「うううー、信じられねぇ、どうしてこーいうことになるかなあ」
広間の扉《とびら》の外側で大理石の廊下《ろうか》を睨《にら》みながら、おれは吐《は》き気《け》を堪《こら》えていた。
「仕方ないだろ、絶対魔王になってやるって自分で宣言しちゃったんだから」
コンラッドは貴族らしからぬにやにや笑いで、天まで届くかという柱に寄り掛かっている。
「だからって戴冠式《たいかんしき》……歴史の教科書の〈図8〉でしか、見たこともないような戴冠式……」
「ノミネートはきみ一人、プレゼンターは母上」
「アカデミー賞っぽく言うな」
さっきまではギュンターも一緒《いっしょ》だったのだが、例によっておれを褒《ほ》めちぎり、式の進行のために走り去った。彼が褒めたのは学ランのことと、もうひとつ、あの村の件だった。
「しかしあれだけの水術を使われて、まったく覚えていらっしゃらないとは……」
ピンポイントとしか評せない豪雨は、村の鎮火《ちんか》と同時に嘘《うそ》みたいにあがった。王都から術師の一団が到着《とうちゃく》した時には、木と麦のくすぶる煙《けむり》が昇っているだけだった。
自分自身はブランドンのことまでしか覚えていない。その先はぷっつりと真っ白だ。国土を救ったのだと大袈裟《おおげさ》に誉《ほ》められても、総《すべ》てに平凡《へいぼん》な高一には、自分の手柄《てがら》だと容易には信じられない。
「私《わたくし》の申し上げましたとおり、魔力《まりょく》は魂《たましい》の資質なのです。陛下は魔王の御魂をもたれるお方、盟約などでお手を煩《わずら》わさずとも、四大要素も喜んで従いましょう」
ギュンターは一人勝手に納得して、我が事のように吹聴《ふいちょう》して回ったようだ。コンラッドはもう少し客観的だ。
「俺は王都に来る途中《とちゅう》の、休憩《きゅうけい》した場所が怪《あや》しいと思う。あの時きみと俺は水を飲んだだろ。俺には魔力がないから判らないけど、どうもあれが何かのきっかけに思えてならない」
「どうでもいいよ、そんなこと」
だって自分では覚えてもいられない奇跡《きせき》だもん。
廊下の遠い向こうから、揺《ゆ》れる金髪《きんぱつ》が歩いてくる。青の強い紺《こん》の正装が素晴《すば》らしく似合う、魔族のプリンス・ヴォルフラムだ。男で美しいってのはこいつのことだよギュンター、溜息《ためいき》と一緒におれは呟《つぶや》く。
「なんだその質素ななりは」
「……はあ?」
陛下のために開発されたデザインだけあって、もともと着てらしたこの黒のお召物《めしもの》が最もお似合いです、そういう意味のことを言われた直後だったのに。
「肩章も装飾《そうしょく》もまったくないじゃないか。これから魔王になろうという者が、そんなみじめで貧乏《びんぼう》くさい格好でいいと思っているのか!?」
おれの顔を見ないまま、あちらへこちらへと視線が動く。いつもなら白磁のような滑《なめ》らかな頬《ほお》に、気のせいか微《かす》かに朱《しゅ》がさしている。
「財のかけらもないような姿で、兄上やぼくに恥《はじ》をかかせるな!」
言い返そうと口を開く前に、ヴォルフラムはおれの胸を掴《つか》み、輝く金色の飾《かざ》りを留めた。
「おい……」
「これはぼくが幼少の頃《ころ》に、ビーレフェルトの叔父上《おじうえ》にいただいたものだ。特に謂《いわ》れのあるものではないが、戦勲《せんくん》どころか戦場に出たこともない奴には、こんなものこそ似合いだろう。なにしろユーリは馬にさえ乗れない、史上最高のへなちょこ陛下だからな」
「へなちょこ言うなーっ」
「よし、まあまあだ」
不自然な早口でそれだけ言うと、ヴォルフラムは小走りに立ち去った。左胸につけられた贈《おく》り物は、両翼《りょうよく》を広げた金の鳥だ。コンラッドは得意げに弟の背中を見送る。
「どうやら陛下はヴォルフに気に入られちゃったようですね」
