私が愛用している傘は、ボタンを押すとパッと開く種類のものである。七百円くらいで、よくその値段でつくることができると買うたびに感心する。念入りなことに、傘を収める細長いケースまで付いている。
三本くらいまとめて買っておくのだが、雨降りの日に持って出て、途中で晴れたりすると、気が付いたときにはだいたい行方不明になっている。客がきているとき、雨が降り出すとその傘を渡す。貸したワイ本と傘は帰ってくるためしがない、というのが常識だから、最初から進呈してしまう。
街を歩いていて、雨が降り出したときには、困ってしまう。
傘を売っている店というのは案外こういうときには見付からないことが多い。とくに、商店の閉店後の時刻には、どうしようもない。
こういうときには、念のためにパチンコ屋を覗いてみるとよい。三百五十個くらいの玉と交換してくれる店がある。それだけの玉を買って、そのまま換えてもらえばよいわけだ。
これは、生活の知恵。
街を歩いていて尿意を覚えたときには、パチンコ屋を利用させてもらう。無料では悪いから玉をすこし買って、急ぎの用のときはなるべく出そうもない台を選んで、素早くアウトの穴へ入れてしまう。
なぜ便所のことを言ったかというと、このごろのパチンコ屋は、明るい感じになってきた。昔は、台そのものも薄汚れているのが多くて陰気だったし、ヤクザのチンピラの景品買いがしつこく声をかけてきたりしていた。
このごろは、車椅子に乗って、玉を弾いている人をときどき見かける。そういう人を見ると、便所のことが心配になるのだが、
「これからパチンコ屋へ行こう」
と支度して出かけたときには、便所へ行かないで済むことに気づいた。あらかじめ排尿して出かけるためもあるが、玉を弾くことに気分が移って、尿意を忘れているためもあるだろう。昨年一年間、近所の店で私が便所を使ったのは、一度だけである。
咽喉《のど》が乾くので、ときどき水分を摂《と》っているにもかかわらず、便所へ行かないで済んでしまう。
サイダー、ファンタ、コーラなど、いろいろと置いてある。
四十年も前から、清涼飲料水ではラムネとキリン・レモンを私は愛用している。ほかのサイダーはかすかに色がついているが、キリン・レモンは無色透明なことと、甘味がすくないような気がして、私の好みに合ったのがその理由である。
ところが、近所のパチンコ屋では、私はキリン・レモンは飲まない。
玉とその飲料を交換するためには、係の人に玉を渡して品物を受取るので、面白味がない。
コーラとファンタの場合は、四角い箱の蓋を開け、二十個の玉を渦巻状の溝《みぞ》に並べてからボタンを押す。そういう作業がおもしろいというのは幼児性のあらわれであるが、その段取りによって一本の瓶が手に入る。
コーラはアメリカ帝国主義の産物であるから、ぜったい飲まないという人物がある。本気かシャレか分からない。本気だとすれば、そんなことを言っていたらきりがない。私はコーラの瓶を掴《つか》み、箱に付いている栓抜きで蓋を取り、掌でぐいと瓶の口を拭ってラッパ呑みにしながら、玉を打ちつづける。しかし、考えてみれば、掌で拭うほうが不潔なのだ。