二
菊池半助《きくちはんすけ》の書面が、家康《いえやす》の本城《ほんじよう》浜松へつくと同じ日にいくさになれた三河武士《みかわぶし》の用意もはやく、旗指物《はたさしもの》をおしならべて、東海道を北へさして出陣した三千の軍兵《ぐんぴよう》。
精悍無比《せいかんむひ》ときこえた亀井武蔵守《かめいむさしのかみ》の兵七百、内藤清成《ないとうきよなり》の手勢《てぜい》五百、加賀爪甲斐守《かがづめかいのかみ》の一隊六百余人、高力与左衛門《こうりきよざえもん》の三百五十人、水野勝成《みずのかつなり》が後詰《ごづめ》の人数九百あまり、軍奉行《いくさぶぎよう》は天野三郎兵衛康景《あまのさぶろべえやすかげ》。
法螺《ほら》、陣鐘《じんがね》の音に砂けむりをあげつつ、堂々と街道《かいどう》をおしくだり、蒲原《かんばら》の宿《しゆく》、向田《むこうだ》ノ城にはいって、松平周防守《まつだいらすおうのかみ》のむかえをうけた。
ここで、裾野陣《すそのじん》の大評議をした各将は、待ちもうけていた菊池半助を、地理の案内役として先陣にくわえ、全軍|犬巻峠《いぬまきとうげ》の嶮《けん》をこえて、富士《ふじ》河原《がわら》を乗りわたし、天子《てんし》ケ岳《たけ》のふもとから南裾野《みなみすその》へかけて、長蛇《ちようだ》の陣をはるもよう。
西をのぞめば、雨《あま》ケ岳《たけ》のいただきを陣地とする武田伊那丸《たけだいなまる》の一党《いつとう》、北をみれば、人穴城《ひとあなじよう》にたてこもる呂宋兵衛《るそんべえ》の一族、また南の平野には、葵《あおい》の旗指物《はたさしもの》をふきなびかせて、威風《いふう》りんりんとそなえた三千の三河武士《みかわぶし》がある。
ここ、いずれも、敵味方三方わかれの形である。
甲《こう》を攻めれば乙《おつ》きたらん、乙を討たんとせば丙突《へいつ》かんという三角対峙《さんかくたいじ》。はたしてどんな駈引《かけひ》きのもとに、目まぐるしい三つ巴《どもえ》の戦法がおこなわれるか、風雲の急なるほど、裾野のなりゆきは、いよいよ予測《よそく》すべからざるものとなった。
けれど、それは人と人とのこと、弓取りと弓取りのこと。晩秋の千草《ちぐさ》を庭としてあそぶ、鶉《うずら》や百舌《もず》や野うさぎの世界は、うらやましいほど、平和そのものである。
ちょうどそれとおなじように、のんきの洒《しや》アな顔をして、またぞろ、裾野へ舞《ま》いもどってきた泣き虫の蛾次郎《がじろう》はばかにいい身分になったような顔をして、あっちこっちを、のこのこと歩いていた。