「えええええーっ!? あの高慢《こうまん》ちきナニサマだ殿下《でんか》にぃ!?」
その話題から逃《のが》れようと広間の扉を細く開き、中を窺《うかが》って再び気分が悪くなる。この国の各地方から本日のために集まってきた貴族諸侯の方々、更《さら》に各種族を代表する、ちょっとヒト型とは称しがたい方々。仲良しになった骨飛族とその親戚《しんせき》の骨地族、米国のビルの上に居るガーゴイル風、灰色の豹《ひょう》に似た四本足の人、アブラゼミの羽根と音を持つ手のひらサイズのプチマッチョ(恐らく妖精《ようせい》)、床《ゆか》を濡《ぬ》らしてデカデカと横たわる巨大なマグロ。
「ま……鮪《まぐろ》ですか」
あれがみんな国民なんだから、慣れなくてはいけないと言い聞かせる。人間は外見じゃない、いや、魔族は外見じゃない。あまりの緊張《きんちょう》で所信表明演説を忘れかけた。
魔王の野望、眞魔国日本化計画だ。
「えーと、わたくしが第二十七代魔王に就任しました暁《あかつき》には、平和主義と国民主権への移行を最終目的とし……おぇぇっ……コンラッド、もうおれ吐きそう……しかも緊張で……なんか、腹も痛《いて》ぇ……もいっぺんトイレ、トイレどこだっけ」
「またですか?」
「マタじゃなくて腹だよハラ」
「そんな時間はございません、陛下!」
白くてタイトなチャイナ服風の教育係が、我が事のような心配顔で走ってくる。
「じきに始まりますからね。よろしいですか陛下、ご説明いたしましたとおりに、中央を進まれて壇《だん》に上がられましたら、ツェツィーリエ上王陛下から冠《かんむり》を戴《いただ》き……もちろん儀式《ぎしき》を執《と》り行わなかったからといって、国民の陛下への忠誠が揺《ゆ》るぐわけではありませんが、やはり形式にはそれなりの効果が……」
「だぁーもう、だからちゃんとやるって言ってんじゃん」
「それを聞いて安心いたしました。よくぞご決心くださいました。陛下のこの頼《たの》もしいお姿を見られるだけでも……」
感極まって「爺《じい》」モードに入ってるギュンターの横を、無表情な男が通り過ぎる。そのまま扉に手を掛《か》けるグウェンダルにおれは慌《あわ》てた。
「ちょっと待て、おれより先にあんたが入っちゃってもいいの?」
容貌《ようぼう》のみならず風格や、多分、素質の面でも最も魔王に適任だろうという長兄が、相変わらず不機嫌《ふきげん》そうな唇に、作り笑いを浮《う》かべてくれた。だーいサービース。
「上王陛下に冠をお渡《わた》しする光栄な役回りを仰《おお》せつかったものでね」
「なんだそうか。おれはまた式をぶち壊《こわ》してくれるのかと思っちゃったよ。だってあんたは、おれが王様になるの大反対だもんな」
「反対? 私《わたし》が?」
背筋の凍《こお》るような笑みを見せて、一歩|戻《もど》っておれの顎《あご》に指をかける。ああ絶対的な身長差。けどこれはバスケでもバレーでもない、残念ながら野球でもないけど、背の高さは捕手《ほしゅ》にも王にも関係ないはず。
「とんでもない、反対などするものか。良い王になられることを心より願うね」
「良いって……」
「素直で、従順で、おとなしい王陛下にだ」
「それは貴方《あなた》が陛下を、思うままにしようという企《たくら》みですかっ!?」
おれのこととなると過保護なママみたいになっちゃうギュンターの後ろから、コンラッドがのんびりと関係ないことを言った。そういえば、という感じで。
「そういえばグウェン、アニシナが来てたぞ」
クールが売りだった彼が、途端《とたん》に苦虫をかみつぶしたようになった。もっともおれは生まれてこのかた、苦虫ってのを噛《か》んだことはないんだけど。小さく舌打ちして扉の向こうに消えてしまう。驚《おどろ》いた、グウェンダルにもウィークポイントがあったんだ。
