一
「あらっ? 変な人」
お蔦は、呆《あ》ッ気《け》にとられたように、庄次郎の背へ、眼をみはった。
「土肥さん——」
追いかけて行って、その袂《たもと》をつかまえると、庄次郎は、はっとしたように、お蔦の顔を振り向いた。
「なぜ、帰ってしまうんですか。せっかく、ひとが案内して来たのに、榊原健吉の家《うち》と聞いたら、急に、顔いろを変えて——人斬り健吉に、借金でもあるのですか」
「む……いや……」
無意識に、元の道へ動いてしまった自分の脚を、恥じるように、まごまごして、
「帰るわけじゃないが……その、少々……」
「どうなさいましたの」
「ちと……落し物を、した」
「まあ、何を」
「大した物じゃないが、探して来る……」
「じゃ、私も」
「いや——」と、慌てて「それには及ばん、ひとりで、探して来るから、その間に、榊原の家から、あの品を、貰って来てくれぬか」
「おやすいことですけれど……」
「たのむ!」
「じゃ、落し物を、見つけたら、貴方《あなた》は、門の外で、待っていて下さいますか。帰っちゃ、いやですよ」
「帰るものか。たのむ!」
二度までも、拝むように云う。
お蔦は、気がるに、門の中へ駈けこんで行った。その後ろ姿を見届けて、庄次郎は、ほっとした。
だが、嘘言《う そ》のてまえ、門の前に、ただ立っているのも、気が咎《とが》めた。しかたなしに、忍川のふちを、地面をみながら、往ったり来たりしていた。
犬の糞《くそ》だの、瀬戸物の欠片《かけら》だの、錆《さ》びた釘《くぎ》だの、かぞえていると、やがて、後ろで、お蔦の呼ぶ声がした。門の際《きわ》に、その姿が見え、手招《てまね》きしていた。
「オオ、返してくれたか」
「駄目」
お蔦は、困ったように、眉をひそめた。
「えっ、よこさない?」
「つむじ曲がりですからね」
「不都合じゃないか、人の物を、持ち去っておきながら」
「本人が来たら渡してやると云うんです。だから、お入りなさいよ。がさつな屋敷だから、誰に、遠慮もいらないし」
「遠慮などはせぬが」
「億劫《おつくう》がることもありませんよ」
「億劫でもないが」
庄次郎は、いかにも、弱った! というように考えこんでしまった。
苦手《にがて》というのか、妙に、昨夜《ゆうべ》以来、怯気《おじけ》が先に立って、足が前へ出ないのだった。
「さ、いらっしゃいよ」
「む?」
彼は、臆病な自分の足へ、力みを入れて、一つ、強く踏んだ。
「参ろう。自身で会おう」
その肩が、見えない妖霊《ばけもの》へひとりで強がっているようで、お蔦は、おかしかった。
「ま——大変な権《けん》まくね」
笑いながら、煤《すす》ぐろい玄関の式台を、先に上がって、自分の家《うち》みたいに、
「用人も、誰もいないんですから、どうぞ、ずっと」
「ではご免——」
腰《こし》の刀《もの》を、手に、草履をぬいで、上がりかけたのである。すると、お蔦の後ろに、青々と剃《そ》り上げた講武所びたいと、するどい眼をもった健吉の顔が、いつの間にか、立っていた。
「あ……」
思わず、またしても、臆病な腰が、後へ、身を退《ひ》きかけると、
「やあ、土肥先生」
体力的で、快活な声を、頭から浴びせるように、健吉が、云った。
「よく来たな、上がりたまえ」