陛下、わたくしは今、北の大地と同じくらい寒い場所で、自らの信仰心《しんこうしん》を試《ため》されているわけで……。日の出の祈《いの》りに向かう|途中《とちゅう》なのですが、つい数刻前に日付|変更《へんこう》の踊《おど》り……いえ、祈りを済ませたばかりなわけで……。
知らず知らず「北の国から眞魔国《しんまこく》編」口調になりつつも、フォンクライスト|卿《きょう》ギュンターは屋上展望礼拝場への長くて暗い階段を一段一段|踏《ふ》みしめていた。
「一体ここの連中の身体《からだ》はどうなっているのでしょうか。|睡眠《すいみん》時間を必要としないのでしょうか。どうでしたダカスコス、全然|眠《ねむ》れませんでしたよねっ」
「そーれすか、ひふんはひぇほうへはしたひょー」
「何ですって!? 屁《へ》をしたというのですか!? それも同室の私に断りもなく!?」
ダカスコスは|欠伸《あくび》を終えた。
「……してませんよ。ですが閣下、その|潔癖《けっぺき》なご様子では結婚《けっこん》などはとても無理ですねえ」
「結構、ですっ。私は、陛下だけに、愛と、忠誠を、お|誓《ちか》い、するのです、からっ」
早くも息が上がっている。
それにしてもフォンクライスト卿は、まだ陛下のご|寵愛《ちょうあい》を|諦《あきら》めていなかったのか。
ダカスコスは気取られないように、そっと溜息をついた。
兵士達の間の密《ひそ》かな楽しみ、陛下特別|特遇《とくぐう》予想(略して陛下トト)では「ヴォルフラム閣下に押し切られる」への買いが集中しており、配当も少ないのが現状だ。他《ほか》には「ツェツィーリ工上王陛下の誘惑《ゆうわく》に負ける」
「グウェンダル閣下作の等身大美女あみぐるみと世間に認められない愛に走る」など、予想は|多岐《たき》にわたっている。
中には「まだ見ぬ超《ちょう》年下美幼女を、ご自分の理想どおりに調《ちょう》……育て上げる」に、そうなって欲しくないと泣きながらも大穴狙いで賭ける、ナチュラルボーンギャンブラーな仲間もいた。けれどこの様子では「壊《こわ》れたギュンター閣下が|奇声《きせい》を発しつつ陛下を捜《さら》って|爆走《ばくそう》」も、あながちないとはいえなくなってきた。この目で当てれば高配当だ。家の|月賦《げっぷ》も一気に返せる。|女房《にょうぼう》もオレに惚《ほ》れ直すだろう。よし、ギュンター閣下、買い。
ダカスコスは心のメモ帳に書き込んだ。
「まったくっ、この階段は、非常識な長さ、ですねっ」
「いい訓練にはなりますがね」
新兵の通過|儀礼《ぎれい》である、|地獄《じごく》の五千階段うさちゃん跳《と》びに比べれば、こんな登りは楽なものだ。うさちゃん跳びは下りもセットなので、毎年最上段から転げ落ちて大怪我《おおけが》をする者や、中程《なかほど》で虚《うつ》ろな眼《め》をして|膝《ひざ》を抱《かか》える者と、様々な中途離脱者《ちゅうとりだつしゃ》が続出するのだ。そのかわり見事に完跳《カンチョー》した兵の中には、尿道結石が治った奴《やつ》もいる。
ギュンターがどんどん遅《おく》れるため、多くの僧《そう》が彼等を追い抜《ぬ》いていった。原則的に居室以外での会話は禁じられているので、誰《だれ》も話しかけてはこなかったが、何故かこちらに顔を向け、物言いたげな|笑顔《えがお》を投げてくる。
理由が知りたくてギュンターが暴れそうになった頃《ころ》、意を決した若い僧が肩を寄せてきた。周囲に|見咎《みとが》められないように小声で短いメッセージを残す。
「素晴《すば》らしかったです、日記」
はあ?
