眼下では中断された試合が再開してすぐに、斧使いのヨザックが大シマロンの二人目に武器をはじき飛ばされた。先程までとは明らかに異なり、動きは精彩を欠いている。拾う|隙《すき》も与《あた》えられず、両手をゆっくりと肩の高さに上げる。
「……あ……」
締《し》めつけられたフリンの声帯からは、低い溜め息しか漏《も》れなかった。苦しさのあまり頬《ほお》を流れた|涙《なみだ》も乾《かわ》き、腕《うで》や|膝《ひざ》にも力が残っていない。気怠《けだる》いのは酸素が全身に行き渡らないせいだ。満足な呼吸を求めては、指先が無駄《むだ》な|抵抗《ていこう》を繰《く》り返した。
「見るがいい。貴様ごときの命のために、立派な戦士が自尊心を捨てている。おかしな話だ。あの男は本当の武人だ。女子供は知りもしないだろうが、苛烈《かれつ》な戦場を生き抜《ぬ》いてきた本物の男だぞ」
アルノルド還《がえ》りの経歴は、武人にとってはある種の称号《しょうごう》だ。
「なのに、こんなくだらん女の首一つのために、計り知れない|屈辱《くつじょく》を受け入れようとしている……あの黒髪黒瞳の一派は実に|妙《みょう》だ。|奇妙《きみょう》すぎて理解に苦しむな。まあいい、この調子で三戦目も自粛《じしゅく》してくれれば、少しは私の胸もすく……ぐっ!?」
不意に喉が楽になり、倍の空気が流れ込む。糸が断ち切られたのだ。縛められていた喉が自由になって、フリンは前のめりに膝を突《つ》く。新たな涙の滲《にじ》む目で見上げると、利《き》き腕と首に桃色《ももいろ》の革《かわ》を巻き付けて、マキシーンが入り口を|凝視《ぎょうし》していた。
皆《みな》の|驚愕《きょうがく》の視線の先には、絶世の美女が勇ましい姿で立っていた。緩《ゆる》やかに波打つ長い髪《かみ》と、抜けるように白い肌《はだ》。湖底を思わせる翠《みどり》の瞳は、正義感できらきらと光っている。
「そこの悪人、その手をお離《はな》しなさい! でないと必殺の鞭《むち》が舞《ま》うわ。美しきものを汚《けが》す罪人は、このあたくしが許さなくてよ!」
「貴様何者だッ!? それと、警告は攻撃《こうげき》より先にするように」
後半部分の苦情には耳も貸さず、女性は鞭を片手に優雅な足取りで入ってきた。|自慢《じまん》の巻き毛は腰《こし》まで伸《の》びて黄金に輝《かがや》き、自慢の武器は悩ましい桃色の革でできていた。軽くて細くて長くて|丈夫《じょうぶ》、空中で自由自在に操《あやつ》れるという名工の手がけた逸品《いっぴん》だ。
「愛ある限り闘《たたか》いましょう、美熟女戦士、ツェツィーリエよっ! どーおこれ? アニシナに小説の企画《きかく》を渡《わた》したのだけれど、実験ばかりしていて書いてくれないのよ。あたくしだって子供達の|英雄《えいゆう》になりたいのにィ」
なかなか的確な自己申告だが、お約束文句に独自性がないようだ。一回転して|両腕《りょううで》を頭の後ろに。これが官能決め姿である。本日も|大胆《だいたん》な切れ込みで、背中は|殆《ほとん》ど丸出しだ。
利き腕と首を鞭で拘束《こうそく》されたマキシーンが、言ってはならないことを口にした。
「なんだこの、ケバい、露出狂《ろしゅつきょう》の、年増女は」
「……なあんですってぇ……?」
その場の全員が|凍《こお》りつく。
お待ちくださいその男は少々幼女|趣味《しゅみ》な部分がございまして病《や》んでるのでございまして決してアナタサマが年増女に見えるというわけではケバいなんてそんなとんでもございません、とサイズモアが言い訳するより早く、ツェリ様は自力で逆襲を果たしていた。
「今なんて言ったのかしら聞こえなかったわぁぁぁぁっ!」
目に見えぬ速度で|唸《うな》る鞭が、マキシーンの全身を嘗《な》めまわした。あまりに一撃一撃の間隔《かんかく》が短すぎるため、犠牲者《ぎせいしゃ》の悲鳴も長くは続かない。ただ「ぎゃ」とか「ぎゅ」とか「ぎょ」とかの二文字の呻《うめ》きが、破れ飛ぶ布きれと|一緒《いっしょ》に連続して漏れるだけだ。
初めチョロチョロ中パッパ、女王泣かすな|怒《おこ》らすな(|眞魔《しんま》国文語体表記)の|厨房《ちゅうぼう》格言に、マキシーンは背《そむ》いてしまったのだ。元女王の逆鱗《げきりん》に触《ふ》れた者は、誰一人として多くを語ろうとしない。
「……ん、が、ぐっ、くっ」
細身の鞭の奏《かな》でる狂想曲がようやく終わると、男は喉に何か詰《つ》まらせたみたいな息を吐《は》いて|崩《くず》れ落ちた。来週もまた見てくださいねと続けたくなる。毛足の長い豪奢《ごうしゃ》な絨毯《じゅうたん》に横たわる姿は、掃除《そうじ》用具のモップ状になっていた。
無惨《むざん》なまでに、ボロボロだ。
「飲物が届くのが遅《おそ》いから、待ちくたびれて廊下《ろうか》に出てみたのよ。そうしたらなぁに? 悪人が女の子を虐《いじ》めているじゃない。そういう卑怯なことは許せないの。確かに美しさは罪だけれど、だからって首を絞《し》められる謂《い》われはないわ」
