彼等兄弟と|揉《も》めてから、まだ丸一日も|経《た》っていない。
一緒に旅をしてきたサラレギーと聖砂国で我々を待ち受けていたイェルシーが兄弟だと知り、あまつさえその|陰謀《いんぼう》に巻き込まれ、国の命運を握る書状にサインを|迫《せま》られてから、まだ一昼夜も過ぎていないのだ。
「サラレギーなのか!? 入れ|替《か》わって……ええ!? 何でだよ、どうしてお前がこの国の皇帝の椅子に」
あのよく似合っていた眼鏡《めがね》さえなければ、元々彼等の違《ちが》いは髪《かみ》の長さと服くらいのものだ。あとはどちらかといえば弟のイェルシーのほうが、より人形めいてはいたが、そんなのは誤差の|範囲《はんい》だろう。|此処《ここ》にいるのは聖砂国皇帝イェルシーではなく、小シマロン王サラレギーだ。彼の演技力をもってすれば、余人を|欺《あざむ》くことなど|容易《たやす》かったに違いない。
|外《はず》せない石を|填《は》めたままの小指が|疹《うず》いた。
落ち着け、この法石を使いこなしていたのは弟のイェルシーだ、兄のサラレギーではない。サラは法術が使えないから、生まれた国を追われたんだ。だからこの痛みは、|惰弱《だじゃく》なおれの精神からくる錯覚のはず。
「大袈裟だね、ユーリ」
サラレギーは綺麗《きれい》な服の袖をひらつかせ、両手を広げた。そっくりだ。まったく、これだから神族ってやつは。
「単なるお遊びだよ、ユーリ。|双子《ふたご》なら一度は入れ替わってみたいよね。だってそれが同性の双子に生まれた味わいというものじゃない? 十年以上会っていなかったのだから、多少のお遊びは許されると思って」
「……人の処刑が遊びだって言うのか」
「される方は必死かもしれないけれど、見物する側にとっては|娯楽《ごらく》でしょう?」
だったらされる側に回ってみやがれ。
|憎《にく》らしいほど整った顔で|可愛《かわい》らしい|含《ふく》み笑いをしながら、|邪悪《じゃあく》な少年王は下界を|眺《なが》めた。
「王という身でありながら、わたしは処刑をじっくり見たことがなくて。だからイェルシーの提案を受け入れて、高みの見物を決め込もうとしていたんだ。弟は幼い|頃《ころ》から何度も立ち会っていて、もう|見飽《みあ》きたと言うからね。ああそこの、ウェラー卿ではない方のお供の人」
綺麗に|磨《みが》かれた桜貝みたいな|爪《つめ》を、彼はうちのお庭番に向けた。
「その袋は下ろしてやってくれるかな。中身は王宮の|女官《にょかん》見習いだから」
「なんだって!?」
地上の兵士に見咎められないように身を低くしていたヨザックは、おれの叫びより先に荷物を下ろし、布を|剥《は》いだ。中からは見知らぬ少女が二人現れる。髪と|眼《め》の色以外にはどこも似ているところはない。|姉妹《しまい》でさえないのだろう。
「|騙《だま》したのか」
「ええ? 何を言っているのユーリ、あなたの|捜《さが》し人が袋を被せられてここに置かれているって、|誰《だれ》かがあなたに教えたの? もしそうだとしたらとんでもない|偽《にせ》情報だ。気の毒に、あなたはその情報提供者に騙されたんだよ」
心から同情するような素振りで、サラレギーは整った|眉《まゆ》を|顰《ひそ》めた。誰もおれにそんな情報は伝えていない。例によって勝手な判断で|突《つ》っ走り、いつもどおりまた派手に転んだ、ただそれだけだ。
では本職のスパイ、協力者アチラの持ち込んだ情報はどうか。期日時刻とも正確に、|処刑《しょけい》は行われるところだった。真下の広場で繰り広げられているぶつかり合いがなければ、男達三人は確実に命を|断《た》たれていただろう。
けれどこの場所に、あの子達の姿はない。いないことを幸いだと喜ぶべきか。
「リストに……名前が……」
「ああ、神族にしては|珍《めずら》しい名前の子供だね!」
旅仲間だった少年王は、細い|頤《おとがい》の前で両手を打ち合わせた。
「此処にはいないよ。遠方の|施設《しせつ》にいるのだけれど、とても連れてくる時間はなかった」
「どういうことだ?」
サラレギーの|鈴《すず》を転がしたみたいな声に対して、押し殺したおれの口調はどんなに悪人じみていることか。事情を知らない人間が|傍《はた》から見れば、十中八九立場を読み違えるだろう。
「船の中で耳にした名前を書き加えたんだ。だってこうすれば、ユーリ、あなたは必ず戻ってくると思ったから」
それから彼は、大切な目的はあまり大きな声で話しては|駄目《だめ》だよとくすくす笑った。|愚《おろ》かな|獲物《えもの》が|罠《わな》にかかって、この上もなくご|機嫌《きげん》だ。
「ね、やっぱりあなたは帰ってきたでしょう?」
その白い|頬《ほお》を思い切り張り飛ばし、|怒鳴《どな》りつけてやりたい。あの子達は|何処《どこ》だと、|胸《むな》ぐらを掴んで|揺《ゆ》さぶりたい|衝動《しょうどう》をおれは必死で|抑《おさ》えていた。|殴《なぐ》る価値もないと何度も自分に言い聞かせた。
