子供のころは、ものを食べるとき本を読むクセがついていた。とくに塩センベイが好きだったので、頁のあいだが細かいカケラだらけになってしまう。そのころは、読書はこの上ない愉しみで、その喜ばしさを倍加させるためにセンベイをかじる。
青年になってからの読書には、子供のころほどの嬉しさが消えてきたので、ものを食べながらということもなくなった。その替り、食事のときには、新聞を読む。
二十五歳くらいになると、そういう恰好を見苦しくおもい(一人だけのときでも)はじめたので、十数年間やめた。
その後、朝食のときだけ、新聞を読むクセが復活した。
朝はトーストと紅茶またはコーヒーであるから、新聞も読みやすいのだが、悪癖の一つだとおもっていた。
十年ほど前、ローマの大きなホテルの食堂で、アメリカのジャーナリストとみえる中年の男が隣の席に坐っていた。オープン・シャツで、椅子に斜めに腰かけて足を組み、新聞を拡げて眺めながら朝食を摂《と》っている。その恰好はいかにも俊敏なジャーナリストという感じで、悪癖ときめるわけにもいかないな、とおもった。もっとも、ヨーロッパ人の眼には、「だからアメリカ野郎は困るんだ」と映ったかもしれない。
ところが、女のこういう姿にたいしては、私は絶対に厭である。編集者をしていた二十四、五歳のころ、同年輩の女子社員に緊急の仕事を言いつけた。その女は、新聞を読みながら弁当箱をひろげて昼食をたべていて、食べ終ってもいつまでも腰を上げない。
その女の平素の振舞いが腹に据えかねていたこともあって、カッと腹が立った。私が怒るのは、十年に一度くらいなのだが、
「はやく仕事に行け、だいたいテメエはケツが重いんだ」
と怒鳴ると、腕を掴んで椅子から体を持ち上げ、その尻を蹴上《けあ》げてやった。
その女は驚いて、社から走り出していった。私がめったに腹を立てない証拠には、そのあと同僚がその女に、
「あの男はぜったい腹を立てないのだから、今度はよくよくのことだとおもいなさい」
と、注意したことで、分かるとおもう。
話は替って、コーヒーのことだけになるが、前回にも書いたように私は少青年時代にはこの飲料を胃に入れると、気分が悪くなっていた。喫茶店へ行くともっぱら紅茶で、それも砂糖を入れずプレーンで飲む。
都会の中学生は早熟なのが多く、そのころ友人と喫茶店へ行くと、私は紅茶のプレーン、友人はコーヒーをブラックで飲む。
その友人とはいまでもつき合いがあるが、私にはコーヒーのブラックというのが気に入らない。
「おめえ、それはすこしキザじゃないか」
といって、口論になったことがあった。
以来数十年経って、「あのときあのヤローは砂糖もミルクも入れないのをブラックと称していたが、砂糖だけ入れるのをそう呼ぶのではあるまいか」という疑問が起ってきて、何十年も正解を知らないまま過ぎてしまった。
この機会に、夕刊フジのHさんこと星裕さんに、例のごとく調べてもらった。アメリカ式コーヒーでは、砂糖ミルク抜きで飲むことが多く、これをブラックと称するようである。しかし、ヨーロッパのものは濃くて苦いので、すこしは砂糖を入れる。なかにはそのまま飲む人もいるが「ブラック」という言葉は使っていないようにおもえる、とヨーロッパ生活が長かった人が言っていた、という回答が戻ってきた。