すると近くにいた僧達も、我も我もと囁《ささや》き始めた。
「感動しました」
「泣きました」
「続きは出ないんですか?」
「再版はしないんですか?」
「いやー、日記ってほんとうに素晴らしいですねえ」
挿絵《さしえ》をつけてみましたと、はにかみながら画帳を差し出されたところで、ついにギュンターは立ち止まった。
「……はあ!?」
刺激《しげき》の少ない修道の園なのでした。
魔族の傷を診《み》るのは初めてという温泉ドクター(この呼び方は|胡散《うさん》臭《くさ》いな)によると、痛み止めや化膿《かのう》止《ど》め、あらゆるドメを投与《とうよ》したので、現在はそう苦しくないだろうが、生き延びる保証はないという。
「今夜が土手ということですな」
「それは峠《とうげ》っていうんじゃないの?」
やたら派手な、おれと勝負だ宣言をかましたにしては、死にかけたゲーゲンヒューバーを戸板に載《の》せてそれじゃ今晩はこのへんでなんて地味に引き上げた。宿に帰還《さかん》してみれば時刻はすでに明け方近く、もうじき朝日が昇《のぼ》るだろう。
辛《かろ》うじて息をしている状態の男を、コンラッドのベッドに横たえると、グレタはそこから離《はな》れようとしない。おれとしてはもう|嫉妬《しっと》の炎《ほのお》でめらめらだ。こういうとこ男親って幼稚《ようち》である。
「陛下は近付かないでください。できたらヴォルフと、隣の部屋にいて」
「なんでだよ、だってそいつもう刀を|握《にぎ》る力もないじゃん。おれだってあそこまでの重症患者《じゅうしょうかんじゃ》に暗殺されるほどひ弱じゃないよ」
「いーや、油断はできないぞ。なにしろお前のへなちょこぶりは天然記念物かと保護したくなるくらいだからな」
ひょっとして誉《ほ》められているのだろうか。壁《かべ》に後頭部を|擦《こす》りつけ、|寝不足《ねぶそく》で|充血《じゅうけつ》した目でヴォルフラムは言った。
「しかし腑《ふ》に落ちないな。ゲーゲンヒューバーは何故お前を狙《ねら》ったんだろう。コンラートとの間に遺恨《いこん》があったとはいえ、あいつは反王権派ではなかったのに」
「ヒューブはユーリが魔王だと知らないはずだ」
「あ、そうか」
確かにグレタが|訴《うった》えていた。女の王様じゃなかった[#「女の王様じゃなかった」に傍点]って。ということは、血盟城にくる前に|接触《せっしょく》があった二人は、眞魔国の国主はツェリ様であり、隠《かく》し子《ご》だと申し出れば対面しやすいと情報を整理していた可能性がある。悲しいことにその情報は半年前のもので、最新版とはいかなかったのだ。
グレタがおれを狙ったのは、預けられていたスヴェレラの王室に気に入られたいがためだった。ではゲーゲンヒューバーが、おれに斬《き》りかかった理由は何だ。もちろん、ニコラと仲良くなったことや、彼女が彼の実家で子供を産もうとしていることも知らないだろう。判《わか》っててやったならとんだ恩知らずだ。恩にきろとは思ってないけど。
椅子《いす》の背もたれに顎《あご》を載せて、逆向きに座ってベッドを眺《なが》める。遠くから。
コンラッドが、低く無感情な声で言った。
「……本気にさせたかったんでしょう」
「本気に? ああ、王様かどうかは別としても、友人を襲《おそ》えばあんたが怒《おこ》ると踏んだんだな。まあ傍目《はため》から見れば、どら|息子《むすこ》とお目付役かもしれないけど」
「そうじゃない。あいつは一瞬《いっしゅん》で見抜《みぬ》いたんだ」
何を、と問い返そうとしたが、返事がなさそうなのでやめておいた。
重症患者の手を握り、グレタが独り言みたいに|呟《つぶや》き始めた。
「……ヒューブは死にたかったんだよ……」
「グレタ?」
「……ヒューブは昔、とても悪いことをしたんだって。生きているのが申し訳なくなるほど、非道《ひど》いことだったんだって。でも与《あた》えられた仕事があったから、どうにか考えずに済んだんだって。そのうちに段々昔のことを忘れてきて、生きていてもいいのかと思うようになって、好きな人もできたんだって。けど……」
ニコラと知り合って恋《こい》に落ち、すぐに周囲に引き裂《さ》かれた。魔族と人間だったから。
「お城の地下の牢屋《ろうや》に座り続けて、ずーっと時間がたつうちに、やっぱり自分は昔のあの罪を許されてないんだとわかったんだって。でもね、自分で命を絶とうとすると、夢に女の人が出てくるの。死んじゃだめって。まだ死んじゃだめって言うの。だから自分では死ねなくて、殺してくれる誰かを待つんだって。だから一緒《いっしょ》にお城を出たの。グレタは抜け道とか隠し通路を衛兵達より知ってたから」
以前に犯《おか》した|過《あやま》ちこそ、コンラッドとの間にある遺恨《いこん》の原因だろう。どんな顔で聞いているのか盗《ぬす》み見るが、いつも以上に|涼《すず》しげで、怒《いか》りも憎《にく》しみも|浮《う》かんでいない。
「……|途中《とちゅう》まで一緒に旅をしたんだよ……それからグレタはユーリのとこへ、ヒューブは強い人と会えるようにって、眞魔国じゃない場所へ行くって別れたの」
「自分より腕《うで》の立つ相手に斬られるために、用心棒なんかになったんだな……」
まさかそこで因縁《いんねん》の相手と再会し剣《けん》を交えることになろうとは、夢に出てくる女性とやらも教えてくれなかったに違《ちが》いない。
「ユーリ」
「ん?」
グレタの細い呼びかけに、おれは間の抜けた返事をする。
「ヒューブだんだん冷たくなってく……だんだん温度が下がってくよう!」
「え!? そりゃまずいよ、もういっぺん医者、さっきの医者」
「ねえグレタの熱を治してくれたでしょ? ニナの風邪《かぜ》も楽にしてくれたでしょ!? あの時みたいにヒューブも治してよっ、ヒューブの怪我《けが》も治してよー!」
「あれは、あっ、えーとホントに効果があったのかどうか……」
|医療《いりょう》従事者の言葉が胸に蘇る。
『陛下の強大なお力を以《もつ》てすれば、この程度の術など|容易《たやす》いはずです』
ギーゼラ、それは本当なの? おれはやっとケアルかホイミかを、使いこなせるところまで成長したの?
