誰《だれ》かが身体《からだ》を洗ってくれた。誰かが部屋《へや》に運んでくれた。誰かがベッドに寝《ね》かせてくれた。誰かが毛布をかけてくれた。
そして誰かが、夢《ゆめ》の中で囁《ささや》いた。
野球? 野球をやるならキャッチャーをやれ、サッカーだったらえーとゲームメーカー? とにかくチームに指示を出すポジションをやれ。監督《かんとく》だったら最高だ。
小学生は監督できないよ。
そうだな、そこが残念なとこだ。よーしユーリ、キャッチャーをやれ。お前がサインをださないと、ゲームはずっと始まらないぞ。
「……おれがサインをださないと……ゲームはずっと……」
「お気がつかれましたか」
ぼんやりと白い天井《てんじょう》が見える。覗《のぞ》き込んでくる超《ちょう》美形の灰色の髪《かみ》も、紫《むらさき》の瞳《ひとみ》が潤《うる》みかけて、泣きそうな微笑《びしょう》で唇《くちびる》を噛《か》んでいる。
「……おれ……死んだんだっけ」
「縁起《えんぎ》でもないことをおっしゃらないでください、一時は陛下のお身体を案じて、国中|皆《みな》で祈《いの》りましたのに」
「大袈裟《おおげさ》だなぁ」
ギュンターはとんでもないという感じに肩《かた》をすくめた。
「大袈裟ではありません、三日も眠《ねむ》ってらしたのですよ」
「三日も!?」
「そうです。けれど今朝からは通常の睡眠《すいみん》になり、疲労《ひろう》が回復すれば目が覚めるだろうと医師が申しておりました。お身体の方には、何ら異常はございません」
「だろうと思った、いやに腹が減ってるから」
それにしてもあんな炎《ほのお》の化物に倒《たお》されたにしては、目立った傷も火傷《やけど》もない。よっぽど頑丈《がんじょう》にできているのか、それとも誰かがタオルを投げてくれたのか。
「本当に、陛下が水の術を使いこなされたときには、私《わたくし》ばかりでなくグウェンもコンラートも仰天《ぎょうてん》いたしました。いつのまに水の要素と盟約を結ばれたのですか? それも具現形態も見事な美しい蛇《へび》でした。一体いつ……」
「水の術? 要素、盟約? 何の話だよ何の。ああそうだ、あの女の子は無事!? あの、燃える狼に突《つ》っ込まれちゃった彼女」
「あ、ええ、幸い命に別状はありませんでした。もっともヴォルフラムの炎が突っ込む直前に、グウェンダルが彼女を障壁《しょうへき》で覆《おお》ったので、実際には軽い波動というか衝撃《しょうげき》で弾《はじ》き飛ばされただけなのです」
グウェンダルが? ああ見えて結構いい人なのだろうか。
「にしても。そか、あーよーかったぁ、おれ気がちっちぇーからさ、女の子が大火傷したらどうしよう、もしかしておれのせいか、おれの責任問題なのかっ!? って思ったら、かーっと頭に血が昇っちゃって……あれ、おれどうしてやられちゃったんだろ」
「やられ……いいえ、いいえ陛下、陛下は決してヤラレてなど……」
「いーんだよ慰《なぐさ》めてくれなくともぉー。もともと勝ち目のない勝負だったじゃん。きっとめちゃめちゃ怖《こわ》かったんだろうなー、記憶《きおく》がなくなるくらいだもん」
おれは筋肉をほぐそうと、首をコキコキ鳴らしながら、コンラッドの聞き慣れた「こうなると思った」を待った。けどその言葉はかけられなかった。近くに彼はいなかったので。
「コンラッドは、どうしたの、仕事?」
「仕事、です。実は国境近くの村で紛争《ふんそう》があり、グウェンダルと共に鎮圧《ちんあつ》に出向いています。陛下のご容体が深刻でないとは判《わか》っていましたが、後ろ髪を引かれる想《おも》いだったでしょう」
後ろ髪を引かれるとか馬の骨とか、どこの国にも似たような慣用句があるもんだ。
開け放たれた扉《とびら》の向こうから、わざとらしい咳払《せきばら》いが聞こえた。
悪魔《あくま》のプリンス、ヴォルフラムが、むっとした顔で立っている。本当は魔族のプリンスなのだが、こっぴどく痛めつけられたであろうおれにとって、彼の形容詞はデビルとかサタンしか思いつかない。地獄《じごく》とかヘルとかブラッドとかつけて、B級映画のタイトルにしてやりたいほどだ。
珍《めずら》しくくすっと小さく笑って、ギュンターが声をひそめて教えてくれた。
「あのあと、ツェリ様からお咎《とが》めを受けたのですよ、ヴォルフラムは」
「へえ、あのお袋《ふくろ》さんが子供を叱《しか》ることなんてあんのか」
「あの方の怒《いか》りをかうくらいなら、私は……」
「余計なことを話すなギュンター!」
叱られたという三男が、靴音《くつおと》も高らかにベッドに寄ってくる。おれから微妙《びみょう》に視線を外していて、斜《なな》め上向きなのが不自然だ。
「それでは後は若いかた同士で」
意味深長な言葉を残して、年寄りは部屋を去ってしまう。待ってー、二人きりにしないでー、というのが本音だが、おれは俯《うつむ》いて黙《だま》り込み、相手の出方をうかがった。
「まだまだだな!」
ヴォルフラムは、ぶっきらぼうにそう切りだした。
「はあ?」
「少しはやるかとも思ったが、あの程度でみっともなく失神するようでは、お前など魔王としてまだまだだなッ」
腕組《うでぐ》みをして顎《あご》を上げたままだ。偉《えら》そうだよこいつ。