「引き上げましょう!」
だからヨザックの進言にもすぐに従おうとした。|瞬間《しゅんかん》的に眼下に目をやると、我先にと|逃《に》げる観衆に|紛《まぎ》れて、周囲に|溶《と》けこみそうな色の布を被った|囚人《しゅうじん》が、支えられて走るのが見えた。ヘイゼルとコンラッドの姿もある。ほんの一瞬でどうしてそこまで|確認《かくにん》できたのかは|判《わか》らない。
お庭番は返事を待たず、|腕《うで》を|掴《つか》んで|抱《かか》え上げかけた。自分で降りられると、それに抵抗しようとした時だ。視界の|端《はし》を白い筋が横切り、名前を呼びかけていたサラレギーの声が|途切《とぎ》れた。
「……ユー……」
リという音が出てこない。覚えのある|状況《じょうきょう》だ。見ないほうがいい、|厄介《やっかい》なことになる、絶対に見ないほうがいいと頭では理解しているのに、経験から学ぶのが苦手なおれは|我慢《がまん》できずに振り返ってしまった。
|淡《あわ》いグリーンの服の中央に、矢が突き立っている。
あの時と同じだ。ただ今回は標的が異様にはっきりしていた。おれの|身体《からだ》など掠めもしなかったのだ。身体中の血が|全《すべ》て地面に吸い込まれるような、|恐怖《きょうふ》の瞬間に|襲《おそ》われた。また目の前で人が|射《う》たれたのだ。おれのすぐ|隣《となり》で、原始的な武器に|射貫《いぬ》かれた。
「……ヴォルフ……」
違う。
ヴォルフラムじゃない。
強く頭を振り、フードの上から髪を掴んだ。しっかりしろ、渋谷有利。ヴォルフは此処にいない。撃たれることも傷つくこともない。|動揺《どうよう》するな、|狙《ねら》われたのはサラレギーだ。
当の|怪我《けが》人《にん》はよろめきこそしたものの、|両脚《りょうあし》を|踏《ふ》ん張り立ったままで、|気丈《きじょう》にも自らの手で矢を引き抜こうとしていた。うまくいかずに舌打ちをする。見た目よりもダメージは少ないようだ。おれは無意識に彼に飛び|掛《か》かり、|華奢《きゃしゃ》な身体を|床《ゆか》に押し|倒《たお》した。
「立つなよ、危ないだろッ!? 狙われてるんだぞ。ああ、無理に抜くな!」
「|何故《なぜ》? こんな|不愉快《ふゆかい》な物、身体に|触《ふ》れさせておくのは絶対にいやでしょう?」
「|無駄《むだ》に出血したら……」
聞く耳を持たず、サラレギーはおれを押し|退《の》けて細工物の矢を胸から引き抜いた。真っ白だ、血液は付着していない。彼の運の強さを見せつけられた気がする。
「陛下、そんなもん助けなくていいじゃないですか!」
やっぱり|伏《ふ》せていたヨザックに、足首をぎゅっと掴まれる。
「でも」
広場は周囲をぐるりと建物で囲まれている。どの窓から射られたにせよ、|狙撃者《そげきしゃ》を確認するのは不可能に近い。それどころか第二波の可能性もある。早くこの場を去らないと。
「でもこいつ、あの子達の居場所を知ってるんだ」
グリエは|忌々《いまいま》しげに、矢を|握《にぎ》り|締《し》めたままのサラレギーに視線を|遣《や》った。
「まったく……っ!」
それから|素早《すばや》く空の|荷袋《にぶくろ》を掴み、少年王の細い身体を|手荒《てあら》に突っ込んだ。
「ヨザック!?」
口を|捻《ひね》って|肩《かた》に|担《かつ》ぎ上げる。
「後でちゃんと証言してくださいよ、オレは反対しましたからねっ。さあ早く!」
|山車《だし》の|梯子《はしご》を降り様に|振《ふ》り返ると、昼下がりの中央広場には似付かわしくない重装備の小隊がこちらに向かって来ていた。しかしその|先鋒《せんぽう》に立つ兵士の顔が、この世のものではないように見えて、思わず梯子を掴み|損《そこ》ねる。
「……死体?」
ゾンビとかリビングデッドとか、呼び方は|幾《いく》つもある。しかし見た目は|皆《みな》同じ、|壊《こわ》れかけのレディオならぬ|腐《くさ》りかけの人体。そいつらが武器を持ち、|鎧《よろい》を|纏《まと》って進んでくる様は、ある意味非常に|剣《けん》と|魔法《まほう》のファンタジー世界っぽい光景だった。いや最近では、二十一世紀のロンドンあたりにも|出没《しゅつぼつ》しているか。
「死体だ、腐った死体が武装して動いてる!」
「まさか。|坊《ぼっ》ちゃんたら、|冗談《じょうだん》は男の|趣味《しゅみ》だけにしてくださいよ。そんなおぞましい生き物、眞魔国にだっていませんや」
骨はいるけどね。
「でも本当に……」
「でももマチョもありません、グリ|江《え》のために見なかったことにして!」
「そ、そうしよ」
最後の一段を終えて地面に足がつくと、おれはやっと大きく息をついた。今までろくに呼吸をしていなかったような気がする。合流地点へと走るために、肺いっぱいに酸素を吸い込むと、確かに|腐臭《ふしゅう》が混ざっている。
何かが起こっているのだ。
おれたちの知らないところで、何かが。