「ユーリ、助けて。手を握ってあげて」
「うんまあ試《ため》すだけなら」
立ち上がろうと腰《こし》を浮かすが、両肩《りょうかた》に置かれたコンラッドの大きい手で、すとんと椅子に戻《もど》される。強い掌《てのひら》で押さえられ、膝に力を込めても動けない。
「|駄目《だめ》です」
「そんな非情なこと言うなよカクサ……」
「|芝居《しばい》上の名前で呼ばれても駄目です。申し上げたはずだ。あいつは陛下に刃を向けた、再び企《たくら》まないとも限らない。そういう存在に近づけるわけにはいかない。ゲーゲンヒューバーの実力は、俺が一番|解《わか》ってる」
「だけど、だけどさぁ! 彼はニコラの婿《むこ》さんだし、生まれる子供の男親だろ!? 助けなきゃそいつだけじゃなくて、国で待ってるニコラが悲しむよッ。それに今は違《ちが》うリーグにいても、元々は同じチームの仲間じゃないか。元チームメイトが死にかけてるのを|黙《だま》って見てられるほど、あんた冷酷《れいこく》な男じゃないだろ!?」
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見上げる位置にあるコンラッドの瞳《ひとみ》が、すっと翳《かげ》って暗くなった。細かく散った銀色が、冷たい|輝《かがや》きに印象を変える。
「そういう男ですよ、俺は」
「コンラッド」
「あなたを危険にさらすくらいなら、ヒューブのことは|諦《あきら》める。俺はそういう男です」
|爽《さわ》やかで、好青年で、いい人を地でゆくコンラッド。何もかも|全《すべ》てがパーフェクトだが、ギャグだけは|滑《すべ》るウェラー|卿《きょう》コンラート。彼にこんな表情をされてしまったら、小心者は反抗《はんこう》できなくなる。
「……おれが王なんかでなかったら……止められることもなかったのに」
「とんでもない。魔王陛下でなかったら、間《ま》怠《だる》っこしい理由の説明などせずに力ずくで部屋から連れ出してます」
「お前等いつまれややこしいことを言ってるつもりら?」
半目を開けたまま居眠《いねむ》り中だったヴォルフラムが、|不謹慎《ふきんしん》な|欠伸《あくび》を噛《か》み殺した。
「ゲーゲンヒューバーに癒《いや》しの術を試みたいんらろ?」
「|喋《しゃべ》り方《かた》が起き抜けだぞ」
「なじぇぼくに頼《たの》まない?」
予想外の発言に、おれの理解力が追い付かない。
「だってヴォルフ……そんな特技があったっけ?」
「さすがに本職のギーゼラとまではいかないが、治癒力《ちゆりょく》を多少上げるくらいは経験がある。お前ごときに可能な技《わざ》を、このぼくが使いこなせないわけがないだろう。なにしろお前は」
「へなちょこです」
美少年は満足げに鼻を鳴らし、もう一度「頼むか?」と繰り返した。一も二もなくお願いする。へなちょこと呼ばれようと構わない。
「いいかユーリ、よく見ていろ。癒しの術とはこういうものだ。おいゲーゲンヒューバー!」
手を|握《にぎ》るというより手首を掴《つか》み、乱暴に揺《ゆ》すって怒鳴《どな》りつける。
「聞いてるか、この怪我人が! ぼくはお前など助けたくないが、ユーリが頼むというからやっているんだ。生き延びたらこいつに感謝しろ! 一生忠誠を|誓《ちか》うと約束しろ! まったく勝手に重傷を負ってからに、このぼくに|治療《ちりょう》させるとはいい|根性《こんじょう》だ。お前など死んでも構わないのだが、あの女とユーリが嘆《なげ》くからなっ」
そこから先は罵詈《ばり》雑言《ぞうごん》を並べ立て、聴衆《ちょうしゅう》の反感まで独《ひと》り占《じ》め。
「……確かに生きる気力を引き出してはいるようだけど……」
「あれはちょっと特殊《とくしゅ》な例ですから、覚えて|真似《まね》たりしないでくださいね」
怪我《けが》人《にん》の容態が安定したので、少しでも|睡眠《すいみん》を取っておこうと横になったのだが、数秒間で起こされた。おれの健気《けなげ》なデジアナGショックでは、四時間半が過ぎていた。
「そろそろ会場に向かわないと、約束の正午に間に合わない」
コンラッドがスーツケースを掻《か》き回している。
「効果的だから、これ着ますか」
黒の学ランタイプを広げてみせる。おばかな県立高校生ですというアピール以外に、どんな効果があるのやら。
「VIP席で双黒《そうこく》の美形が、黒い衣《ころも》を纏《まと》って悠然《ゆうぜん》と見物してたら、観客は畏怖《いふ》の念で見上げると思うなあ」
