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松のや露八06

时间: 2018-11-30    进入日语论坛
核心提示:馬のいない厩一 先代の新十郎つまり土肥庄次郎には祖父にあたる槍の新十郎といわれた人は、大坪流《おおつぼりゆう》の槍法《そ
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 馬のいない厩
 
 
 先代の新十郎——つまり土肥庄次郎には祖父にあたる——槍の新十郎といわれた人は、大坪流《おおつぼりゆう》の槍法《そうほう》の達人で、大酒家の上に豪放不羈《ごうほうふき》な性格だった。そのために、一ツ橋家の指南番までゆきながら、たびたび御前《ごぜん》ていをしくじっては、禁酒と謹慎とを、生涯《しようがい》に何度となく繰り返して終わっている。
「祖父を見習うてはいかぬぞ」
 それを、子弟の訓戒にしているのが、今の当主半蔵で、
「あんな大酒を召しあがらなければ、ずいぶん、ご出世もし、家禄《かろく》も百石にはなっていたろうに」
 と、五人の子女の教育費に貧乏している最中は、よく愚痴をこぼしたものである。
 三人の女子は、それぞれ嫁《とつ》いで、今、家に残っているのは、長男の庄次郎と、次男八十三郎《やそさぶろう》の二人きりだった。半蔵の妻は早世して、彼の齢《よわい》も、早や五十幾歳かのはずである。二十五年来、近習番頭取を勤めて、一度の失策もなく、七十石に足らない糊扶持《のりぶち》のうちから、わずかずつを割《さ》いて、付近の茗荷畑《みようがばたけ》を買って家作を建てたり、藩士の内職の才取《さいとり》をしたり、小金を貸したりして、営々と理財につとめ、とにかく、
「土肥は、小金を持っている」
 と、家中でも云われるくらいに、律儀《りちぎ》一方で、家運をもりかえした人物なのだ。
 屋敷は、小石川武島町《たけしまちよう》だった。
 ちょうど、小《こ》日向《びなた》台《だい》の裾《すそ》で、坂と藪《やぶ》ばかりが多いあの辺には、どう眺めても貧乏そうな御筒持組《おつつもちぐみ》の長屋だの、上水組《じようすいぐみ》の屋敷だの、寺だのが、傾斜の所々に、大風に吹き残されたように、ほっ建っている。
 土肥家の宅地は、二百坪ぐらいあって、その中ではまあ上の部だった。俗に、琵琶橋《びわばし》という江戸川上水の石橋をわたって、だらだら坂の中腹に見える大谷石《おおやいし》の苔崩《こけくず》れした石段を七、八段のぼると、その上だ。
 田舎《いなか》家《や》みたいに、前庭の広い南向きに、母屋《おもや》、書院、小者部屋《こものべや》、納戸《なんど》、玄関と、こう九間ばかりの古い棟《むね》が、曲尺形《かねじやくなり》に建っていて、西の隅《すみ》に、車井戸と馬のいない厩《うまや》とがある。
「飼馬料《かいばりよう》、一年分で、中間《ちゆうげん》の仕着せができよう。馬で、藩邸通いなどは、贅沢《ぜいたく》な沙汰《さた》」
 と、先代新十郎の愛馬二頭も、半蔵の代からは、売って、利殖に廻されてしまった。
 その、空厩《からうまや》のそばに、柿《かき》の樹《き》が、あお白い花を地にこぼしていた。秋になると善寺丸《ぜんじまる》の甘い実が枝をたわめ、庄次郎、八十三郎の兄弟が、歯の生《は》えだした幼少のころから、今もなお、秋になれば、舌つづみを打たせてくれる柿である。
 朝。——毎朝のことだが。
 半蔵は、その柿の樹の下を距離の目標にして、裏の的土手《まとどて》へ向かって弓をかまえ、およそ二十五束《そく》(一束四本)の矢を放つのが、多年の健康法になっている。
 ひゅっ——
 矢うなりが、窓の外を通る。
(中《あ》たらない!)
(また、外《はず》れ!)
 そこは、八十三郎の部屋なので、机で素読《そどく》をしながら、矢が、的《まと》へゆかないうちに、窓からよく云いあてて、父を揶揄《からか》った。
「うるさいぞよッ」
 半蔵は、子に技倆《ぎりよう》を測られると、やはり面目上、黙っていられないとみえて、
「的を射たがるうちは、まだまだ初心じゃ。弓は、体《たい》と精神の一致、無想の鍛練をもって意《こころ》とする。禅も同じじゃ」
 などと、武芸を説いたりする。
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