくるうちに、あんな目にあわしたのもお師匠さまでしたか。エ、お師匠さま。どうして人間が鷲になんかになってとべるのでしょう?」
「ソレ、ゆるすといえばすぐにまた甘えてくる。さようなことはどうでもよい、おまえにはまた一ついいつけることがある。ほかでもないが、これから富士《ふじ》の人穴《ひとあな》へいって、そこに住みおる和田呂宋兵衛《わだるそんべえ》という賊《ぞく》のかしらに会うのじゃ。しかし容易《ようい》なことでは、かれにうたがわれるから、あくまでおまえは子供らしく、いざとなったらかくかくのことをもうしのべろ……」
と居士《こじ》はあかざの杖《つえ》をもって、なにかこまごまと書いて示したりささやいたりして旨《むね》をふくませたのち、
「よいか、そこで呂宋兵衛《るそんべえ》が、うまうまとこちらのことばに乗ったとみたら、そくざに、五湖の白旗《しらはた》の宮《みや》におわす、武田伊那丸君《たけだいなまるぎみ》その余《よ》のかたがたにおしらせするのじゃ、なかなか大役であるからばかにしないでつとめなければなりませんぞ」
「かしこまりました。ですけれどお師匠《ししよう》さま」
「鷲《わし》がいないというのであろう。いまほんもののクロを呼んでやるから、しばらくそのへんにひかえていなさい」
「ハイ」
竹童《ちくどう》はそこでやっと落着いて、あたりの景色《けしき》を見直した。ところでここはいったいどこの何山だろう?
いま、さしもの豪雨《ごうう》もやんで、空は瑠璃《るり》いろに澄《す》んできたが、眼下ははてしもない雲の海だ。それからおしてもここはかなりの高地にちがいないが、この山そのものがあたかも天然《てんねん》の一|城廓《じようかく》をなして、どこかに人工のあとがある。
すると、コーン、コーン、コーンと深いところで石でも切るような音。と思えば、ザザザザーッと谷をけずるような響《ひび》きもしてきた。竹童はこの深山に妙《みよう》だなと思いながら、なにごころなくながめまわしてくると、天斧《てんぷ》の石門《せきもん》、蜿々《えんえん》とながき柵《さく》、谷には棧橋《さんばし》、駕籠渡《かごわた》し、話にきいた蜀《しよく》の桟道《さんどう》そのままなところなど、すべてはこれ、稀代《きたい》な築城法《ちくじようほう》の人工《じんこう》を加味した天嶮無双《てんけんむそう》な自然城《しぜんじよう》だ。
「これはすてきもないところだナ、いったいなんのためにこんな砦《とりで》があるのだろう」
竹童《ちくどう》はふしぎな顔をして、もとのところへ帰ってきてみると、いつのまにか、ほんもののクロが居士《こじ》のそばにちゃんとひかえている。
「竹童、早々《そうそう》したくをしていかねばならぬ。用意はできているか」
「ハイいつでもかまいません。けれどお師匠《ししよう》さま、でがけにひとつうかがいたいことがございます」
「そんなことをいってるまに時刻がたつ」
「いいえ、たった一言《ひとこと》、いったいここはどこの何山で、だれのもっている砦《とりで》でございましょうネ」
「おまえなどは知らないでもいいことだが、お使いをする褒美《ほうび》として聞かしてやろう。ここは甲斐《かい》と信濃《しなの》と駿河《するが》の堺《さかい》、山の名は小太郎山《こたろうざん》」
「え、小太郎山」
「砦にこもる御方《おんかた》はすなわち武田伊那丸《たけだいなまる》さまだ」
「えッ、ここがあの小太郎山で、伊那丸さまの立てこもる根城《ねじろ》となるのでございますか」
ふかいわけはわからないが、竹童《ちくどう》はそう聞いて、なんとなく、胸おどり血わいて、じぶんも、甲斐源氏《かいげんじ》の旗上げにくみする一人であるように勇《いさ》みたった。