「縁起《えんぎ》悪っ、とか十字きられるだけじゃねぇのぉ? それ以前におれが心配なのはさ、肝心《かんじん》の|珍獣《ちんじゅう》の手配なんだけど。だって珍獣レースだよ? エントリー動物がいなかったら話にならないでしょ。おまかせくださいなんて大河ドラマの決め台詞《ぜりふ》使っちゃってさぁ。おれ本人が走るなんてことになったら、ポジションが捕手《ほしゅ》だからそんなに速くないよ」
「その点はご安心ください。足も速いし愛嬌《あいきょう》もあるし、珍獣率も80%以上のとっておきを調達してきました」
新しい|靴下《くつした》を履《は》きながら、自分達が大博打《おおばくち》や人助けのためではなく、捻挫《ねんざ》の治療に来たことを思い出した。ヒルドヤードの|歓楽郷《かんらくきょう》に着いてから、驚《おどろ》いたことにまだ一日しか経《た》っていないのだ。
隣《となり》のベッドのヴォルフラムが「もう食べられない」と可愛《かわい》い寝言《ねごと》。
ウェラー卿はルームサービスを招き入れ、軽食のトレイをおれに渡《わた》した。
「少しは食べておかないと。|緊張《きんちょう》で空腹感がないかもしれないけど」
「緊張? 緊張ねえ。そうだよな、緊張しなきゃおかしいよな」
その場の勢いだったとはいえ、おれは自分自身を賭《か》けの対象にしたのだ。勝てば西地区の興行権が得られ、イズラもニナも解放で万々歳《ばんばんざい》だ。だが万に一つでも|敗《やぶ》れた場合、おれの身柄《みがら》はあの下衆《げす》なルイ・ビロン預かりとなり、そこからどこへ移されるか解らない。下手したら他の珍獣みたいに剥製《はくせい》にされて、どこかのお大尽《だいじん》のリビングに飾《かざ》られるかもしれない。その時はパンツはどうなるのでしょうか。|鍛《きた》えられた肉体美には不要なのでしょうか。
「あらかじめ申し上げておきますが、予測できないアクシデントがあって、もし万が一、負けでもしたら……」
何事においても用意|周到《しゅうとう》なコンラッドは、やはり敗北バージョンの行動予定まで立てていた。
「……|卑怯《ひきょう》なことをしますから。その時になって嫌《きら》ったり罵《ののし》ったりしないでください」
「卑怯なことって、どんな?」
「陛下を抱《かか》えて裸足《はだし》で|逃走《とうそう》」
「何で裸足で。財布《さいふ》も忘れて?」
ちょっと笑ってしまった。どのみち俊足《しゅんそく》は必要不可欠か。
十年に一度の大催事《だいさいじ》という、ヒルドヤード歓楽郷・珍獣レースは、テント村を急遽《きゅうきょ》畳《たた》んで設《しつら》えられた、特設トラックにて開催される。
ルイ・ビロンの手下達が非常に頑《がん》張《ば》ったのか、一晩のうちに競馬場らしき施設《しせつ》が出現していた。柵《さく》を張り巡《めぐ》らせた草原では、早くも観客が場所取りを始めている。
「結局なにが走ることになったの? 普通《ふつう》の馬じゃだめなんだろ」
「まあまあ、パドックに待たせていますから」
学ラン姿で歩くだけで、周囲の人間が道を空ける。
原っばの|途切《とぎ》れる少し手前に、小さめのサークルを回っている動物がいた。
四本の足を優雅《ゆうが》に動かし、重量級の歩幅《ほはば》で歩いている。脇《わき》には細く小柄《こがら》な男がいて、宥《なだ》めたりすかしたりと忙《いそが》しい。べージュと茶色のツートンカラー。一見すると、地球の|絶滅《ぜつめつ》危惧《きぐ》種《しゅ》。
「ぎゅえ」
ヴォルフラムが蛙《かえる》みたいな声をもらした。みるみるうちに顔色が変わっていく。
「まっまさかその、|不貞不貞《ふてぶて》しい生き物に、ユーリの命運を預けるわけではないジャリな!?」
「だからヴォルフ、ジャリ口調が再発してるぞ」
「うっ、うるさいジャリよ! ぼくはジャリジャリなんて言ってないジャリよっ」
冬の短い草の上を、のっしのっしと踏《ふ》んでいるのは、ジャイアントパンダそっくりの|砂熊《すなぐま》だった。調教師かつ騎手らしい小柄《こがら》な男が、おれたちを見つけて両手を振《ふ》る。
「陛下ーっ閣下ーっ」
きちんと見えているか確認《かくにん》したくなるような、細く|柔和《にゅうわ》な灰色の瞳《ひとみ》。|砂丘《さきゅう》で運命的な出会いをしてから、はや四ヵ月。あの日の公約どおりライアンと砂熊は、ヒルドヤードの歓楽郷で人気者になっていた。