尖《とが》った靴《くつ》の|爪先《つまさき》で、意識を失って転がる|身体《からだ》を軽くつつく。
「美しい花には棘《とげ》があるものよ。どうしても手に入れたかったら、技《わざ》ではなく男を磨《みが》くことね。はい、シュバリエ」
お供の|金髪《きんぱつ》青年に鞭を手渡《てわた》すと、彼は|手際《てぎわ》よくマキシーンを縛《しば》った。何もかも心得ている様子だ。
「こ、これは、ツェツィーリエ上王陛下、何故《なぜ》このような場所に……」
先代|魔王《まおう》は人差し指を唇《くちびる》にあて、しーっと小さく注意した。
「そんな|無粋《ぶすい》な名前で呼ばないで|頂戴《ちょうだい》。あたくしはもはや一人の自由恋愛人。地位とも権力ともお別れしたの。この身この|掌《てのひら》に残されたのは、愛と|美貌《びぼう》と清らかな心だけよ」
他《ほか》の誰かが口にすれば、反感を買う言葉だろう。だが彼女には絶対の説得力がある。元女王の魔力に抗《あらが》えるのは、他《はか》ならね彼女の|息子《むすこ》達だけだ。
「シマロンのお友達が招待してくれたのよ。戦士と戦士の血|湧《わ》き肉|躍《おど》る闘いだから、下の、もっと近くの席の方が臨場感があるのでしょうけれど……」
腰を屈《かが》めたシュバリエが、にっこりと主《あるじ》に囁《ささや》いた。
「奥方様、天下一|武闘会《ぶとうかい》は、女人《にょにん》禁制であります故《ゆえ》」
「ええもちろん、貴賓席《きひんせき》での観戦を|満喫《まんきつ》していてよ。選手の|汗《あせ》までは感じられないけれど、雪や風に曝《さら》されなくて快適ですものね。あら、あなた確かギュンターの所のパカスコスね、何でも係の便利兵よね? 排水溝《はいすいこう》の詰まりを直したり、東屋《あずまや》の雨樋《あまどい》を修理したりしてたでしょ」
「あ、はあ、いやあ、うひょん」
それは水道屋のクラシアンですとは、今さら言えやしなかった。
上王陛下に目通りを許される機会など|滅多《めった》になかったサイズモアは、今にも跪《ひざまず》きそうな勢いでひたすら|頭《こうべ》を垂れている。
「ええと、頭が|河童《かっぱ》似のあなたは誰だったかしら。まあいいわ。そんなに畏《かしこ》まらなくてもよくってよ。だって今のあたくしはフォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエではなく、愛の狩人《かりうど》ツェリですもの。頭《ず》が高いなんて野暮《やぼ》なことは、遠い異国で言いっこな、し、よ」
ほころびかけた薔薇色《ばらいろ》の唇で、ツェツィーリエは蠱惑《こわく》的に|微笑《ほほえ》んだ。軽く腰を屈めて上半身を乗り出すと、胸の谷間がちらりと覗《のぞ》く。
「ぶふはひゃ」
「|艦長《かんちょう》、サイズモア艦長っ、鼻から赤い滝《たき》が流れてますッ」
「いいいいや、違《ちが》うぞこれは違うぞこれは」
「よくてよ艦長、ハナヂは心の汗ですもの。それよりこの夜会服、どうかしら。早春を思い描《えが》いて萌葱《もえぎ》で包んでみたのだけれど」
もちろん包んでいるのは豊満|美麗《びれい》な肉体だ。セクシークィーンのフェロモンアタックを喰《く》らっては、海戦の勇者も形無しである。
堪《こら》えきれなかったのか、肩越《かたご》しに低い忍《しの》び笑いが聞こえる。自由恋愛旅行中のツェツィーリエが従えていたのは、お気に入りのお供、シュバリエだけではなかったのだ。
眼《め》を細めて寄り添《そ》っていた人間が、彼女の金の巻き毛に頬を寄せた。特に目を引く容貌《ようぼう》ではないが、嫌味《いやみ》なくらい物腰《ものごし》の上品な男だ。身に着けている物は全《すべ》て単色で、余分な飾《かざ》りは一切《いっさい》ない。しかし上質の素材と|完璧《かんぺき》な採寸で、見る者が見れば一目で価値が分かる。銀の混じった栗色《くりいろ》の短い髪は、彼が軍人でないことを証明している。人間|年齢《ねんれい》で予測すると、三十路《みそじ》と四十路の境くらいか。
非常に似合いのお二人なのだが、実はとんでもない歳《とし》の差カップルである。
「おやおや美しき憧《あこが》れの貴女《あなた》、先程《さきほど》私が褒《ほ》め称《たた》えたばかりではないですか。繊細《せんさい》な春色の薄絹《うすぎぬ》も|素晴《すば》らしいが、芽吹《めぶ》く木々より、さやぐ幼い葉と蕾《つぼみ》よりも、貴女は勝《まさ》って美しいと。それとも初めての真実の愛に|戸惑《とまど》う私の言葉では、|平凡《へいぼん》すぎてご不満ですか?」
「あら、そんなことないわファンファン。可愛《かわい》いひと。あなたの言葉はあたくしを乙女《おとめ》に戻《もど》すもの」
ファンファン!? この口髭《くちひげ》も似合いそうな中年|気障《きざ》紳士《しんし》が、そんな愛らしい名前なのか!?
