「単なるボディーガードのおにーちゃんかと思ったら」
ヘイゼル・グレイブスと呼ばれた女性は、その名のとおり|榛色《はしばみいろ》の|瞳《ひとみ》を|眇《すが》めた。
「……|驚《おどろ》いたね、何であたしをそんな名前で呼ぶ?」
彼女は|汚《よご》れた|白髪頭《しらがあたま》を|振《ふ》り、燃え盛る|炎《ほのお》に|乾《かわ》いた燃料を|放《ほう》り込んだ。|臭《にお》いからして多分、動物の|糞《ふん》だ。|確認《かくにん》するのはやめておこう。
「あんたたちは一体何者だい。遠い遠い|魔族《まぞく》の国の王様がいらっしゃるという|噂《うわさ》を耳にしたと思ったら、それらしき|御《ご》一行様はごく|普通《ふつう》に、この世界には存在しない言語を|喋《しゃべ》ってる。おまけにボディーガードの一人は、|滅多《めった》に使われないあたしのファミリー・ネームまで知っているときた」
存在しない言語だって?
無意識に喉元に手をやってから、おれは謹にともなく尋《たず》ねた。
「……今、|何《ナニ》語《ご》で喋ってますカ……」
老女は|奇妙《きみょう》な顔をして、おれとコンラッドを|交互《こうご》に見比べた。
「英語だよ。あたしがうっかりCome onなんて言ったのが悪かった。あんたたちはちゃんと英語を話してる。独特の発音で、|何処《どこ》の|訛《なま》りかはさっぱり|判《わか》らないけどね。ボストンかトレントンのような気もするが、時計を持ったおかしな|兎《うさぎ》みたいにも聞こえるね」
「英語だって!? そんな|馬鹿《ばか》な! お|婆《ばあ》さ……じゃない、すいませんミス……いやミズ、ベネラ、かな。おれはアイキャントスピークイングリッシュですよ」
しまった、意識すると教科書の例文みたいになってしまう。中学校で英語を話せない英語教師に習ったのだから、もしも通じているとしたらそれ自体が|奇跡《きせき》けれども、コレは|林檎《アポー》デースとか言っているのだろうか。
老女は|皺《しわ》の|浮《う》いた|両腕《りょううで》を|腰《こし》に当てて、こちらの|困惑《こんわく》を|豪快《ごうかい》に笑い飛ばした。
「|礼儀《れいぎ》正しい少年だね。言ったろう? そう気を|遣《つか》ってくれなくてもいいよ。いくら元気だったとはいえ、この国に来たとき|既《すで》に六十を過ぎてたんだ。今じゃ女に見えるかどうかだって|怪《あや》しいもんさ」
|口振《くちぶ》りからすると彼女は土地生まれの神族ではなく、何処か異なる場所からやって来たらしい。瞳の色から判断して、確かに|生粋《きっすい》の神族とは言い|難《がた》い。
「それにしても|坊《ぼう》やの喋り方は|面白《おもしろ》いね! 子供が習う例文みたいなお|堅《かた》い単語と、その辺の若いのが使いそうな言葉が混ざってる。まるでマザーグースとソープオペラを同時に聞いているようだ」
「あなたの話も実に興味深い」
ずっと|黙《だま》っていたウェラー|卿《きょう》が、やっと口を開いた。思いのほか深刻そうな声だ。
「ボディーガード、マザーグース、ソープオペラ。こちらには無い単語ばかりだ。ヘイゼル、あなたが何処から来たのかは判っている。だが、どうして|此処《ここ》にいるのか教えて欲しい」
「質問していたのはあたしだよ」
彼女は僅《わず》かに顎《あご》を引き、下から睨《ね》め付けるようにコンラッドを見た。すっかり白くなった|前髪《まえがみ》の奥で、炎に照らされた|赤褐色《せっかっしょく》の瞳が光る。|背丈《せたけ》はずっと小さいのに、まるで|挑《いど》むようなきつさだ。
「確かにあたしはヘイゼル・グレイブスだが、|聖砂国《せいさこく》では一度としてそんな風に名乗っちゃいない。|奴隷《どれい》にファミリー・ネームなどないからね。それをどうして異国からのお客が知ってるんだい? イェルシーがあたしたちを|灸《あぶ》り出そうとして差し向けたにしたって、こんな奇妙な話はないじゃないか」
小屋中を照らす火の中で、短くなった|薪《まき》が|爆《は》ぜた。|破裂音《はれつおん》と共に火の粉が|跳《は》ねる。
