一
近々にご拝眉《はいび》——と手紙をよこした渋沢栄一は、それから、消息がなく、半年目の翌年三月ごろになって、庄次郎の留守中、屋敷に訪ねて来たということを、彼は、弟からも妻からも聞いた。
「いよいよ、あの借りた財布へ、四十両入れて、返さなければならぬ」
それも、悩みだし、お蔦との仲も、抜きさしならない深間へ落ちていた。
酒が飲《い》ける口になってから、あっちこっちに、借金はできる。お蔦はお蔦で、裸にまでなる。型どおり、心中するか、駈落《かけお》ちか、ふた道を茨《いばら》にして、
「腐ったって、しよがありやしない。庄さん、お唄いよ」
あのまま借りている毛抜き鮨《ずし》の二階へ、てん屋物を取りちらして、二人は自暴《や け》酒《ざけ》だった。庄次郎は、ゆうべも屋敷へ帰っていない。今日も帰る気がしない。
——女は、三味線を爪《つめ》で弾《ひ》く。
「唄わないの」
「唄なんか、出るかよ」
庄次郎は、柱へ背を、そして、膝ッこを抱えて、
「金がほしいなあ」
「愚痴《ぐち》っぽいよ」
「また、今日あたり、渋沢が屋敷へ催促に来ているだろうし……」
男の呟くのをよそに、女は細い美《い》い声で、荻江節《おぎえぶし》を弾いてうたう。
つい釣り込まれて、
三とせ馴染《なじ》みし
猫の妻
もし恋い死なば
かわいやの
棹《さお》は契《ちぎ》りのたがやさん
庄次郎も音にあわせて唄いだすと、
「おおいい喉《のど》だ」
お蔦がひやかすように、また真面目《ま じ め》に、云った。
「わたしの、お仕込みがいいから——」
「ふん、悪い指南番だ」
「ほかのことは」
「初めから、剣術などをやらねえで、荻江節でも習っていたら……」
「二人で、ご神燈でもかけるのに。……だけど、これからだって」
「ああ」
横になって、手枕《てまくら》をかいながら、
「俺も、人間が、変わったなあ」
しみじみ、自分の姿へ、眼を落としていた。
と——階下《し た》で、
「いや、いるっ」
大声が聞こえた。
あわてた内儀《か み》さんが、何か言い訳するのを圧してがんがんと、響くのだった。
「確かにいることを、見届けてきたのだ。——荻江の三味線が、洩れていたのが証拠、それに下駄もあるっ。かくすと、承知せんぞッ」
「あっ、兄さんが」
お蔦は三味線を捨てた。
庄次郎は、刎《は》ね起きて、
「健吉」
「そうですよ、健吉が妹へ買ってやった着物だの、髪の物だのを、私が、みんな七ツ屋へ運んでしまったから、怒って来たのかも知れない」
「そ、それは」
「あわてたって、しようがない。庄さん、度胸を、おつけなさいよ」
「つけて、どうする」
「勝手におしと、二人で、首を並べちまうのさ」
「いけねえ、榊原健吉とくると、俺は、苦手《にがて》だ」
物干へ、逃げ出そうとすると、ど、ど、ど、とあらっぽい跫音《あしおと》が梯子段《はしごだん》を躍《おど》って、
「逃げると、尻を斬るぞっ」
庄次郎は、物干の上へ、坐ってしまった。お蔦はと見ると、いちど捨てた三味線を膝へ拾って、
「なにさ、榊原さん」
健吉は、庄次郎の襟《えり》がみをずるずると引いて来て、
「来いっ」
梯子段を覗《のぞ》かせた。