「何を仰《おっしゃ》います、麗《うるわ》しき春の妖精《ようせい》よ。貴女こそが永遠の乙女です」
子供三人生んでるけどね。
臆面《おくめん》無しの賛辞の連発に、サイズモアは鼻血を飲み込んで必死に耐《た》えた。転げ回って全身を掻《か》きむしりたくなる。海の男にはいない型《タイプ》だ!? 人間|恐《おそ》るべし。
一方、水道屋と間違われているダカスコスは、フォンクライスト卿の悶絶《もんぜつ》日記を思い出していた。あれが何万部も売れるのだから、女性はきっとこういう言葉に弱いのだろう。次に女房《にょうぼう》を怒らせたら、|駄目《だめ》で元々だが試《ため》してみるべきか。とりあえずそれらしい一文を心の記録紙に書き付けた。「お前は永遠に頭が春だ」……|大惨事《だいさんじ》が予想される。
「あらぁ、どうしたの二人とも。顎《あご》が外れたみたいな顔しちゃって。そうだわ、ファンファンを紹介《しょうかい》しておくわね。こちらはステファン・ファンバレンよ。シマロンで大きな仕事をしているの」
なるほど、それでファンファンか。本名ならば仕方がない。
中年紳士は小さく音を立てて、年上の恋人《こいびと》の額にキスをした。軍人達の腕《うで》に鳥肌《とりはだ》が立つ。
「大きな仕事だなんてとんでもない。愛《いと》しい方、貴女は私を買い被《かぶ》りすぎです。貴女の気高き美しさに比べたら、私のつまらぬ|商《あきな》いなど|足下《あしもと》にも及《およ》びません。天に|瞬《またた》く星々と、地に生える雑草くらいの違いがある」
明らかに比較《ひかく》の仕方を間違えているのに、ツェリ様はくすぐったそうな笑い声をあげた。元女王陛下はすこぶるご|機嫌《きげん》だ。
「それで、この可愛らしいご婦人はどなたなのかしら。どちらのお国の方? 髪の色がとっても|綺麗《きれい》ね。お手入れには何の花の油を使っていて?」
「……あ、の」
うまく声がでてこない。気付いたシュバリエが隣室《りんしつ》から水差しを持ってきて、座り込むフリンに水を渡《わた》した。少しずつ喉《のど》に流してやると、ようやく言葉が戻ってくる。
「どうか座ったままでのご無礼をお許しください……私はカロリアのフリン・ギルビットと申します……あの……奥方様は、いったい」
「あたくし? あたくしは愛の狩人ツェツィーリエよ。どうぞツェリって呼んで頂戴。あなたのような美しい娘《むすめ》を苦しめるなんて、男としての風上にも置けないわ。どうなさったのフリン、愛憎《あいぞう》のもつれ? 他に想《おも》いを寄せる殿方《とのがた》がいるのかしら。ああ美しさって罪ね。こうして何人もの異性を虜《とりこ》にしてゆくのだわ」
「あのーツェリ様、フリンさんとマキシーンは痴情《ちじょう》のもつれではありませんー。もっとドロドロしてるんですがー」
「なぁにバカスコス、もっと泥沼《どろぬま》だというの!? ああっじゃあもしかしてお|互《たが》い家庭がありながら……っやぁん、燃えるわ。ねえフリン、聞かせて。相談に乗るわ。もしもあたくしでよろしければ……あらぁ」
元女王様の鞭《むち》に締《し》め上げられたまま、マキシーンが床《ゆか》で低く呻いた。
「大変、あたくしとしたことが。とりこにした殿方をすっかり忘れるなんて」
「殿方だなんて!」
悲鳴に似た声でフリンは|叫《さけ》んだ。怒《いか》りで身体が震《ふる》える。
「その男は薄汚《うすぎたな》い獣《けだもの》です!」
「そうなの? ケダモノ……ちょっとときめくような……まあ、あたくしもこういう陰鬱《いんうつ》とした顔の男性は、どちらかといえば好みではないのだけれど……彼は彼で鞭打たれている姿なんか、けっこう可愛いかもしれなくてよ? うふ、脚《あし》を載《の》せちゃおうかしら」
「もぎょ」
「うふふ、けだものだもの、踵《かかと》で踏《ふ》んでもいいわよね」
ダカスコスは震え上がった。|眞魔《しんま》国には決して逆らってはいけない相手が三人いる。眞王陛下とツェリ様とアニシナ嬢《じょう》だ。
「それよりも、どうか、奥方様……ツェリ様、早く大佐《たいさ》にこのことを報せないと。あの人まだ私が人質《ひとじち》にとられていると思っているわ! このままでは三回戦も負けることになる。次は|恐《おそ》らく……大佐ご自身が……」
「大佐ってだぁれ? そうそう、次は誰《だれ》が出場するのかしら。ねえフリン、あたくしの息子の雄姿《ゆうし》を見た? とっても可愛らしかったでしょう。あの子がクマなしで|眠《ねむ》れないよちよち歩きの頃《ころ》に、最初に剣《けん》を与《あた》えたのはあたくしなのよ。父親はまだ早いと反対だったのだけれど、ある夜お気に入りの灰色クマに短剣を仕込んでおいて……あら、あなたが解放されたことを、一刻も早く下の皆《みな》に報せたかったのね。いいわ、じゃあこうしましょう」
ツェツィーリエはすいと窓辺に立ち、肩《かた》を覆《おお》った春色の絹を解いた。それをカロリア側のべンチに向けて、優雅《ゆうが》に何度か振《ふ》ってみせる。
「ねえ、バカスコス、せっかくだから|葡萄酒《ぶどうしゅ》を|頂戴《ちょうだい》。ずっと飲物を待っていたの……でも二人とも何故《なぜ》、飲物屋を始めたの? 軍隊のお給料に不満でもあるのかしら。可哀想《かわいそう》に、あんな重そうな保冷箱を運ぶなんて」
