「一汁一菜」といえば粗食を指しているが、戦争直後の外食券食堂では金さえ払えば「一汁三菜」も可能であった。しかし、その食べ物はすべて茶色がかったものばかりで、やはり豊かな食卓には豊かな色彩が必要である。
ある日の夕方、大学から私鉄の駅まで帰ってきた。右へ歩けば、下宿の方角である。左へ行けば気の置けない友人の家で、そこには美人の妹がいる。食堂にもよらずに、左へ歩き出した。
空襲で焼け残ったその家の玄関から訪れてゆくのを省略して、芝生のある庭にまわり、縁側のほうから声をかけようとした。
そのとき、家の中の様子が目に映り、私は困った。食卓を囲んで、友人の家族が夕食をはじめようとするところだった。
美人の妹が、カンヅメの蓋を開けて、鮭の肉を白い皿に移そうとしている。その母親は、飯ビツの蓋を取り、ゆらゆら湯気の立っている真白い米の飯を、茶碗に移していた。ドンブリではなく、茶碗なのである。
その茶碗の小ささが、豊かにみえた。鮭の薄桃色と飯の白さが、目に染みた。
そういう鮮かな色をもっている食い物があることを長いあいだ忘れていたし、そういうものを食べている人間たちがいる、ということも忘れていた。
「一汁一菜」というが、白い飯と、ピンク色の鮭と、ケンチン汁風の吸物の食事は、いまではどうということもないがこの上なくゼイタクにみえた。
その日の昼間は、一握りの大豆を醤油で炒めたものを食べただけだ。
「あら、いらっしゃい。いま、食事するところなのよ」
その家の主婦が、愛想よく声をかけてきて、
「お食事、まだでしょう。ご一緒にいかが」
こう書いてきて、私はフシギな気がしてきた。なぜ私は食事どきに、訪れたのだろう。物資の豊富なときでも、そういう時刻の客は面倒なものである。とくにあの時代に、不機嫌な声を出さずに応対できたものだ、と感心する。しかし、そのときの私は、その声の裏に事務的なよそよそしさが潜んでいるように感じた。
「いや、ぼくはいま済ませてきたところです」
外食券食堂で食事をしていることを、友人の一家は知っているので、私の返事はウソともおもえなかっただろう。縁側に腰かけて、食事の済むのを待とうとした。芝生の緑が目に映ってくる。
背後では、四人の男女の食事する音……、ものを噛む音や食器の音がひびきはじめた。
「縁側に坐っていると、気にかかってイヤだろうな」
と、私は自分がその場にいることについて考えたとき、
「もっと、なにかカンヅメでも開けましょうか」
という美人の妹の声がきこえ、
「めんどうくさいから、これでいいわ」
その母親の返事が、きこえてきた。
このときのことを思い出すと、私はいまでも自分が厭《いや》になり、世の中が厭になり、なんだか眠たくなってくる。
縁側に坐っている自分の背中の線が目に浮んできて、それが卑しく前かがみになっているようにおもえた。立上がって背をのばし、庭をぶらぶら歩いているような素振りで、玄関のほうへまわった。
はやくこの家から遠ざかりたい、とおもい、道へ出ると小走りになった。
そういう自分に嫌悪の情を覚えたが、坐りつづけていても仕方がなかった。