一
うえの羽織《はおり》は、紺地錦《こんじにしき》へはなやかな桐散《きりぢら》し、太刀《たち》は黄金《こがね》づくり、草色の革《かわ》たびをはき、茶筌髷《ちやせんまげ》はむらさきの糸でむすぶ。すべてはでずきな秀吉《ひでよし》が、いま、その姿《すがた》を、本丸《ほんまる》の一室にあらわした。
そこでかれは、腰へ手をまわし、少し背《せ》なかを丸くして、しきりに壁《かべ》をにらんでいる。達磨大師《だるまだいし》のごとく、いつまでもあきないようすで、一心に壁とむかいあっている。
飯《めし》をかむまもせわしがっているほどの秀吉が、にらみつめている以上、壁もただの壁ではない。縦《たて》六尺あまり横《よこ》三|間余《げんよ》のいちめんにわたって、日本全土、群雄割拠《ぐんゆうかつきよ》のありさまを、青、赤、白、黄などで、一|目瞭然《もくりようぜん》にしめした大地図の壁絵。——さきごろ、絵所《えどころ》の工匠《こうしよう》を総《そう》がかりで写《うつ》させたものだ。
「あるある。安土《あづち》などよりはぐんとよい地形がある。まず秀吉が住むとなれば、この摂津《せつつ》の大坂《おおさか》だな……」
この地図を見ていると、秀吉はいつもむちゅうだ。青も赤も黄色も眼中にない、かれの目にはもう一色《ひといろ》になっているのだ。
「関東には一ヵ所よい場所があるな。しかし、西国《さいごく》の猛者《もさ》どもをおさえるにはちと遠いぞ。——お、これが富士《ふじ》、神州《しんしゆう》のまン中に位《くらい》しているが、裾野《すその》一帯《いつたい》から、甲信越《こうしんえつ》の堺《さかい》にかけて、無人《むじん》の平野、山地の広さはどうだ。うむ……なかなかぶっそうな場所が多いわ」
ひとり語《ごと》をもらしながら、若いのか爺《じじ》いなのか、わからぬような顔をちょっとしかめていると、
「秀吉《ひでよし》どの——」
かるく背《せ》なかをたたいた人がある。
「おお」
われに返ってふりむくと、いつのまにきていたのか、それは右少将徳川家康《うしようしようとくがわいえやす》であった。
「だいぶ、ご熱心なていに見うけられまするのう」
「はッはッはははは。いや|ほん《ヽヽ》のたいくつまぎれ。それより家康どのには、近ごろめずらしいご登城《とじよう》」
「ひさしく三法師君《さんぼうしぎみ》にもご拝顔いたしませぬので、ただいまごきげんうかがいをすまして、お暇《いとま》をいただいてまいりました。時に、話はちがいまするが、さきごろ、秀吉どのには世にもめずらしい品《しな》をお手に入《い》れたそうな」
「はて? なにか茶道具の類《るい》のお話でもござりますかな」
「いやいや。武田家《たけだけ》につたわる天下の名宝、御旗楯無《みはたたてなし》の二品《ふたしな》をお手に入《い》れたということではござりませぬか」
「あああれでござるか、いや例の好《この》みのくせで、求めたことは求めましたが、さて、なんに使うということもできない品《しな》で、とんだ背負物《しよいもの》でござる。あはははははは」
と、秀吉《ひでよし》は、こともなく笑ってのけたが、家康《いえやす》にはいたい皮肉《ひにく》である。穴山梅雪《あなやまばいせつ》に命じて、じぶんの手におさめようとした品《しな》を、いわば不意に、横からさらわれたような形。
しかし、秀吉はそんな小さな皮肉のために、黄金《おうごん》千枚を積《つ》んで買いもとめたわけでもなく、また決して、御旗楯無《みはたたてなし》の所有慾《しよゆうよく》にそそられたものでもない。要は和田|呂宋兵衛《るそんべえ》という野武士《のぶし》の潜勢力《せんせいりよく》を買ったのだ。
清濁《せいだく》あわせ呑《の》む、という筆法で、蜂須賀小六《はちすかころく》の一族をも、その伝《でん》で利用した秀吉が、呂宋兵衛に目をつけたのもとうぜんである。
かれを手なずけておいて、甲駿三遠《こうすんさんえん》四ヵ国の大敵、げんに目のまえにいる徳川家康を、絶えずおびやかし、時によれば、背後をつかせ、つねに間諜《かんちよう》の役目をさせておこう、——というのが秀吉のどん底にある計画だ。
と、折からそこへ、
「右少将《うしようしよう》さまにもうしあげます。ただいま、ご家臣の本多《ほんだ》さまがお国もとからおこしあそばしました」
と、ひとりの小侍《こざむらい》が取りついできた。すると、入れかわりにまたすぐと、べつな侍が両手をつき、
「左少将《さしようしよう》さま。福島正則《ふくしままさのり》さまが、ちとご別室で御意《ぎよい》得たいと先刻《せんこく》からおまちかねでござります」
ふたりは、大地図《だいちず》のまえをはなれて、目礼《もくれい》をかわした。
「ではまた、後刻《ごこく》あらためてお目にかかりましょう」
端厳《たんげん》、麒麟《きりん》のごとき左少将秀吉《さしようしようひでよし》。風格、鳳凰《ほうおう》のような右少将家康《うしようしよういえやす》。どっちも胸に大野心《だいやしん》をいだいて、威風《いふう》あたりをはらい、安土城本丸《あづちじようほんまる》の大廓《おおくるわ》を右と左とにわかれていった。