「箱!?」
フリンとサイズモアとダカスコスは|一斉《いっせい》に顔を上げ、緑の布に覆われた模造箱を見た。入ってすぐの|壁際《かべぎわ》に、放置したままだったのだ。
「母上!?」
自分そっくりの女性の姿を目にして、三男|坊《ぼう》は|仰天《ぎょうてん》した。痛めた腰《こし》にひびきはしないかと、おれと村田は思わず支えようとする。
「無理して立つなヴォルフ、母親が来たから張り切っちゃうなんて、お前は授業参観の一年生かっつーの……母上って……ツェリ様!?」
反射的に視線を向けると、さっきまでフリンが押し付けられていた場所には、|微笑《ほほえ》むフォンシュピッツヴェーグ|卿《きょう》ツェツィーリエ様がお立ちになっていた。萌葱色《もえぎいろ》のドレス姿も悩《なや》ましい、一足早い春のセクシークィーンだ。村田は|眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せて目を凝《こ》らし「ああ、彼女がねー」なんて|呟《つぶや》いている。
「なんで大シマロンに母上が……」
「そりゃヴォルフ、答えは一つしかないよ。認めたくないのは判《わか》るけどさ」
自由|恋愛《れんあい》主義者の新しい恋人は、シマロン商人だったはず。
「お袋《ふくろ》さん多分、お前より若い男とエンジョイラブの関係なんだよ。とにかくっ、ツェリ様のあの|素晴《すば》らしい|笑顔《えがお》を見るにだな、フリン・ギルビットは救出された可能性が高い。いくら陽気なフォンシュピッツヴェーグ卿だって、人質が首|絞《し》められてる脇《わき》でスカーフ振ったりはしないだろう」
「母上のことを悪く言うな」
「悪く言ってねえよ」
それでもこれはかなりの朗報だった。故意に敗北を選ばされたヨザックには悪いが、まだ最後の希望は残されている。今の段階では一勝一敗、五分と五分だ。三戦目でどうにか引き分けに持ち込めば、延長勝負という目もでてくる。その場合何回裏表までやるのかは、規定書にもなかったので判らないが、少なくとも敗れ去る|瞬間《しゅんかん》は、先延ばしになったということだ。
土下座《どげざ》をも辞さぬ覚悟《かくご》で臨《のぞ》んだ説得に、ヨザックは案外あっさりと応じてくれた。拍子《ひょうし》抜《ぬ》けするおれを前に立たせて、彼は刃にこびり付いた雪を拭《ぬぐ》った。
「頭を下げることなどない。オレはあなたの兵だ、どんな命令にでも従いますよ」
だが、巧妙《こうみょう》に敗者を演じ切り、息をついてベンチに座った彼は、感情は別であると告げていた。額が|膝《ひざ》につくくらい、広い背中を曲げている。
逆に感情的だったのは対戦相手のアーダルベルトで、対戦者がわざと負けた、故意に武器を手放したのだと、|猛然《もうぜん》と|審判《しんぱん》に食ってかかった。勝者の態度とは思えない。しかしジャッジが覆《くつがえ》るはずはなかった。会場中のシマロンの民《たみ》は|歓喜《かんき》に震え、国旗の黄色がそこら中にあふれかえったのだ。大観衆の機嫌を損ねてまで、取り直しを命じるわけがなかった。
おれたちカロリアに残されたのは、あと一度きりの最後のチャンスだ。だがツェリ様がフリンを解放してくれたお陰《かげ》で、このカードを存分に生かすことができる。
これで三戦目の選手が健闘《けんとう》すれば、まだ優勝の望みもあるのだ。
「三人目に期待しようぜ、みんな。あいつが引き分けに持ち込んでくれれば、また振り出しに戻《もど》るって可能性もあ……」
その場で|黙《だま》り込む全員が、困ったように眉尻《まゆじり》を下げていた。六つの視線はすべておれに注がれている。
三人目って、おれじゃん。
「うわー! まずい、まずいまずいまずい! どうしよう村田、どうするヴォルフ!?」
とんでもないワイルドカードを残してしまった。
「最終的には、|棄権《きけん》するという手も」
「それはできない、それはできないよ。だってここまで勝ち上がってきたんだぜ!? しかもフリンの件も解決して、思う存分全力で闘《たたか》えるんだぜ? なのに最後の一戦でリタイアなんて、もったいなくてでぎねーよっ」
「じゃあ陛下が出るしかなさそうですね」
まだ悔《くや》しさの残る顔で、ヨザックがボソボソと呟いた。
「どのみち陛下が危険になれば、オレも閣下も黙って見てはいません。たとえ違反《いはん》行為《こうい》になり、そこで失格が宣告されても、敵とあなたの間に入りますよ。もう人質もいないんだから、今度こそ|遠慮《えんりょ》無く|斬《き》り捨てます。叩《たた》き斬ります。ぶった斬ります。それこそ、あっという間にね」
「お、|怒《おこ》ってる?」
「怒ってませんて」
両足を組んでヴォルフラムも|頷《うなず》いている。ぶった斬り説に同意しているのだろう。
「人を殺すなとか説教しても無駄《むだ》です。オレたちにとってカロリアの優勝と陛下では、重さの比重が違《ちが》いすぎる。だから、もしも陛下ご自身が出場したいと|仰《おっしゃ》るなら、オレも閣下も止めませんよ」
目の前には五万の大観衆。そんな中で繰り広げられるのは、武器と武器での本気の斬り合いだ。怪我では済まないかもしれない。
でも。
おれは唇《くちびる》を噛《か》み、相棒に選んだ金属バットを|握《にぎ》った。
