三
膳部《ぜんぶ》や、銚子《ちようし》を持って、幾たびとなく、帳場の前を往来する女中たちが、
「お帳場さん、お天気だね」
「ウム、いいあんばいだ」
「あれさ、お前さんの、ご機嫌のことだよ」
「ご機嫌か」
「いやにニコついているじゃないか。何か、奢《おご》んなさいよ」
「はははは」
「あれ、また笑うよ、薄気味が悪いね」
すると、空膳《からぜん》を下げて来た女中が、また、足を止めて、
「お帳場さん、桐壺《きりつぼ》のお客が、ちょっと、お前さんに顔を貸してもらいたいって。——ほかのお客はもうお帰りだから、すぐ行っておくれ」
「お客が? ……はてな、どんな人だ」
「若いお武家」
「武家は苦手《にがて》だ。断わってくれ」
「駄目だよ、先で、姿を見ているんだもの、留守とも云えないだろう。きっと、ご祝儀でもくれるのかも知れない」
「嫌《いや》だなあ」
まったく、辛《つら》そうだった。
夕顔だの、松風だの、部屋の名は源氏の帖《じよう》の名をつけてある。桐壺は、離れだった。侍と云えば叔父ではないか、榊原健吉ではないか、と臆病《おくびよう》が先に立つ。
怖々《こわごわ》、濡れ縁の端から、中を覗《のぞ》いて、
「ええ、当家の、帳場の者でございますが……」
ひょいと見ると、客は渋沢栄一だった。白っぽいうす菊花石《あ ば た》が、ひと粒ひと粒笑っていた。
「しまった!」
庄次郎は、頭を抱えて、逃げかけた。渋沢は、縁から手をのばして、その腕をつかみ、以前よりも、親しみのある声で、
「君っ、なぜ逃げるのか」
「面目ないっ」
「どうめされたのじゃ、その姿は」
「今日のところは、お慈悲だ。——知らぬ他人と思って」
「水くさい。まあ、話そう」
「いや、そのうちに……そのうちに、きっと、借用の金子《きんす》も、ご返済いたすによって」
「金子じゃと……。なんじゃ、あれは、その節、お祝いの寸志として、貴公へ進呈したものじゃないか」
「えっ?」
疑う眼を、渋沢は、笑って、その背をどやすように、叩いた。
「上がりたまえ。まあ、上がりたまえ!」