「陛下、ケイジを|紹介《しょうかい》します。ほらケイジ、畏《おそ》れ多くも|魔王《まおう》陛下が、お前の走りをご覧になるそうだ」
「……ていうかさあ、|普段《ふだん》サーカスで檻《おり》に入ってるだけなのに、こいつ本当に足速いの?」
「そりゃもう猛烈《もうれつ》に速いですよ。生まれたときから砂丘で生活しているわけですから、砂地を走り込みするのと同様に、下半身強化ができているわけです」
足の速いパンダというのも|珍《めずら》しいが。
ライアンの五倍は体重のありそうな砂熊が、身体《からだ》を寄せてしなだれかかる。心臓|抉《えぐ》れそうな爪《つめ》の手を、じゃれているのか|擦《こす》りつけた。
「わははケイジは甘《あま》えん坊《ぼう》さんだなあ。うーんオレの蜂蜜《はちみつ》ちゃーん」
それは本当にじゃれてるの、獲物《えもの》を解体しようとしてるんじゃなく? と訊きたいところをぐっと堪《こら》えた。おれたち素人には判らない信頼関係が、調教師と珍獣の間にはあるに違いない。
観客スペースがかなり混雑してきた頃《ころ》に、ファンファーレめいた金管楽器が高らかに鳴らされた。|盆踊《ぼんおど》りの櫓《やぐら》みたいなVIP席は五人座るときつきつで、お互《たが》いの|膝《ひざ》とか腿《もも》なんかがスキンシップよろしく触《ふ》れ合った。隣の櫓のビロン氏は、二人だけでゆったりくつろいでいる。
出場動物紹介のアナウンスがあると、草競馬場は客の|足踏《あしぶ》みで轟《とどろ》いた。
「赤コースぅー、世界の珍獣てんこもり、オサリバン見せ物小屋所属ぅー、百六十七イソガイぃー、砂熊ぁー、ケイージーぃ!」
うおー砂熊かよあの|砂漠《さばく》で人間食ってる砂熊が走るとこ見られるんだぜ砂熊かわいいー、などとどよめきが起こる。
「いやその前に、紹介方法が競馬とかレース向けじゃないような気が……ていうか百六十七イソガイって何? イソガイって何の単位?」
「青コースぅー、世界に名だたるルイ・ビロン氏所有うー、二百一イソガイいー、地獄極楽《じごくごくらく》ゴアラぁぁぁぁー!」
うおー地獄極楽ゴアラかよあのぶら下がらないときゃ|悪魔《あくま》で主食は誘拐《ゆうかい》という地獄極楽ゴアラかよこりゃすげえもん見せてもらえそうだなどと、期待の声も上がる。
「主食は誘拐じゃなくてユーカリなんじゃないかな。にしてもゴアラってのはどんな動物なんだ? しかも地獄極楽って仏教用語だし……」
ところがターフに現れたのは、ごく普通《ふつう》のコアラだった。もちろん大きさは非常識で、砂熊ケイジと同じかそれ以上ある。太い幹ごと台車で搬入《はんにゅう》されてきたが、枝を|両腕《りょううで》で抱え込み、目を閉じてうっとりとぶら下がっている。
「あれのどこが地獄極楽なんだろ」
「よく見ていると楽しいですよ。いわばジキルとハイドってやつです」
レースはトラックを一周し、この席の目の前がゴールとなる。砂熊ケイジの背にはライアンが|騎乗《きじょう》しているが、ゴアラ側は斧《おの》を持った男が三人、幹を囲んで立っているだけ。昨夜のヘイヘイホーブラザースだろうか。
スターターの右手が高く挙がり、振り下ろすと同時に斧が振るわれる。太い幹が鈍《にぶ》い音を立てて揺《ゆ》れて、ゴアラが枝から落っこちた。途端《とたん》に動物の表情が変わる。見開かれた目は|充血《じゅうけつ》して真っ赤、血管|浮《う》きそうな茶色の鼻。口を開けば並ぶ犬歯が剥《む》き出《だ》しになり、鳴き声というより雄叫《おたけ》びをあげる。
「ゴアァー!」
「こっ、こわ」
スムーズにスタートを切っていた砂熊ケイジを、視界の端《はし》に捕捉《ほそく》すると、ハンターの走りで追い掛《か》ける。なるほど騎手《きしゅ》(?)が必要ないわけだ。何人《なんぴと》(人?)も俺の前を走ることは許さんという主義か。
「|大丈夫《だいじょうぶ》かなライアンと砂熊ケイジ。あんなんに追い付かれたら食い殺されそうだよ」
「うーん、地獄極楽ゴアラは|肉食獣《にくしょくじゅう》ですからね」
危《あや》うし砂熊|刑事《けいじ》。県警からの応援《おうえん》は間に合うのか!? 調教師が|自慢《じまん》していただけあって、|珍獣《ちんじゅう》達のスピードは馬並みだった。前肢も後肢も動くのが速すぎて、おれの動体視力では間に合わない。