でもあと一歩なんだ。
あと一歩で「何か」を得られるんだ。
十六年の人生で最高の大番狂《おおばんくる》わせが、今日この瞬間に起こるかもしれない。それに……。
「僕は言ったよな、渋谷。きみは護《まも》られることに慣れなくちゃいけないって」
人差し指で押し上げようとして、村田は自分が眼鏡《めがね》を掛《か》けていないことにやっと気付いたようだ。
「助言を聞いた上での結論かい?」
「その『言ったよな』シリーズならこっちにもあるぞ。確かお前はこうも言ってたよな。おれとお前は|特殊《とくしゅ》な関係なんだって。強大な力を持つ王に手を貸すことができるって。自分でもこんな……爆発《ばくはつ》のきっかけも判らなけりゃ、コントロールも効かない力をあてにするのは無謀《むぼう》だと思う。それは判ってる。でももしあれで勝てるなら……合体|技《わざ》を」
「|駄目《だめ》だ!」
おれの言葉を遮《さえぎ》って村田は激しく首を振った。
「危険すぎる。いくら雪が味方するとはいえ、ここは人間の土地だ。しかも隣《となり》は神殿《しんでん》だぞ!? どんなアクシデントが起こるか予測もできないんだ! そんな危険なことをさせられるもんか……きみがどうしても出場すると言い張るなら、僕ももう止めやしないさ。こう言って欲しいんだろう? |誰《だれ》かの代わりに、口癖《くちぐせ》を|真似《まね》て。こうなると思った、って」
「うん。言ってくれよ」
おれは首を左右に傾《かたむ》けて、肩の筋肉を解《ほぐ》している。新しいバットを使う前に、何度か素振《すぶ》りが必要だろう。村田の心配が|杞憂《きゆう》だとは言わないが、|先程《さきほど》までよりずっと調子はいい。外国の神様の|影響《えいきょう》は、そう深刻ではなさそうだった。
濡《ぬ》れて色が濃《こ》くなった髪《かみ》を掻《か》き回し、友人は珍《めずら》しく苛《いら》立《だ》っている。
「嫌《いや》だね、もう言ってやれないよ。まさかこうなるとは思わなかったんだ……頼《たの》むよ渋谷、怪我をしないでくれ。最終|奥義《おうぎ》を授《さず》けるから。いいか、ピンチになったら急所|攻《ぜ》めだ。急所がどこか知ってるか?」
おれは無意識に正解の部位を押さえていた。この世の|全《すべ》ての男の急所を知っているが、敵の股間《こかん》を蹴《け》るなんてそんな……すっぽ抜《ぬ》けフォークが当たった時の|衝撃《しょうげき》が蘇《あがえ》り、思わず内股《うちまた》になってしまう。ファールカップ越《ご》しでさえあれなのに。想像するだけで|脂汗《あぶらあせ》だ。
「約束してくれ。どんな相手でも同情しないって。いざとなったら自分のためにどんな手でも使うって」
「村田、何をそんな具体的なこと言ってんの、まるで相手の実力がもう全部判ってるみたいじゃん。もしかしたら向こうもうちと同じで、最弱の男を大将に据《す》えてるかもしれないし……」
会場中が|歓声《かんせい》と|足踏《あしぶ》みで揺《ゆ》れた。大シマロン側の三人目が準備を終えたのだ。突《つ》き上げる地響《じひび》きみたいな|振動《しんどう》は、箱の一部が解き放たれた瞬間に似ている。
不安と気負いと|緊張《きんちょう》で、胃の下の方がしくりと痛んだ。
「あなたたちのしてくれたお話によると」
フォンシュピッツヴェーグ卿ツェツィーリエと、フリン・ギルビット、サイズモア|艦長《かんちょう》とダカスコスは、文字どおり額を突《つ》き合わせて相談していた。シュバリエは縛《しば》り上げたマキシーンを捨てに行き、ステファン・ファンバレンは|扉《とびら》の向こうで待たされている。仮にもシマロン商人である男に『箱』の奪還計画を聞かせるわけにはいかない。
「この大シマロンの神殿に『風の終わり』があるということね?」
国を離《はな》れて久しいツェリ様には、どれもこれも耳新しい事実ばかりだ。フリンもダカスコスもサイズモアも、ウェラー卿の件だけは敢《あ》えて隠《かく》していた。|息子《むすこ》の死を告げる大任は自分達にはとても務まりそうにない。階下には三男であるヴォルフラム閣下がいらしているのだから、肉親の口から|慎重《しんちょう》に宣告してもらおうと考えたのだ。
彼の腕《うで》が間違った鍵《かぎ》として使われて、カロリアを壊滅《かいめつ》状態にしたこともだ。
先代|魔王《まおう》は歳《とし》に似合わぬ可愛《かわい》らしさで、|綺麗《きれい》な|眉《まゆ》を軽く顰《ひそ》めた。
「そして、陛下…フリンにとっては大佐かしら? あのかたはそれを手に入れようとテンカブに出場されたのね。なのに猊下《げいか》は勝負がつく前に、箱を偽物《にせもの》とすり替《か》えるようにと命じられた……何故《なぜ》かしら。優勝できないほうに賭《か》けてらっしゃるのかしら……」
ツェツィーリエは僅かに小首を傾げていたが、薄く開いた口元に指先を当て、貴婦人らしく驚いた。
「いえ、ちょっと待って|頂戴《ちょうだい》、猊下ですって!? あの双黒《そうこく》の大賢者様が、どうして話にでてらっしゃるの? 誰もお会いしたことはないはずよ。それどころか、どこにいらっしゃるのかさえ……ねえバカスコス、猊下の髪と瞳《ひとあ》も|漆黒《しっこく》だった? 本当の本当に|肖像画《しょうぞうが》のとおりのお美しい御方なの?」