「さ、陛下、よろしいですか? 緊張してらっしゃいます? 深呼吸して、吸ってー吐いて」
「自分がやってどうすんだよ」
おれはギュンターとコンラッドを従えて、教えられたとおりに広間の中央を進んだ。真っ黒い花びらが敷《し》き詰められている。縁起《えんぎ》でもない。石の階段をゆくと壇上には、輝くばかりの金の巻き毛と、艶めく素材の深紅のドレスで、ツェツィーリエ様が待ち受けていた。
「お、お美しいですツェリさま」
満面の笑み。
「ありがと、へいか。でもこんな時まであたくしの機嫌を取らなくてもいいのよ。今日の主役は、あなたなんですもの」
おれたちはちょうど、ライブ会場のアーティストみたいな位置に立っていた。ステージ正面には人工の小さな滝《たき》があり、両手を広げたくらいの幅《はば》の中央に、ソフトボールサイズの穴が空いている。水は静かに脇《わき》を落ちて、細い通路を下ってゆく。
「では陛下、滝の中央に右手を差し入れて、眞王の御意思を聞いてらして」
「は? だって眞王って、死んでるんでしょ?」
「ええ。でもあの穴は眞王|廟《びょう》に通じていて、魔王になることを許された者だけが、あそこに指を入れることができるのよ。そして眞王が新しい王と認めれば、差し入れた手をそっと握《にぎ》ってくださるの」
「ええッ」死んでるはずの人が!?
ツェリ様はおれの耳に唇を寄せ、フリだけよ、と囁《ささや》いた。
「あたくしのときも指を入れることはできたけど、誰《だれ》も握り返してなんかくれなかったわ。入れたらもったいをつけてちょっと待ってから、ゆっくりと出した手を高く上げるの。いかにも眞王の承認を得たというように。ね、陛下、難しいことはなにもないでしょう?」
背後からギュンターがせっついてくる。
「陛下、お早く」
「っていったってェ」
おれはイタリアの観光名所、真実の口みたいなものの前に立ち、右手を宙に浮《う》かせたまま、サーサーと流れる小滝の音を聞く。
「嘘《うそ》ついてたら噛まれるなんてこたないよな」
「まさか。こんなに硬《かた》い石でできているのですよ。急に動くはずがありません」
そうだよねー。怖《お》ず怖《お》ずと暗い穴に右手を近付けると、人差し指と中指が一緒《いっしょ》に入った。予想どおり中はひんやりとしていて、湿《しめ》った空気がまとわりついた。思い切って手首まで入れてしまう。
「あー良かった、やってみればなんてことない儀式だよね。あとはこれで勿体《もったい》ぶって腕《うで》を挙げりゃいいん……」
あれ?
指先が何かに突《つ》き当たった。奥《おく》の壁《かべ》、かな。
「陛下?」
ギュンターが心配そうに覗《のぞ》き込む。
「あれ……っうゎ、わぁッ、なんか、なんかがッ」
冷たい何かがおれの指を掴《つか》む。
「つっ、つ掴まれたッ、うゎ、やっ、コンラッドっ、なんかに掴まれたよッ!?」
「掴まれた!?」
そいつは恐《おそ》ろしく強い力で、おれの右手を引っ張った。待てよオイ、引っ張ろうったってこれは人工の滝なんだから、流れ落ちる水の向こうは壁だろ! 壁に激突《げきとつ》させてやっつけようってのか!? それ以前にこの引っ張ってる力は何者の……。
「どぅゎっぷ」
コーラス部員みたいな悲鳴とともに、顔から水の中に突っ込んだ。おれの服の背中や左腕を、ギュンターが必死で捉《とら》えようとする。コンラッドがおれの名前を呼んでベルトを掴む。けれどおれたちの間には水の壁があって、撓《たわ》んだ音しか届かない。
水の壁はあるのに、あるはずの石の壁はない。引き込まれたおれは酸素を求めて喘《あえ》ぎ……。喘ぎながら頭のどこかで勘付《かんづ》いていた。この世界に来るときも公衆洋式水洗トイレだったのだ。往復チケットをお求めの場合、お帰りも同じ交通手段でということだ。けど今回は、水がキレイなだけまし。ちょっとだけランクアップして、ビジネスクラスでってとこかー!?
