目が覚めて、食堂へ行き、郵便物に目を通そうとすると文字がよく見えない。先日からにわかにそういう症状が出てきた。
その按配《あんばい》があまりに急激だったので、眼病かと調べてもらったが、ただの老眼だった。
もう一度部屋に戻って、生まれてはじめてつくった眼鏡を持ってくる。
ある週刊誌を眺めていると、「オレの酒のサカナ」というアンケートにたいしてのいろいろの人の回答が並んでいる。味覚についての意見は、片寄るようだ。稲垣タルホ入道の持論としては、「食いもののことをとやかく言う男に、ロクなやつはいない」ということになる。この頁では、三好徹がその傾向の意見を述べているが、河野典生さんの意見がおもしろかったので、引用させてもらう。
「ぼくは視覚や聴覚に関する質問にはよろこんで答えるのですが、嗅覚《きゆうかく》や味覚については、どうも困ってしまうのです。照れくさいというか、面映ゆいというか妙にいたたまれない気分になってくる。味覚嗅覚とも粘膜による感覚のせいか……」
この「粘膜による感覚のせいか」というところが、おもしろい。私も気分としてはそのことに賛成だが、実際には味覚についての随筆を読むのは好きである。食べ物にたいしての興味も、今年はとくに深い。去年一年寝こんでしまって、まったく食欲がなかったことの反動もあるのだろう。
河野典生にしても食欲がないわけではなく、それについて語るのが厭《いや》なのだろう。
ところで、私はしばらく食べ物が顔を出す話を書くつもりである。
今年は食欲|旺盛《おうせい》になったために、対談という仕事がすっかり下手になってしまった。私の対談集の広告などに、「対談の達人」などという文字が使われていることがある。良い出来栄えのものがないわけではないが、それは相手を選ぶためである。もともと、私は人間嫌いに近いが、一方ジャーナリズムにつながっている人間なら誰にたいしても許す気持をもってしまうところもある。
くわしく考えれば、その中にも好き嫌いはある筈だが、そこらあたりは甚だ大ざっぱである。
したがって、それ以外の分野の人との対談は、ほとんど断わっている。これなら、うまくできるのも道理なのだが、ただ必要なのは、お互いの呼吸を計りながら慎重に話をすすめて行くことである。ところが、味覚が気になりはじめると、食べ物のほうに頭が向いてしまって、話がおろそかになる。
その上、このごろ酒が弱くなってきて、家で飲んだときには、かならず二時間ほど眠ってしまう。さすがに、対談の席では眠くはならないが、その替り「もうどうでもいいや」という気分がおこってくる。
料理と酒のバランスがうまく取れた場合には、
「ああ結構でした、もう帰ろうや」
と口走って、主催者側に引止められたりする。
まさか本気で言っているわけではなく、引止めるほうにしても真剣ではなく、馴れ合いの冗談のようなものだが。
そこで、この前のときには、三十分間は料理を出さないことにしよう、と作戦を立てた。しかし、ゲストに気の毒なので、食前酒とオードブルだけは出してもらった。ところがこのごろのレストランは、一皿の分量が甚だ多いところが増えていて、このときもスープのあとで食べる筈の料理のようなものが出てきた。結果は同じになってしまい、今度はわざとマズイ家を会場に選ぼうか、と半ば本気で考えている。