「あんたは何者だい、この坊やの護衛というだけではなさそうだね」
「気安く指差すんじゃねぇよ」
ヘイゼルがおれに人差し指を向けた|途端《とたん》に、それまで口を|噤《つぐ》んだきりだったヨザックが短く言った。聖砂国では通じるはずのない共通語だったが、|威嚇《いかく》には|充分《じゅうぶん》だったらしい。彼女はすぐに手を下ろし、発言者の顔をじっと見た。
「ウェラー卿とどういう|縁《えん》かは知ったことじゃないが、たかだか|一介《いっかい》の奴隷|風情《ふぜい》が、うちの陛下に礼を|尽《つ》くさないのは許し難いね」
「ヨザック! この人は助けてくれたんだぞ。そういう言い方はよせよっ」
|慌《あわ》てて|窓《たしな》めるおれに、お庭番は面白くなさそうな様子で言い訳をする。
「だってそうでしょう|坊《ぼっ》ちゃん。いくら|逃《に》がしてくれたといったって、相手は|肥車《こえぐるま》牽《ひ》いてた婆さんですよ。跪《ひざま》いて足をお|舐《な》めとまでは言わないけど、指差し確認なんて陛下に対して|遠慮《えんりょ》がなさ過ぎじゃなぁい?」
ちょっとグリ|江《え》が入っている。
逆にヘイゼル・グレイブスは、面白がるような|笑《え》みを浮かべ、言葉の通じるコンラッドに言った。どうやら|怒《おこ》っているのはニュアンスで伝わったらしい。
「ご立腹だね」
「彼は|憤慨《ふんがい》しているんです。自分の|主《あるじ》を|侮辱《ぶじょく》されたとね。陛下御自身は身分などに|拘《こだわ》らない開けた|御方《おかた》だが、王を持つ臣の心はまた別にある」
背中がむず|痒《がゆ》くなるような説明をされて、おれは居心地悪く視線を|彷徨《さまよ》わせた。|朽《く》ちかけた板がぶつかる|壁《かべ》と|天井《てんじょう》の境目を|眺《なが》めていると、ヘイゼルが今までとは明らかに異なる口調で言った。
「では本当に坊やは|魔王《まおう》陛下で、服はバラバラでもあんたたちは|眞魔国《しんまこく》の外交使節団なんだね。おっと、もう坊やなんて呼ぶわけにはいかない」
彼女はいきなり|片膝《かたひざ》をつき、|騎士《きし》がするようにおれの右手を|捧《ささ》げ持った。
「陛下」
「うわ、ちょ、ちょっと」
|恭《うやうや》しく|頭《こうべ》を垂れられて、動転したおれもしゃがみ込む。二人して|乙女《おとめ》の|祈《いの》りみたいな格好になってしまった。
「数々のご無礼をお|詫《わ》びいたします」
「だからー、困るんだって。そういうの苦手なんだって! 陛下でも大魔王でも無印のユーリでも好きに呼んでくれて構わないけど、腫《は》れ物に触《さわ》るような扱《あつか》いだけは勘弁《かんべん》して欲しいんですって」
ヘイゼルは口元を軽く引き上げ、老婦人とは思えない不敵な笑みを作った。右手を|握手《あくしゅ》の形に持ち|替《か》えて、強く|握《にぎ》った。
「|宜《よろ》しく、陛下。墓所にはいくつも|忍《しの》び込んだけど、現役の王様に会うのは初めてだ」
「墓所に……ヘイゼルサンは|墓泥棒《はかどろぼう》なんですか」
「そうだったら子孫に財産のひとつでも|遺《のこ》してやれたのに!」
|如何《いか》にも残念そうに舌打ちをしてから、|戯《ふざ》けた|仕種《しぐさ》で口を押さえた。それからゆっくりと立ち上がり、おにーさんたちの名前は? と|訊《き》いた。
「|成程《なるほど》、ウェラー卿とグリエ氏。|嬉《うれ》しいね、|苗字《みょうじ》のある男性と知り合うのは久し|振《ぶ》りだ。会談中に何やらひと|悶着《もんちゃく》あったらしいね。自ら立ち上がりはしなくとも、協力者は意外な所にもいるから。あんたたちはイェルシー……|皇帝《こうてい》に|填《は》められた、そう|解釈《かいしゃく》して構わないのかな」
「|違《ちが》う」
自分の発した「|NO《違う》」という単語が、予想以上にはっきり響いて驚いた。おれは首を横に振り、玉座に収まる若き聖砂国皇帝イェルシーと、その|隣《となり》に寄り|添《そ》う|双子《ふたご》の兄を思い|描《えが》いた。ほんの数時間前の出来事なのに、思い出そうとすると頭が強く|痺《しび》れる。