「昨夜、俺はライアンに退職金を渡しに行っていたんですが」
「あ、女じゃなくて男のとこに行ってたんだ」
「……そこで見た光景といったら、それはもう、この世のものとは思えないような。なにせ砂熊とライアンが起居を共にしていたんですから」
それ、片付けられない女達の部屋と、どっちがすごい? 走るために生まれてきたのか、それとも食欲のせいなのか、ゴアラはスタート時点での差を確実に詰《つ》めてきている。口元からなびく白い筋は、糸や紐《ひも》ではなく涎《よだれ》だった。熱く荒《あら》い息づかいも、すぐ後ろまで|迫《せま》っているに違《ちが》いない。
「追いつかれる、追いつかれるぞっ? しかももう第三コーナー。やっぱコースが砂じゃなかったのがまずかったか?」
「実際に砂だったら、あいつは転げて掘《ほ》って潜《もぐ》って住んで罠《わな》をはっちゃって、レースになんかなりません。砂である必要はない。それより、この空き地に特設コースを造ってくれて助かった。見てください、ゴール直前に|樹齢《じゅれい》のいってそうな|巨木《きょぼく》があるでしょう?」
「ああ、あの枝振《えだぶ》りのよさそうな」
「そこがポイント」
ぴっかりくんがオーバーなアクションで、|驚喜《きょうき》したり落胆《らくたん》したりを繰《く》り返す。隣《となり》でコンラッドは余裕《よゆう》の笑《え》みを浮かべ、眠《ねむ》たそうなヴォルフを定期的に小突《こづ》いている。
第四コーナーを繋《つな》がるようにして回り、二|匹《ひき》は最後の直線に差し掛かった。ゴアラの鋭《するど》い牙先《きばさき》は、ピンと立った砂熊の短い尻尾《しっぽ》に今にも食いつきそうな位置にある。
「ああーケイジ、危ない! ライアン、ライアンー!」
該当《がいとう》する単語があるのかは知らないが、草煙《くさけむり》で視界に薄緑《うすみどり》の幕が張り、問題の巨木を通過する辺りで観客は勝負の行方《ゆくえ》を見失った。と、おれたちの目の前のゴールラインに、砂熊ケイジ一頭だけが突《つ》っ込んでくる。
「え!?」
ライアンが愛熊の首に手を回し、抱《だ》き付いてから中腰《ちゅうごし》でガッツポーズ。
|歓喜《かんき》の雄叫びをあげる観客と、舞《ま》い飛ぶ無数の外れ獣券。待てよいつの間に公営ギャンブルにされたんだ?
「……なに? なになに何でケイジだけが……ゴアラはどこに消えちゃったわけ?」
コンラッドに促《うなが》されて見上げると、ゴール前の巨木から張り出した立派な枝に、地獄極楽ゴアラがぶら下がっていた。|隆起《りゅうき》のある太い横枝にしがみつき、うっとりと両眼を閉じている。すっかり極楽モードのようだ。
「ゴアラは|凶暴《きょうぼう》な肉食獣ですが、好みの枝を見つけるとぶら下がらずにはいられないんです。それまでどんな|状況《じょうきょう》におかれていても、フェイバリットな樹木に出くわすと我を忘れてしまうんですよ」
夢見|心地《ごこち》で木を抱《かか》える灰色の獣は、遠近法さえ気にしなければオーストラリアの象徴《しょうちょう》ともとれる可愛《かわい》らしさだった。バイオレンスゴアラに豹変《ひょうへん》する瞬間《しゅんかん》を見られなければ、マスコットキャラクターにもなれるだろう。
しかしどんなにカワイくても、明らかな|棄権《きけん》パターンだ。勝手に試合放棄《ほうき》したのだから、ケイジあんどライアン組の勝利は確定し、おれの身柄《みがら》も自分の手に戻《もど》ってきたわけだ。
「認められんぞっ!」
ニメートル離《はな》れた隣の枡席《ますせき》から、ルイ・ビロンが憤怒の表情で立ち上がる。その怒《いか》りはお門違《かどちが》いだが、|握《にぎ》った拳《こぶし》は震《ふる》えている。
「こんなことは絶対に認められん! 事故で中断されたのだから、レースは無効、再試合を要求する!」
「冗談《じょうだん》じゃないよ。アクシデントでも何でもない、あんたの選んだ選手がリタイアしたってだけじゃん。オーナーが持ち馬の性格や、馬場との相性《あいしょう》調べずにエントリーしたのが敗因だろ? それを無効だ再試合だって、|抗議《こうぎ》するだけみっともねーって」
「認めんぞ、地獄極楽ゴアラが砂熊に負けるなど……誰《だれ》か! 新しい駒《こま》を引けーっ! 無効試合だ、無効試合。再レースをするぞ」
金八仕込みのワンレングスが、興奮で一房《ひとふき》、口の中に入っている。八の字だった|眉《まゆ》は富士山マークまでバージョンアップし、横にいた手下をどついている。