「今後ぼくに挑《いど》むときには、もっと力をつけてから来い! あんなちんけな蛇の一|匹《ぴき》二匹では、ぼくの炎術《えんじゅつ》に対抗《たいけつ》できはしないからなっ」
「だから蛇ってなに? おまえ母親に叱られて、おれに謝りにきたんじゃねーの!? なのになんだよそのえっらそーな態度! 反省の色がみえねぇじゃん」
「何故《なぜ》ぼくがお前に謝る必要がある」
「だって勝手にルール変えるし、おれが知らない魔法は使うしで……ああ……もう……」
最終的には負けたのだと思い出す。なにしろクライマックスの部分だけ、きれいさっぱり忘れちまってるのだ。多分、負けたんだろうなー、ギュンターはおれを慰《なぐさ》めようと、やられてないなんて言ってくれたけど。
「もういいや、引き分けだよ引き分け。引き分けただけでも上出来だよ」
「引き分けだと!? あれは最後まで戦いを全《まっと》うしたぼくの勝利だ! だが恥《は》じることはないぞ。どちらが勝者かはあらかじめ判っていたことだ。お前ごときに倒されたら、十貴族として申し訳が立たない」
「……」
もう口答えする元気もなくなって、おれはただただ溜息《ためいき》をついた。ヴォルフラムは機嫌《きげん》を良くしたのか、敵ながら天晴《あっぱ》れだった場面を講釈《こうしゃく》してくれる。
「しかしぼくの剣《けん》を弾き飛ばしたのは中々だった。ああいう打ち込み方は初めてだ。お前の育った国の剣術なのか?」
「どれ? ああ、あの満塁《まんるい》ホーマーか。違《ちが》うよ、あれは剣道とか武道じゃない。あれはおれがたまたま野球やってて、貰《もら》った剣のグリップがバットに似てたから同じように握って、いつもの癖《くせ》でああ振《ふ》っちゃっただけのこと」
「グリップとかバットとかは、ユーリの使い慣れた武器の名か」
「ちーがーうーよー。それは棒みたいな野球の道具で、他にグラブとかボールがあって、ピッチャーが投げた球をバッターが打って、成功したらバッターはランナーになって、そのランナーをキャッチャーが殺してェ」
「やはり生死をかけた勝負なんだな」
「殺すってそういう意味じゃねーよーぉ。もっと楽しいことなの、もっと興奮すること」
「わからないな、球を棒で打って何が楽しいんだ?」
「あああー、実際に見てもらわなきゃ野球の面白《おもしろ》さはわかんねぇって! ああでもおれ一人じゃやってみせようが……かといってこの国でのベースボール人口は、おれとコンラッドとあの子たちしか……」
「ぼくと話しているときに、コンラートのことなどどうでもいいだろう」
次兄が話題に上ったせいか、三男はちょっと気分を害した様子だ。
「あいつなら、贔屓《ひいき》の人間どもの村に行っている」
「え? 紛争だかもめごとだかって……」
国境近くの村の、子供たち。ブランドン、ハウエル、エマ、名前を聞かなかった二人。
「そう、難民に貸した我々の土地だが、この時期は早場の麦が実るからな、周囲の村に狙《ねら》われやすい。昨年は豊作だっただけに、今年はなおさら危険だろうな」
血が、急にひいてゆくような気がした。前触《まえぶ》れもなく血圧が上がって、頭がぐらついて耳鳴りがする。ベッドに座っているはずなのに、底のない深いところへ落ちてゆく感覚。
「なんだ、気になるのか? そうか、ユーリも半分は人間だったな」
「どれくらい……被害《ひがい》ってどれくらいの規模なんだろ……まさか死人が出たりとか、そんな大変なことじゃないよな……」
「死傷者のない争いなど聞いたこともない……どうしたユーリ、手洗いか?」
「ちがうよッ」
主に空腹と脱水《だっすい》でふらつく身体を、やっとのことでベッドからひきずりだして、おれは足元に靴を探した。
「行かないと。あいつらがどうなったか、確かめないと」
「行くって、はあ? 国境へか!? そんなにコンラートの顔見に行きたいのか!?」
「子供たちが心配なんだよっ」
拍子抜《ひょうしぬ》けした声になる。
「ああ、難民の心配か」
「うるせーなっ、お前にかんけーないだろッ」
「関係なくないぞ! そんな格好で行くつもりか? きちんと服を着ろ、それに髪も整えろ、寝癖《ねぐせ》がすごいぞ寝癖がっ。それに時刻をわきまえてるのか、せめて夜が明けるまで待て、それまでに何か飲んで腹に入れろ。ああ、食べすぎても困る、胃の中身をかけられてはたまらないからな」
そこまでまくしたてるとヴォルフラムは、扉の向こうに声をかけた。最初の少女とは違った女性が、食事と服をと命じられ戻《もど》ってゆく。
「よし」
「よ、よしってェ」
ブロンドの王子様は不遜《ふそん》に言った。
「行きたいのだろう? 乗せてやる」
あんなに険悪な関係だったのに、ご親切に乗せてくれるとはどういうことだ。もしや故意に落馬させて、今度こそ命を奪《うば》おうという魂胆《こんたん》なのか。果たしてこいつの相乗りさせてもらって、いいものか、それとも罠《わな》なのか。おれの数秒間の葛藤《かっとう》をよそに、ヴォルフラムはますます偉そうにしていた。
「なにしろ馬にさえ独力では乗れないという、能無し魔王陛下だからなユーリは! ぼくにとっては余分な荷物を積んで馬を走らせるなど雑作のないことだが、お前はそれさえ覚束《おぼつか》ないようだ。歴代の魔王の中で初めてだよ、お前ほどどうしようもないへなちょこ陛下は!」
「へ、へなちょこ言うなーッ」