美人に肩《かた》を掴《つか》んで揺さぶられ、下っ端《ぱ》兵士はあらゆる意味でクラクラする。
「い、い、い、いえ、髪は|妙《みょう》な金色で目は妙な青でした」
「ええー? そんな、乙女《おとめ》の憧《あこが》れを打ち砕《くだ》くようなこと言うものじゃないわ」
「でっでっでも、猊下は猊下であらせられましまするのでござりまするものでありますから」
「あの、どうか奥方様、試合が終わったらすぐにクルーソーさんとお会いになれますし……今はとにかく箱の奪還に関して、お知恵《ちえ》とお力をお貸しくださいますよう……」
一番冷静なのはフリンだった。もっともそれは、魔王と大賢者が共にいることが、どれだけ|凄《すご》いか知らないからだ。
「でもねフリン、あたくしは神殿内に詳《くわ》しくないし、箱をすり替える助けになれるとも思えないわ。だって女の細腕《ほそうで》では、警備兵とやり合うなんて無謀でしょう?」
三人の思考が|瞬間《しゅんかん》的に|一致《いっち》した。うなる鞭《むち》、叩きのめされるマキシーン。そりゃもうズタボロ。皆《みな》のそんな回想には気付かずに、ツェリ様はとんでもない提案をする。
「よければファンファンに頼んであげる。彼ならきっと協力してくれると思うの」
全員|一斉《いっせい》に怒濤《どとう》の「はあー!?」だ。
|恋愛《れんあい》しすぎで|脳《のう》味噌《みそ》まで溶《と》けてしまったのかと、魔族二人は嘆《なげ》き悲しんだ。フリンはそれぞれの顔を順番に見ていたが、どう言葉をかけていいか判《わか》らない。その間にもツェツィーリエは扉まで歩き、年下の恋人《こいびと》を連れてくる。
「ね、ファンファン。どうか力を貸して頂戴。あなたならきっと、あたくしを助けてくれるわよね?」
「箱を……『風の終わり』を偽物とすり替えるのですか? これはまた|大胆《だいたん》な作戦だ」
もう駄目だ、絶望的だ。当のシマロン国民に、そんな非常識な作戦を打ち明けたらお終いだ。すぐにも警備兵を呼ばれ、神殿から放《ほう》り出されるに違いない。三人は身構えた。この際、任務の遂行《すいこう》は断念して、|隙《すき》をみて|撤退《てったい》するべきだ。年長者の責任として、サイズモアはやむなくそう判断した。
「いいでしょう」
「撤退! フリン殿《どの》、ダカスコス、撤退で……今なんと……?」
優男《やさおとこ》は軽く肩を竦《すく》め、仕方がないと頬《ほお》を緩《ゆる》めた。
「愛《いと》しい人、他《ほか》ならね貴女《あなた》の頼みです、断れるはずがありません」
は?
「ですからそのように美しい瞳を潤《うる》ませないで。貴女の望みは私の望みでもある」
はあ?
「どうか麗《うるわ》しのツェツィーリエ、|涙《なみだ》を流さないで。貴女の望みをかなえる栄誉《えいよ》を私にお与《あた》えください」
はああ!?
今にも跪《ひざまず》きそうだ。恋愛に関して素人《しろうと》同然の三人は、予想を裏切る展開に呆然《ぼうぜん》としていた。サイズモアは堪《たま》らず|右腕《みぎうで》を掻いている。
「しかしファンファン殿、|貴殿《きでん》はシマロンの商人であろう。母国の益とならぬ行いに手を貸すことは、シマロン人の倫理《りんり》に背《そむ》くのではないかな」
ステファン・ファンバレンは嫌味《いやみ》のない笑《え》みを|浮《う》かべ、軍人からは想像もつかない職業理念を述べた。
「この国が最強の兵器を持ち、圧倒《あっとう》的な力で世界を制圧したら……私達の存在する意味がなくなります。いいですか、私は根っからの商人なのですよ。剣《けん》も盾《たて》も、弓も矢も、鉄も鋼《はがね》も売りたいのです。そしてできるならば一つの国だけでなく、多くの国家と取り引きしたいのです。さ、では参りましょうか。異国の方々。場所と一部の警備に関してはお役に立てますが、その他《ほか》の小競《こぜ》り合いは|皆様《みなさま》方にお任せしますよ」
こういう男はある意味、一番厄介だ。だが今は彼の商魂を信じ、一時的にでも手を組むしかない。もしも作戦が成功したら、全員で恋愛自由党に入る心づもりだ。
「シュバリエも連れて行くといいわ。そろそろ戻《もど》るはずだから……フリン、あなたはだめよ」
男の列に従おうとしたフリン・ギルビットを、ツェツィーリエは手招いた。
「ここで休んでいるべきだわ。あなたはとても疲《つか》れているし、痛手からも抜けきれていない。あたくしとゆっくり決勝戦でも観覧しましょう。女性同士というのも素敵《すてき》なものよ」
箱を持って神殿の最奥《さいおう》部に向かう男達を見送ってから、ツェツィーリエとフリンは貴賓《きひん》室の鍵を閉めた。窓際の長椅子《ながいす》に陣取《じんど》って、元女王は優雅《ゆうが》に葡萄酒《ぶどうしゅ》の杯《さかずき》を傾ける。彼女ほど経験を積んでいないせいか、フリンにはそこまでの|余裕《よゆう》がない。
「ファンファンのことが心配なのね」
「いえ奥方様、決して奥方様の……あの……恋人の方を疑うようなことは……」
「あらいいのよ、ツェリって呼んでちょうだい」
|膝《ひざ》の上で|握《にぎ》られたフリンの手に、白く細い指をそっと重ねる。