あとはもう、勝手知ったるスターツアーズ。
や……や……や……。
なんだろ、相撲《すもう》の休場のしるし? ヤばっか連呼されたって、ヤリイカかヤンキースかヤンバルクイナかわからない。ヤンバルクイナ、とても懐《なつ》かしい。
耳元で『暴れん坊将軍のテーマ』が鳴り響《ひび》き、近鉄のチャンスなのかとびっくりして目が覚めた。何のことはない自分の青い携帯《けいたい》が、タイマーセットで鳴っている。
「渋谷っ」
「うわびっくりしたッ」
渋谷のヤだったんだな。肩《かた》を揺《ゆ》さ振《ぶ》られておれは跳《は》ね起き、名前を呼んでいたのが中二中三とクラスが一緒の眼鏡《めがね》くんだと気が付いた。誰だっけ、ああ、健、村田健。
プールで水を飲んだ時みたいに、鼻の奥がつんと染みる。濡《ぬ》れた布はごわついて硬く重く、じっとりと肌《はだ》を冷やして不快だった。ゆらぎかける視界をどうにかしようと、両目を細めて周囲を見た。薄暗《うすぐら》い公園の女子トイレ、灰色の壁、水色のドア、背中にはこの場に不釣《ふつ》り合いなブランドものの洋式便器、関係ないけどペーパーホルダー。覗き込んでくる村田健と、二、三歩|離《はな》れて制服警官。
「村田健……逃《に》げたんじゃなかったのか」
「助けてくれようとした人を残して、逃げるわけにはいかないよ」
警官が、大丈夫かと訊《き》いてきた。被害届《ひがいとど》けを出すかとか、相手の名前は知ってるかとか。
おれはぼんやりと思った。
ナイターが始まっちゃう。
それから、やわらかい照明の中庭で、誰かとしたナイトゲームを思い出した。野球のヤの字さえ知らないような、子供との約束を思い出した。夢《ゆめ》のほとんどを思い出した。
「村田……なんかおれ、すげー夢みちゃったよ」
「どんな?」
おれは黙《だま》って首を振った。長くて、とても話しきれない。
「あ、そう。じゃあ渋谷、ちょっと訊きたいんだけど……」
立ち上がろうとした拍子《ひょうし》に、服の下で肌に冷たい石が触《ふ》れる。それから学ランの胸元で、金の翼《つばさ》がきらりと訴《うった》える。おれは金色の両翼《りょうよく》を、左手でぎゅっと握り締《し》めた。
夢じゃ、ない?
ギュンター、ヴォルフラム、グウェンダル、ツェリ、ブランドン……コンラッド。
「……それ本当に、夢だったのか?」
「え?」
村田健は、曖昧《あいまい》な笑みで手を差し出す。
「だってお前、ズボンのベルト切れてるし……いや、こういうことは個人の趣味《しゅみ》の問題だからどうこう言いたくないけど……」
ふと我が身を見下ろすと、千切れたベルトと飛んだボタン、フルオープンの社会の窓。そこからのぞく、魔族の皆様《みなさま》御用達《ごようたし》のセクシー下着……。
「うひゃ」
しまった、もしかしてあれは、夢じゃなくて……。
どうやらまだ。
ゲームセットじゃないらしい。