「もう一頭だ。そうだ、ラバカップだ、ラバカップを連れてこい」
「ふっざけんなよ!? 無効試合なんて宣言できんのは当事者じゃなくて|審判《しんぱん》だけだろうが! しかもその|妙《みょう》に発音のいいロボコップみてーな、ロバとも馬とも|河童《かっぱ》ともつかない生き物は何だよ!?」
ヒスクライフが身軽に飛び移り、昨夜|交《か》わされた調印書を突き付ける。
「|往生際《おうじょうぎわ》が悪いですぞ、ルイ・ビロン。このとおり、|貴殿《きでん》は条件に同意された。これ以上の|悪《わる》足掻《あが》きは自身の名声に傷をつけるばかりだ。もっとも悪評も名声のうちと、大らかに勘定《かんじょう》するのならば、だが……あっ」
驚《おどろ》いた。|証拠《しょうこ》書類をむしり取り、黒ヤギさんたら読まずに食べた。
返事を書いてる場合じゃないぞ。口の中に丸め込まれた紙の代わりにと、おれはポケットを探《さぐ》ってしわくちゃの物体を摘《つま》みだす。なんだっけ、これ。開いてみると内側は紙幣《しへい》、外側は真っ白。
「……|偽札《にせさつ》? そうだ、そーだった偽札だよッ! おいブランドバッグ、じゃなかったルイ・ビロン! そうやって証拠を隠滅《いんめつ》しても、あんたの悪人ぶりは隠《かく》せねえぞ!? |隣接《りんせつ》したテントの二本角の下に、不正|偽造紙幣《ぎぞうしへい》をごっそり保管してただろ。ほーらここに現物が二枚もある。表だけ印刷で裏面真っ白なんて、いかにも偽札くさいだろ」
薄《うす》い紙をひらひらさせてやる。
「陛下……」
「ん? なによコンラッド、そんな申し訳なさそな声しちゃって」
「小銭しか持たせてなくてすみません……言いにくいんですが……そのー、ヒルドヤードの紙幣はですね」
お年玉でしか見ないような、ピン札を怖《お》ず怖ずと渡《わた》される。
「げ」
「……元々、片面印刷です」
裏、真っ白。|脳《のう》味噌《みそ》もホワイトアウト。
「ふん! 異国の若造などに何が解《わか》るというのだ。無礼千万な言《い》い掛《が》かりをつけられてはたまりませんな!」
ビロンが吼えると、ヒスクライフが憤慨《ふんがい》に眉を上げ、剣《けん》の柄《つか》に指を向けた状態で言った。
「だが問題は、それがヒルドヤードの紙幣ではなく、この私の故国であるカヴァルケードの札だという点だ!」
ビロン金八の顔色が変わる。
「もちろん、我が母国のドラクマ紙幣は、片面印刷などではない! さてルイ・ビロン氏、どのような|詭弁《きべん》を聞かせてくれるやら」
ずずいと詰め寄るぴっかりくん、日輪に輝く頭頂部。
「ヒルドヤードの役人に鼻薬をきかせていても、カヴァルケードの追及からは逃《のが》れられまい。さあビロン、観念して権利書を渡し、行いを恥《は》じて蟄居《ちっきょ》するがいい」
「……そんなにこの地の興行権が欲しいか」
この期《ご》に及《およ》んで何を言いだすのかと、おれを含《ふく》め全員が身構えた。グレタだけが周囲を見回して、小動物みたいに小鼻をひくつかせる。
ルイ・ビロンは狂気をはらんだ笑みを|浮《う》かべ、唇《くちびる》の後れ毛を払《はら》いのける。
「ならば望みどおりくれてやろう。こんな田舎《いなか》臭《くさ》い観光地の一つや二つ、こちらにとっては痛くも痒《かゆ》くもないわ! 文字どおり何もかも真《ま》っ新《さら》になった西地区で、|偽善《ぎぜん》的でお綺麗な商売を興《おこ》せばよい。このルイ・ビロン、発《た》つ者として後を濁《にご》さぬよう、自分の|商《あきな》いは自分できっちりぽんと片をつけてゆこう」
子供ばかりかおれの鼻腔《びこう》も、|粘膜《ねんまく》を刺激《しげき》されて困っている。このきな臭さからすると、どこかで不法にゴミでも|焼却《しょうきゃく》しているのだろうか。
「炎《ほのお》で|浄《きよ》められた歓楽街《かんらくがい》に、教会でも寺院でも建てろというのだ!」
「ユーリあそこ!」
ヒステリックな高笑いを背に聞いて、グレタの指差す先に目を凝《こ》らす。広場に隣接する木造の|娼館《しょうかん》から、煙と炎が昇《のぼ》っていた。
「火をつけさせたのか!?」
特設競技場に陣《じんど》取っていた観客達が、我先にと反対方向へ逃《に》げ始める。人波に押されて櫓《やぐら》はぐらつき、地面に降りることもままならない。