「ねえフリン、彼なら|大丈夫《だいじょうぶ》。生まれついての商人ですもの。先程の言葉に|嘘《うそ》はないと、このあたくしが保証するわ。ステファンは自らの理念に従って生きている。国家よりも家に忠誠を誓っているのね。でもあたくしは違う」
不意に硝子《がラス》の向こうに眼《め》をやって、ツェツィーリエは他の誰にでもなく、自分自身の心に|呟《つぶや》いた。
「……国に仇《あだ》なすことはしないわ……もう二度と……」
窓の向こうは強まった雪と|松明《たいまつ》で、白い闇《やみ》が広がっていた。闘技場《とうぎじょう》の中央には、選手も|審判《しんぱん》も残っていない。すぐに元どおりの軽やかな口調に戻り、魔族の美女は黄金の巻き毛を揺らした。
「ね、フリン。あなた恋人はいて? これまでに|結婚《けっこん》は何度したの?」
そう何度もするものでもない。
「……一度、しましたが、夫には先立たれました」
「まあ! じゃあすぐにでも新しい恋をみつけないと。だったらうちのシュバリエはどーお? 無口だけどとっても気が利《き》くし、どんなことでもできるのよ。あ、それとももう意中の人がいるのかしら。ねえ、どんな方? 歳《とし》は上? 年下のひとも可愛くてお薦《すす》めよ」
「いいえ、私はもう……カロリアと結婚していますから」
耳の奥に、|一瞬《いっしゅん》だけ聞こえた名を否定して、フリンは自嘲《じちょう》気味に|微笑《ほほえ》んだ。すべては大切な場所のため。夫と自分の愛した小さな世界のため。
「そうなの。|偉《えら》いわ、禁欲的ね。使命に生きる女性ってとても美しいと思うわ」
フォンシュピッツヴェーグ卿《きょう》ツェツィーリエは、杯を胸の前で止めたままだ。
「ねえ、フリン、あたくしもかつて一国の長《おさ》だったことがあるのよ」
「え……」
今更ながらに相手の高い地位を思い知らされ、フリンは|椅子《いす》から腰《こし》を浮かせた。
「ああ構わないのよ。言ったでしょう、今は愛の狩人《かりうど》だって。今は自分が|誰《だれ》なのかきちんと|弁《わきま》えていてよ。でもね、そのときは自分自身が何者なのか判らなかったの。あたくしには政《まつりごと》など向かないし、理解も統治もできないと思ったのね。だから、兄にすべてを任せたの。兄のシュトッフェルはあたくしと違って、国を治めることにとても意欲的だったから。でも」
斜《なな》めに傾《かし》いだ硝子から、赤い液体が|一滴《ひとしずく》、膝に落ちる。
「でも今では、それをとても後悔しているの……ねえあなた、よく覚えておいて」
ツェツィーリエはフリンの指をぎゅっと握った。
生まれた土地も、種族の名も、境遇《きょうぐう》も違う。生きてきた長さも、生きてゆく遠さも大きく異なる。それでも皮膚《ひふ》越《ご》しに伝わる血の中には、|僅《わず》かに同じものが含《ふく》まれていた。
長い歴史の中のほんの一瞬だけ、一つの国を治める女性の運命だ。
「血筋でも、民意でも、預言でもいいわ。運命の|悪戯《いたずら》で、やむを得ず椅子に座ることもあるでしょう。どんな|経緯《けいい》で王に……民《たみ》の長になったとしても、そのひとには必ず理由があるのよ。それを忘れて、何もかもを自分の手から放し、|全《すべ》てを他人に委《ゆだ》ねては|駄目《だめ》。いいこと、フリン。あなたの中には、首となった理由が必ずある。それを見つけなさい。そして全身|全霊《ぜんれい》をかけて、あなたの国を自分の手で護《まも》りなさい」
「……ええ」
「決してあたくしのようになっては駄目よ……ああでもそれとこれとは話が別。恋多き女領主というのも素敵《すてき》じゃない?」
ちらりと過去に触《ふ》れる告白は、十代の娘《むすめ》みたいなはしゃぎ声で終わった。
ツェツィーリエは硝子に両手を突《つ》き、額を押し付けるようにして眼下に目を走らせる。
「こんなに殿方《とのがた》がいるのだもの、きっとあなたのお眼鏡《めがね》に適《かな》う人がいるはずよ。試合が始まるまでの間に、恋人候補を捜してみるのはどうかしら」
「いいえツェリ様、私はそんなっ」
「|遠慮《えんりょ》なさらないで。同性の年長者のお節介《せっかい》は、ありがたく受けておくものよ……あぁん、つまらない、さすがにこの高さでは、顔まで見分けるのは難しいわね……そうだわ!」
ツェツィーリエはお供の荷物を勝手に開げ、掌《てのひら》に載《の》る小型の筒《つつ》を取り出した。三ヵ所の繋《つな》ぎ目を引っ張ると、細工も美しい銀色の望遠鏡になる。
「これを使ってみるのを忘れてた。お友達のアニシナが作ってくれた魔動遠眼鏡よ。ここ、ほらね? ここのところに魔動の素が入っているから、どんな地域でも快適に見られるの。暗視装置が標準装備だから、薄暗《うすぐら》い場所でも睫毛《まつげ》の数までばっちりよ。息を潜《ひそ》めての殿方観賞に最適だけれど、テンカブ観戦にも役立ちそうね」
「殿方観賞、ですか」
「ちょっと待って。あたくしに先に見させてね……陛下はなぜあんなおかしな仮面を被っているのかしら。せっかくの可愛《かわい》らしいお顔が台無しなのに……」
夫の遺品をおかしな仮面呼ばわりされても、今さら|憤慨《ふんがい》する気にもなれなかった。
ツェリ様は大シマロン側にも望遠鏡を向け、薄暗い待合い場所に目を凝らす。
