三
(斬れない)
と思った途端に、刀は鉛《なまり》のように重たいばかりの物だった。ひょいと、逃げ口を振り向いた隙に、くそ度胸のある敵の大刀《ど す》が真っ向へ迫った。ぱしッ! と刀の刃《は》のこぼれる光に自分の眼を射られて、
「くそッ!」
夢中で揮《ふ》り下ろした刀に異様な手ごたえがした。蒲団を撲《なぐ》ったような反撥を腕に感じた途端に、庄次郎は生まれて初めて、人間の生血を自分の刀から噴騰《ふんとう》させて、鼻先から花火でも揚がったように、
「わッ!」
と、驚異とも、凱歌とも、つかない声を発した。
「や、殺《や》られた——」
上辷《うわず》った声が、さっと、後ろへ退《ひ》いたとき、庄次郎の丸ッこい体が、横ッ飛びに、原を駈けていた。だが、突き当りに、寺の垣があって、咄嗟《とつさ》に越せなかった。後ろからは、肉へ尾《つ》いてくる野良犬のように、
「先へ廻れッ」
「石をぶつけろっ」
庄次郎はくるくる舞いして、垣の下を横へ添って勢いよく逃げて行ったが、曲がった途端に、蓮池《はすいけ》の中へ飛びこんでしまった。
闘鶏師の連中が、そこを駈け抜けるとすぐ、蓮根《れんこん》のように真っ黒な半身を出して、彼は首を廻して四方を見ていた。ヌマの中へ落とした刀を、足の指でそっと探してみたが分からない。ちン! と二つほど水で洟《はな》をかんで、のっそりと、陸《おか》へ上がった。
「野郎っ、あんなところにいやがる」
引っ返してくる跫音《あしおと》に、庄次郎はまた、逃げだした。濡れた浴衣《ゆかた》の裾《すそ》が脛《すね》にからみついて、とても、長途《ながみち》はむずかしい。秋葉神社の方へ向いて、半町ほど走ると、粋《いき》な船板塀《ふないたべい》が見え、天水桶《てんすいおけ》があった。
ひょいと、それへ乗って、塀のミネから中へ転《ころ》げ落ちた。地ひびきに驚いたものとみえる、風呂場の竹窓から湯気の立っている男の半身が、
「誰だっ?」
「は」
「盗《ぬす》ッ人《と》にしちゃあ、不器用な奴だ。勢吉《せいきち》ッ、灯《あかり》を貸せっ」
提灯を持って、風呂番の勢吉が、薪小屋《まきごや》から出て来た。浴衣を引っかけてその後ろに立ったのが今の男で、この家の主人らしく、四十がらみの苦み走った町人だ。提灯には、朱文字で、
おぐら庵《あん》
と、書いてある。