この一〇〇回のエッセイは、昭和四十八年十二月十一日から四十九年四月十日まで、「夕刊フジ」に連載したものである。
エッセイの連載というのは毎回違う話を書くわけで、これは甚だ辛い。そういう仕事を引受ける気はなかったのだが、学芸部長の平野光男さんがなんの予告もなく月光仮面のオジさんのように、突如あらわれては「ヤレ」という。
ついに根負けして引受けてしまったが、かなりヤケクソで新聞連載のときのタイトルを『すすめすすめ勝手にすすめ』とつけておいた。
連載のはじまる直前に、一つの手口をおもいついた。いろいろの食物の名を列記しておいて眺めていると、なにか書くことをおもい付く。その内容は、食物のこととはかけ離れていることが多いので、書物としてまとめるときに、『贋《にせ》食物誌』というタイトルに変えた。
この手口は成功で、私は生れてはじめてといってよいくらい、気楽に原稿を書くことができた。山藤章二さんのところにはいつも数回分の余分の原稿が蓄っていたそうで、彼にイジワルなアイディアを考えるのに十分な時間を与えたことになる。
第一〇〇回が掲載になってから数日後に、私は五十歳になった。四十代の最後の仕事として、いろいろ感慨深いものがあった。
イラストを見るのも毎日たのしみで、それが仕事をつづける励みにもなった。『本モノのほうがずっといいのに、あんな絵を描かれてよく我慢してますわね。あのイラストレーターの男、いつか必ず崖《がけ》から突き落すか、コインロッカーに閉じこめてやるわ』というような女性読者からの手紙を幾通ももらった。しかし、一〇〇回愉しませてくれたことについて、私は「イラストレーターの男」に感謝している。
大へん気楽に、一〇〇回の連載を終えたつもりだった。ときどき、何回分か余分に書きすぎて、ひそかに隠しておいたこともある。ところが、部長の平野さんと担当の星裕さんはとてもカンがよくて、
「部長、どうもあの作者は、三回分ほど隠しているような気がするんですが」
「ぼくも、そうおもう」
などという会話が交わされていたようだ。
この星裕さんが私の中学の数年後輩であることが、偶然のことから分かった。それは九〇回を過ぎたところで、いささか遅かった。
中学の先輩というのはイバることができるのだ。しかし、イバっていては、きっと原稿のほうを怠けることになって、結局辛いおもいをしたことだろう。知るのが遅くて、よかったのかもしれない。
要するに、余裕たっぷりに連載をつづけたつもりであったが、終ったとたんにドッと疲れが出た。この種の連載はもうできないだろう、とおもうくらい疲れていた。
第九一回で、この連載が書物になるときには、本人とはおもえぬほどステキな写真を入れると予告したが、改めて一〇〇回分のイラストを眺めているうちに、その気持がなくなった。もし私に絵の才能があるならば、「あとがき」には山藤章二の似顔を描いてやるのだが、残念である。
最後に、この書物をまとめるに当って、丹念な仕事を見せてもらった新潮社出版部の田邊孝治さんに感謝する。