二
どうしたのか、その晩も、お蔦は帰って来ない。
三味線棹《しやみせんざお》が、壁に、鼻の下の長い自分を嘲《わら》っているように嫌《いや》に長く見える。衣桁《いこう》に脱ぎすててあるふだん着の紅絹《も み》裏《うら》を見ても焦々《いらいら》する。
(どこで寝ているのか?)
考えざるを得なかった。
「畜生、帰って来たら」
坊主枕を、投げつけて、自分の迂愚《うぐ》を嗤《わら》ったが、その怒りが、すぐ欣《よろこ》びの動悸《どうき》になって、
「おや?」
蚊帳《か や》から首を出したのである。
「——お蔦かい?」
云うと、表の雨戸の外で、
「こん晩は。——こん晩は」
男の声であった。
ちと落胆《がつかり》しながら、
「誰だい」
「使い屋でございます。ちょっと、お開けなすって」
「使い屋? ……お蔦からの使いか」
「へい」
寝衣《ねまき》のまま起き出して、手さぐりで土間に降りると、蚊ばしらが、顔を打って、蚊が口に入る。
何気なく、
「ご苦労だな。ベッ……」
蚊を、舌の先から吐き出しながら、がらりと、開けると、
「うぬッ」
肋骨《あばら》へ、いきなり、匕首《あいくち》だった。彼が除《よ》けて仰向けに倒れるのと、外の人間がかたまって躍《おど》りこんだのと、息一つの差がなかった。
「なぶり殺しにしろッ」
大刀《ど す》と大刀《ど す》の中から昼間の闘鶏《と り》師《し》の声がする。仲間を糾合《きゆうごう》してきたと見えて、台所の戸も途端に外《はず》れていた。蚊帳《か や》の吊り手が落ちる、今戸焼の釜が砕ける。庄次郎の頭を掠《かす》めて一つの脇差は柱のこばへずしんと勢いよく斬りこんでいた。
「あっ、くそッ」
彼の手から噴《ふ》いた白い光は、人間の脛《すね》にこつんと当たった。その隙《すき》に、薪《まき》のような物が、彼の後頭部を撲《う》った。猛然と、蚊帳を踏んで躍り立つと、庄次郎の巨きな体は、敵を威圧するに役立って、五、六人は台所の方へ、四、五人は表口の外へ、半分ずつ分かれて退《ひ》いた。
「火を放《つ》けるぞっ」
「男らしく、素ッ首を出すか、立ち腹を切るか」
罵ることによって、先頃からの鬱憤《うつぷん》と仲間の意趣をはらすように、つらね科白《せりふ》で裏表から云うのだった。
「汝《てめ》ッ方《ち》のような、青侍に、カスを喰って泣き寝入りをするような闘鶏《と り》師《し》たあ、闘鶏師がちがう」
「江戸にだけでも二、三百、駿府《すんぷ》、甲府、上州と、仲間の眼だけが集まりゃ、旗本の一軒や二軒、屋台骨を揺り潰《つぶ》すぐれいなことは朝飯前だ」
「うぬを片づけてから、武島町の古屋敷も、たたき潰《つぶ》してやらなけれやあ、闘鶏師の面《つら》がたたねえ」
「舌でも噛め、後は、火葬にして、こんがり、焼いてやらあ」
ばりばりッと、家の中で凄《すさ》まじい音がした。逃がすなっ——と彼らが家の横へ迫ったときには、庄次郎はもう竹窓を破って飛び出していた。
大刀《ど す》と、棒と、匕首《あいくち》とが、挟撃《きようげき》して喚《わめ》き立った。庄次郎は眼の中へ流れこむ汗を怺《こら》えて善戦したが、相手の数は少しも減らなかった。二、三の者へ傷《て》を負わせたのは確実だが、同時に自分も撲られたり掠《かす》り傷《きず》に染まっている。のみならず、敵はあり余る手にまかせて、小石を拾ったり、雑草を根こぎにして投げつける。そのうちに庄次郎は、肩から両腕、棒のような凝結《こ り》に、刀の重さがこたえて来るし、口は鞴《ふいご》みたいに渇いた呼吸《い き》を大きくする。