一
竹童《ちくどう》にたのまれて、人穴城《ひとあなじよう》附近の斥候《ものみ》にでかけた蛾次郎《がじろう》は、どうやら戦いがはじまりだしたようすなので、草むらをざわざわかきわけてもどってくると、とある小道で、向こうからくるひとりの男のかげを見つけた。
「ア、あいつは雨《あま》ケ岳《たけ》のほうからきたらしい、あいつに聞けば、伊那丸《いなまる》がたの、くわしいようすがわかるだろう……」
道ばたに腰かけて、さきからくるのを待っている。
ビタ、ビタ、ビタ……足音はちかづいてきたが、星明かりぐらいでは、それが百姓だか侍だか判《はん》じがつかないけれど、蛾次郎は、ひょいとまえへ立ちあらわれて、
「もし、ちょっと、うかがいます」
と、頭をさげた。
おおかたびっくりしたのだろう、あいてはしばらくだまって、蛾次郎のかげを見すかしている。
「もしやあなたは、雨ケ岳のほうから、やってきたのではございませんか」
「ああ、そうだよ」
「あすこに陣どっている、武田伊那丸《たけだいなまる》の兵は、もう山を下りましたろうか、戦いは、まだおッぱじまりませんでしょうかしら」
「知らないよ。そんなことは、おまえはいったいなにものだ」
「おれかい、おれはさ、もと鼻かけ卜斎《ぼくさい》という鏃鍛冶《やじりかじ》のとこにいた、人無村《ひとなしむら》の蛾次郎《がじろう》という者だが、どうも卜斎という師匠《ししよう》が、やかまし屋で気にくわないから、そこを飛びだして、いまではあるところの大大名《だいだいみよう》のお抱《かか》えさまだ」
「バカッ」
「ア痛《いた》ッ。こんちくしょう、な、な、なんでおれをなぐりやがる」
「蛾次郎、いつきさまにひまをくれた」
「えーッ」
「いつ、この卜斎が、暇《ひま》をやると申したか」
「あ、いけねえ!」
蛾次郎が、くるくる舞《ま》いをして逃げだしたのも道理、それは、雨《あま》ケ岳《たけ》からおりてきた当《とう》の卜斎、すなわち上部八風斎《かんべはつぷうさい》であった。
「野郎《やろう》!」
ばらばらッと追いかけて、蛾次郎の襟《えり》がみをひっつかみ、足をはやめて、人無村の細工《さいく》小屋へかえってきた。
「親方、ごめんなさい、ごめんなさい」
「えい、やかましいわい」
「ア痛《いて》え、もう、もうけっして、飛びだしません、親方ア、これから、気をつけます。か、かんにんしておくんなさい……」
わんわんと手ばなしで泣きだした。もっとも、蛾次郎《がじろう》の泣き虫なること、いまにはじまったことではないから、その泣き声も、たいして改心の意味をなさない。
「バカ野郎、てめえに叱言《こごと》などをいっていられるものか。こんどだけは、かんべんしてやるから、これをしょって、早くあるけ」
と、今夜は八風斎《はつぷうさい》の鼻かけ卜斎《ぼくさい》も、家にかえって落ちつくようすもなく、書斎《しよさい》をかきまわして、だいじな書類だけを、一包《ひとつつ》みにからげ、それを蛾次郎にしょわせて、夜逃げのように、立ちのいてしまった。
門をでると、いま泣いた烏《からす》の蛾次《がじ》、もうけろりとして、
「親方、親方、こんな物をしょって、これからいったいどこへでかけるんですえ」
とききだした。
「戦《いくさ》ばかりで、この人無村《ひとなしむら》では仕事ができないから、越前北《えちぜんきた》ノ庄《しよう》へ立ちかえるのだ」
「え、越前へ」
蛾次郎はおどろいた。
「いやだなア」
と、口にはださないが、肚《はら》のなかでは、渋々《しぶしぶ》した。せっかく、菊池半助《きくちはんすけ》が、ああやって、徳川家《とくがわけ》で出世《しゆつせ》の蔓《つる》をさがしてくれたのに、越前なンて雪国へなんかいくなんて、なんとつまらないことだと、また泣きだしたくなった。
