二
「待てッ!」
さけぶと、
「待っている。なにか、文句があるか」
路地口に、背を向けて、その侍は立っていた。
朱鞘《しゆざや》で、白絣《しろがすり》の着ながしだった。青額《あおびたい》に、講武所風の髷先《まげさき》が、散らばって、少し角ばった苦《にが》みのある顔へ、酒のいろを、ぱっと発している。三十前後の男である。
気をのまれて、二の句を、ぐっとのんでいると、
「一ツ橋の部屋住《へやずみ》どもだな。こういう、次三男坊が多いから、江戸も腐《くさ》る。酒もいいが、俺みたいに飲め。一升や二升のんでも、まだ、これくらいな性根はある」
端《はし》っこにぼんやりしていた一人の横顔を、平手で、ぴしゃりと、撲《は》りつけた。
「あっ」
顔をかかえて、友達の胸へ、勢いよく頭を持ってゆくと、二人が、諸倒《もろだお》れに、西瓜屋の縁台へ転がった。
「やったな」
「やった」
「一ツ橋と知ってやったな」
「無論」
「こいつッ!」
一人が、組みつくと、銭湯《ふ ろ》屋《や》の溝溜《どぶたま》りから、どす黒い水が、刎《は》ねあがったのと、一緒で、草履《ぞうり》は、空《くう》に、とんでいた。
「およしっ。——およしなさいっ」
西瓜屋の客、親父《おやじ》、往来の者などが、それをきっかけに、酔ってる人々を、あわてて抱きとめた。
「人斬り健吉ですぜ、あの侍にかかって、斬られちゃつまりません。およしなさい」
「健吉、何者だ。主家の名を、辱《はずかし》められて、捨ておけるか」
その健吉の影が、路地を抜けて、もう銀座横町へ出ているのを見送りながら、急に、喚《わめ》き合《あ》ったが、誰の顔にも、酒の気はふき消されていた。
「おや、土肥が見えん。土肥は、どこへ行ったのか」
虚勢を抜いて、彼らが、気のついたころには、土肥庄次郎は、その肥えた体を、鈍々《どんどん》と足早にすすめて、健吉とよぶ侍の後を追っていた。
森氏稲荷《もりうじいなり》の裏をとおって、空地《あきち》をななめに、出雲橋《いずもばし》のてまえ、そこで、追いついた。庄次郎は、取りたての免許皆伝、十分な自信があったし、いちどは実際に、生刀《なまみ》で自分を試してみたい気もあったし、彼の性格がまた、傲慢《ごうまん》な侍の態度に、ひどく、真っ正直に、憤《いきどお》りを感じていた。
「待てッ。一ツ橋にも武士がいるぞッ」
後ろから、抜きうちに、気当《きあて》、柄音《つかおと》、動作、一瞬に跳《と》びかかって、斬りさげた。——斬れた、と思ったのであった。だが、庄次郎自身、
「痛いッ」
と、さけんで、潰《つぶ》れ屋敷の跡らしい雑草と古瓦《ふるがわら》の上へ、背を、いやというほどぶつけて、投げられていた。
手から、抛《ほう》り落とした刀を、相手の侍が、拾っていた。そして、
「なるほど、一ツ橋にも、武士がいるな。さ、持ちなおして、もいちど来い。榊原健吉《さかきばらけんきち》が、すじを、目鑑《めきき》してやろう」
「…………」
「どうした。それ」
足もとへ、飛んできた刀を拾うと、土肥庄次郎は、後《あと》も見ずに、逃げだしてしまった。逃げる脚《あし》すら、がくがくとして、顫《ふる》えがやまなかった。