「ヴォルフラムが現れたときも|驚《おどろ》いたけれど、二人目のアーダルベルトも意表をつかれたわ。こんな遠い異国に旅してまで、|魔族《まぞく》の姿を見るとは思わなかった……あっ」
「どうなさいました?」
隣《となり》に座る貴婦人の身体《からだ》から、すっと血の気が引いていく。舌がもつれるのか、言葉も不明瞭《ふめいりょう》になり、声が震《ふる》えて聞き取れない。
「まさかそんな……眞王《しんおう》陛下、貴方《あなた》という御方は……」
あの子にどれだけの重荷を負わせるおつもりですか。
おれの楽観的すぎる希望は、一瞬の後に衝撃《しょうげき》でうち破られた。
死角になった大シマロン側のベンチでは、まず長めの剣《けん》の光が動いた。続いて長身の男の影《かげ》が、大きく揺《ゆ》らいで立ち上がる。松明にちらりと照らされて、シマロン人にありがちな茶色の髪《かみ》が見える。更《さら》に顔の半分も。遠くてはっきりとは確認《かくにん》できないが、やはりこの大陸の人間に多い、薄《うす》い茶色の|瞳《ひとみ》を持っているはずだ。
おれは……おれたちは息をするのを忘れた。
「……コンラッド……?」
ウェラー卿コンラートの左足が、ゆっくりと雪を踏《ふ》み締《し》める。
「|畜生《ちくしょう》ッ!」
まず、膝が震え、足の下が急に|沼《ぬま》になり、自分が沈《しず》んでいくような気分になった。続いておれは意味のない|叫《さけ》び声をあげて、心許《こころもと》ない地面を蹴《け》っていた。息苦しいのはこのせいかと、他人のマスクをかなぐり捨てる。ぬかるむ中を必死に掛《か》け進むうちに、それが泥《どろ》でも沼でもない、もうかなり積もった雪なのだと気がついた。村田がおれの名前を呼んでいる。走れないヴォルフラムがベンチから立ち上がり、ヨザックに行けと指示している。見えないはずの後方まで、全方向カメラみたいに視覚に飛び込んでくる。
畜生ッ、心配させやがって!
どうあっても一発|殴《なぐ》ってやろうと、走りながら右手の|拳《こぶし》を固めた。リーチが届く、もう目の前に彼がいるという地点で、大きく|右腕《みぎうで》を振《ふ》りかぶり最後の一歩を思い切り踏み込んだ。
「がぶ」
ウェラー卿は一ミリたりとも避《よ》けなかったが、こっちの視界は灰色に染まり、自分が汚れた雪の中に突っ込んだのだと知った。転んだのだ。いざという時になって。
「お久しぶりです、陛下……大丈夫《だいじょうぶ》ですか」
見慣れた|微笑《びしょう》でコンラッドは、剣を持たないほうの|手袋《てぶくろ》を外した。利《き》き腕じゃないほうだ。差しだされた掌を躊躇《ちゅうちょ》なく|握《にぎ》って、おれはのろのろと立ち上がった。|膝《ひざ》も胸もずぶ濡《ぬ》れだが、掌は血が流れて温かかった。
「……生きてる」
「ええ、生きてます」
氷水を蹴散《けち》らして駆けつけたヨザックが、絶妙《ぜつみょう》な間合いを置いて止まった。彼の手が斧《おの》の柄《え》を握り直すのを目にして、ひどく不思議な気持ちになる。なぜ武器を構える必要がある?
ウェラー卿だ。あんただって知ってるだろう。コンラッドだよ。
古い傷の残る眉《まゆ》と、銀を散らした独特の虹彩《こうさい》。狼狽《うろた》えることなどなさそうで、誰にでも好かれる人のいい|笑顔《えがお》。おれは名前を呼び損《そこ》ねて、握ったままの手に視線を落とした。重ね慣れた手だ。よく知っている指だった。彼がいつもぎこちなくグラブを填《は》める左手だ。
「……左腕がある!?」
「ありますよ。残念ながらこれは……あなたを抱《だ》いた腕ではないですが。脚《あし》もちゃんと二本あります、念のために触《さわ》って確かめますか?」
「なんでどうして!? じゃあマキシーンが持ってたあの腕は、誰か他《ほか》の奴《やつ》の偽物《にせもの》だったのか」
他人の空似ならね、他人の腕似。そんなはずはない。あれは確かに彼のものだった。
「陛下!」
|滅多《めった》に聞けないグリエの|緊張《きんちょう》した声。
「離《はな》れてください」
「何だよヨザック、コンラッド生きてたんだぞ? もうちょっと|素直《すなお》に感動したって……」
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「いいですか、陛下。今すぐに離れてください。彼は三人目だ」
「さんにんめって、な……」
「着ている物を見て。離れるんだ、彼は三人目です!」
ウェラー卿《きょう》コンラートは、彼らしくない色合いの服を身に着けていた。ジャングルではすこぶる闘《たたか》い難《にく》そうな、黄色と白の制服だ。此処《ここ》に来るまでに嫌《いや》というほど目にしている。
全員が、大シマロンの兵士だった。
「なんでそんなもん着てるっ!?」
一気に頭に血が上り、こめかみ辺りの脈動が異様に強くなる。痛いほどだ。
「なんでそんな服着てるんだ!? なんでこんなとこに……どうしてシマロンなんかに……」
ウェラー卿はおれに胸《むな》ぐらを掴《つか》まれたままで、ことも無げにこう答えた。
「元々ここは、俺の土地です」
まるで氷に触れていたみたいに、指が強《こわ》ばって動かなくなる。
人間の王の血を引く親《ちか》しい魔族は
その左手でおれの頬《ほお》から雪を払《はら》った。