「おのれルイ・ビロン、卑劣《ひれつ》な|真似《まね》をッ」
「消防車、消防車どこよ? 消防士は? それに……うわっ」
締《し》め切られていた窓が二つ、|爆音《ばくおん》と共にいきなり炎を吹《ふ》き出した。カート・ラッセルが吹き飛ばされたバックドラフトが、すぐ目の前で起こっている。
|瞬《またた》くうちに劫火《ごうか》は建物を包み込み、隣の店や|脇《わき》の草葉にも延ぴ広がる。ようやく消防隊らしき男達が、手押しのポンプ車を転がして駆《か》けつけた。だがもはや火の勢いは留《とど》まるところを知らず、数軒《すうけん》の木造建築を舐《な》め尽《つ》くす。
「ていうか……どうして女の子達がろくに避難《ひなん》してないんだ?」
命からがら道路まで逃れてきたのは男の店員ばかりで、あんなにいた少女達の姿はどこにもない。
「夕方からきっちりぽんと働いてもらうために、娘《むすめ》たちにはたっぷりぽんと休養を与《あた》えている。うちは労働条件がいいのでね。この時間はぐっすりぽんと眠《ねむ》っているだろう。安心して休める環境《かんきょう》作りのために、不審者《ふしんしゃ》の侵入《しんにゅう》を防ぐべく鍵《かぎ》も掛《か》けてある。待遇《たいぐう》のいい店づくりが身上だったのでね」
「それ……逃げられないんじゃ……」
ヒスクライフの部下が人混みを掻《か》き分けて、消防隊に手を貸すべく進みだした。
「おのれルイ・ビロン、なんという卑劣なことを」
「おやめくださいヒスクライフさん、人聞きの悪い。これは単なる不幸な事故。保険のおりる程度の不運な事故ですからな」
「陛下、グレタも。あまり|凝視《ぎょうし》しないほうが……」
こちらに面した窓の|木枠《きわく》が外され、女の子が一人、乗り出した。イズラかニナではなかろうかと|煙《けむり》で痛む目を凝《こ》らすが、色の薄い長めの|金髪《きんぱつ》は、煤《すな》まみれの知らない顔にかかっていた。
三階から地面までの長い|距離《きょり》に、少女は躊躇《ちゅうちょ》して身を戻す。飛び降りれば熱からは逃れられるが、落ちてどうなるかは判《わか》らない。
「陛下?」
彼女から目が離せなくなる。知らず知らず心の中で、飛び降りるなと強く叫《さけ》んでいた。飛び降りるな、あと少しだけ待て。きっと誰《だれ》かが助けに来る。
誰かって、誰?
「……誰かって……誰だよ……。こんな目に遭《あ》わせてるの、一体だ……」
背中を炎に舐められて、女の子が窓枠《まどわく》に足をかけた。ふと顔を上げたのと同じタイミングで、一瞬《いっしゅん》だけ視線が絡《から》み合う。
「やめろ!」
笑った、気がした。
「……なんで……」
見届ける勇気も覚悟《かくご》もないまま、人影《ひとかげ》のなくなった窓だけを眺《なが》めていた。オレンジ色に輝《かがや》く内部は、むしろ神《こうごう》々しいような光で満ちている。
怒《いか》りと絶望と無力感で、思考領域が空っぽになる。
大地へと真《ま》っ直《す》ぐに落ちていった身体《からだ》の、残像が煙の向こうに映る。
なんてことを。
胸の魔石《ませき》が火災の熱を吸い、顔の前の酸素までも揺《ゆ》らめいた。頭蓋《ずがい》の奥のどこかから、微《び》電流がシナプスを駆け抜《ぬ》ける。
脊柱《せきちゅう》を這《は》い上がる|衝撃《しょうげき》が、|鼓動《こどう》に加勢して生のリズムをいっそう強める。重低音と耳鳴りの超高《ちょう》音が、耐《た》え難い激しさでせめぎ合った。
「まだほんの……子供なのに……」
延焼の橙《だいだい》と煙の灰色、それを掻き消す閃光《せんこう》が、視界を一気に純白にした。
アドレナリンとドーパミンが示し合わせたみたいに、活力と恍惚感《こうこつかん》が全身に広がる。
|魂《たましい》の襞《ひだ》から|記憶《きおく》となって姿を現し、おれを守護してくれていた人が、光の形で|微笑《ほほえ》んだ。
やってごらんなさい。
さあ。
そんなのは無理だ。おれだけで世界を歪《ゆが》めるなんて、そんなことまだできるわけがない。
ではどうしたいの?
誰かの力を借りたいの?
「違《ちが》う」
自分の力で動かしたいんだ。自分に力が欲しいんだ。
祈《いの》ったことがかなうのは、それを強く固く|誓《ちか》う者が、恐《おそ》れと|諦《あきら》めを超《こ》えたとき。
望んだ姿になれるのは、そうありたいと心から願う者が、信じて力を尽くすとき。