路地を伝わって「銀の鞍」に至ろうとする。ようやく、見覚えのあるビルが見え、「銀の鞍」の裏側にきたことが分った。
ビルとビルとの谷間の路地を突当り、左へ曲って表通りに出れば、目的の場所へ着くだろう、とおもった。店のすぐ裏だが、はじめて歩く路である。
路地を突当って左へ曲ると、路の幅がにわかに広くなっていた。しかし、その路はすぐに狭くなり、大通りに開いている肩幅ほどの出口が見えている。狭い食道を抜けて、胃の腑の中に落込んだ感じである。
ゆみ子は立止り、ゆっくりと周囲の光景を見まわした。黒と鼠と灰白色の風景である。いや、目の前に古びた木の扉があり、柄を赤く塗った竹ボウキが立てかけてあった。扉の上には、埃だらけの日除けが張出されている。すでに日は落ちていたが、扉の上の軒灯は点されていない。大きな真鍮《しんちゆう》の錠前が、扉の上の縁に吊り下っている。
ゆみ子は、視線を扉の下から上へ這わせ、空を眺め、地面を見る。足もとの崩れたコンクリート舗装に、四角い木の蓋がある。木の色が新しく、鉛色の釘の頭がたくさん並んでいる。
扉の横に、円筒形の古いブリキの樋《とい》がある。その管を縄が一巻きして結び目ができている。縄は古く黒く、腐りかかっている。何のための縄なのか、まったく分らない。
木の扉は、休業中の酒場のものであろう。その扉からおよそ二メートル離れて、もう一つの扉がある。同じ木の扉だが、さらに幅が狭く、痩せた人間がようやく通り抜けられるくらいにしか見えない。コンクリートの古いビルの横腹に、その木の扉は嵌めこまれている。
『山田医院』
扉に嵌められた黄色く変色した磨ガラスに、墨文字でそう書いてある。ほかに、看板はどこにもない。何の病気のための医院か、分らない。ビルの横腹を眺め上げる。
一階、二階、三階、窓は全部閉ざされている。細長い、エンピツのような建物である。四階の窓の一つから、突出しているルーム・クーラーの尻がみえた。
あの窓の中が、医院なのかもしれない。いま、その中に、医者と患者がいるかもしれない。しかし、路地にも建物にも、人間の気配はすこしも無かった。
ビルの隣に、コンクリートの壁面がある。その壁に、人間の背くらいの四角い鉄の箱が貼り付いている。びっしり一面に、赤く錆を吹き出している箱である。その箱から、幾本もの鉛の管が出て、うねうねと壁の面を這っている。
菊の花のかたちをした小さい栓が三つ、壁に並んでいる。壁から、キノコのように生えている。地面にも、釦《ボタン》のような形の栓が、二つ三つ、四つと突出している。なにか、それらは生きもののようにみえる。モグラの鼻の先のようにもみえる。
ゆみ子は蹲まって、指先でその釦のかたちに触ってみる。冷たい金属だが、ざらざらした錆のためか、かすかな体温に似たものが伝わってくる。
壁を這っている管に、耳を当ててみる。かすかに語りかけてくる音が聞えてくるような気がする。管の中には、水が流れているのか、蒸気が動いているのか、あるいはただの空の管なのか。たしかに血管をめぐる血、心臓の鼓動、それに似たかすかな気配を感じる。
人間のいない風景、それがいまのゆみ子には懐しい。ゆみ子の身に親しい。無機物が、やさしくゆみ子に語りかけ、体温を伝えてくる。
しかし、ゆみ子はやがて立上り、路地の狭い出口へ向う。「銀の鞍」へ行くつもりなのである。