ちょうど、夜逃げのふたりが、人無村《ひとなしむら》のはずれまできた時、——八風斎《はつぷうさい》がふいにピタリと足をとめて、
「はてな? ……」
と、耳をそばだてた。
「な、なんです親方」
「だまっていろ……」
しばらく立ちすくんでいると、たちまち、ゆくての闇のなかから、とう、とう、とう——と地をひびかせてくる軍馬の蹄《ひづめ》、おびただしい人の足音、行軍《こうぐん》の貝の音、あッと思うまに、三、四百人の蛇形陣《だぎようじん》が、嵐《あらし》のごとくまっしぐらに、こなたへさしてくるのが見えだした。
八風斎《はつぷうさい》は、ぎょっとして、さけんだ。
「蛾次郎《がじろう》、蛾次郎、すがたをかくせ、早くかくれろ」
「え、え、え、なんです。親方親方」
「バカ! ぐず——見つかっては一大事だ、はやくそこらへ姿をけせ」
「ど、どこへ消えるんで? ……」
と、不意のできごとに、蛾次郎《がじろう》は、度《ど》をうしない、まだうろうろしているので、八風斎《はつぷうさい》は、「えいめんどう」とばかり、かれをものかげに突きとばし、じぶんはすばやく、かたわらの松の木へ、するするとよじ登ってしまった。
ふたりが、からくも、すがたを隠したかかくさないうちである、八風斎の目のしたへ、潮《うしお》の流れるごとき勢いで、さしかかってきた蛇形《だぎよう》の行軍《こうぐん》、その人数はまさに四百余人。みな、一ようの陣笠《じんがさ》小具足《こぐそく》、手槍《てやり》抜刀《ぬきみ》をひっさげて、すでに戦塵《せんじん》を浴《あ》びてるようなものものしさ。
なかに、目立つはひとりの将、漆黒《しつこく》の馬にまたがって身には鎧《よろい》をまとわず、頭に兜《かぶと》をかぶらず、白の小袖《こそで》に、白鞘《しらさや》の一刀を帯《お》びたまま、鞭《むち》を裾野《すその》にさして、いそぎにいそぐ。
「あ、あの人は見たことがあるぜ」
ものかげにいた蛾次郎は、目をみはって、その馬上を見おくったが、ふと気がついて、
「そうだ、そうだ」とばかり、あとからつづく人数のなかにまぎれこみ、まんまと、八風斎の目をくらまして越前落《えちぜんお》ちのとちゅうから、もとの裾野《すその》へ逃げてもどってしまった。
「おお、あの矢さけび、火の手もみえる、流れ矢もとんでくるわ、この一時《ひととき》こそ一期《いちご》の大事、息もつかずに、いそげいそげ!」
人無村《ひとなしむら》をかけぬけて、渺漠《びようばく》たる裾野《すその》の原にはいると、黒馬《こくば》の将《しよう》は、鞍《くら》のうえから声をからして、はげました。雨《あま》ケ岳《たけ》の火はまだ赤々ともえている。
「敵!」
「敵だッ!」
「討《う》て!」
と、俄然《がぜん》、前方の者から声があがった。四、五|間《けん》ばかりの小石《こいし》河原、そこではしなくも、徳川家《とくがわけ》の先鋒《せんぽう》、内藤清成《ないとうきよなり》の別隊、四、五十人と衝突《しようとつ》したのである。
暗憺《あんたん》たる闇いくさ、ただものすごい太刀音と、槍《やり》の折れる音や人のうめきがあったのみで、敵味方の見定《みさだ》めもつかなかったが、勝負は瞬間に決したと見えて、前の蛇形陣《だぎようじん》は、ふたたび一糸《いつし》みだれず、しかも足なみいよいよはやく、人穴城《ひとあなじよう》の山下《さんか》へむかった。
「おうーい、おうーい」
かけつつ馬上の将は何者をか呼びもとめた。それにつづいて、陣笠《じんがさ》の兵たちも、かわるがわる、声をからして、おーい、おーいとつなみのように鬨《とき》の声を張りあげた。