「イェルシーに墳められたわけじゃない。おれは……おれたちはサラに……イェルシーの兄のサラレギーに|騙《だま》されたんだ。まさか兄弟だなんて思いもしなかった」
あれだけ親しげだったサラレギーの態度が、最初から|全《すべ》て|嘘《うそ》だったなんて思いもしなかったのだ。
「神族は双子が多いんだ。気付くまであたしも半年はかかった。さっき会った男がどうしてまたこっちにいるんだろう、ひょっとして|恐《おそ》ろしく足が速いんだろうかってな具合にね。それにしても小シマロンの王が、ここの皇帝と双子だなんて、誰一人想像しなかったろうね!」
ヘイゼルは同情を見せて|頷《うなず》き、質問を続けた。
「しかし|何故《なぜ》あんたたち魔王陛下御一行様が、こんな少人数で聖砂国まで|渡《わた》ってくることになったんだい? あたしの|勘《かん》違いだろうか。出島でも|宮殿《きゅうでん》でも|殆《ほとん》どが小シマロンの人間で、上陸した魔族は二人か三人だけと聞いたんだが」
「それを話す前に、そちらの|素性《すじょう》も明らかにしてもらわないと」
ウェラー卿が会話に割り込む。彼の言うとおりだ。冷静な人がいてくれて助かった。
「ヘイゼル・グレイブスに対する疑問は尽きない。けれどあなたが別の名も持つというのなら、我々はベネラに対しても尋ねることが山程ある」
「そうだ、ベネラだ、ベネラさんだよ! 奥さんが……うーん、マダームがベネラさんなら、おれたちが|捜《さが》してたのはあなただということになる。教えてくれ、ジェイソンとフレディって女の子を知らないかな。何処にいるだろう、手紙を受け取ったんだ」
幼いうちに|離《はな》れた|懐《なつ》かしい故郷へ、望んで|還《かえ》ったはずだった。姉妹二人聖砂国で、幸せに暮らすはずだった。なのにおれの手に届いた手紙からは、幸福など一行も読みとれなかった。必要のない謝罪の後に、読みとれたのはこれだけだ。
ベネラ、希望、助ける。
「なあ教えてくれ、おれは一体あんたを何から助けたらいいんだ? あの子達はどんな目に|遭《あ》ってるんだ!? なあヘイゼルさん、あんたがベネラだっていうんなら……」
おれがヘイゼルの|腕《うで》を|掴《つか》むのとほぼ同時に、遠くで数頭の犬が|吼《ほ》えた。追っ手に|嗅《か》ぎつけられたのだろうか。
「長くなりそうかい?」
返事を待たずに|踵《きびす》を返し、小屋の奥へと続く|扉《とびら》に手を|掛《か》けた。
「なら、場所を移そう」
取っ手を掴むと木の|屑《くず》がボロボロと落ちる。今にも分解しそうなそれを|強引《ごういん》に引き開けると、その先には一メートル四方の小部屋があった。
……小部屋というかウォークインできないクローゼットというか、|床板《ゆかいた》の中央に四角く切られた穴を見る限りでは……。
「トイレ?」
ヘイゼルは床板を数枚外している。
「し、しかも汲み取り式……」
|通称《つうしょう》・ボットン便所。祖父の|田舎《いなか》でしか見たことがない。当然もう現役ではなかった。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だ、気に|病《や》むことはないよ。トイレとしては使われてないから。さあ!」
片手に板を|抱《かか》えたままで手招きをする。コンラッドが先に|潜《もぐ》り、ヨザックがおれの|肘《ひじ》を押した。犬の声が急速に近付いてきたからだ。
穴の下には細い|梯子《はしご》が|繋《つな》がっていたが、入口同様に|狭《せま》い空間だった。|肩幅《かたはば》の広い大人なら、|両脇《りょうわき》の壁で二の腕を|擦《こす》ってしまうだろう。
「トイレからの移動にはあまりいい思い出がないんだよなぁ……ねえここ本当にトイレとしては使われてないんですよね」内側から床板を|戻《もど》していたヘイゼルが、|振《ふ》り返りもせずに答える。
「ごく|稀《まれ》に迷い込んできた番兵が、本物と|間違《まちが》えて用を足すことがあるだけだよ」
肩幅の広いお庭番に、通訳してやるべきか迷った。