遠くで波の音が聞こえる。
|壁《かべ》の|隙間《すきま》から差し込む光のお陰《かげ》で、今が夜ではないと判った。それにしてもこの空間は|狭《せま》く暗く、むせ返るような果物《くだもの》の|匂《にお》いで息苦しい。
「だからオレンジの箱に隠《かく》れるのは反対だったんだ! オレンジ色という時点で、おれの神経を逆撫《さかな》でするんだよっ」
「うるさいぞユーリ。お前の言うとおり魚の箱にしていたら、|今頃《いまごろ》は生臭《なまぐさ》さで|窒息《ちっそく》して……おうぷ」
「わーヴォルフ、吐《は》くな吐くなここで吐くなー! ったってあれは空だったし洗ってあったんだから、こうやってフルーツと同居するよりは臭《くさ》くなかったと思うんだよな。ちぇ、|食糧《しょくりょう》に混じってこっそり船に乗り込むのは、我ながらいいアイディアだと思ったんだけどな……まずいぞヴォルフラム、|誰《だれ》か来た」
ドタバタと慌《あわ》てた足音がして、食糧貯蔵庫に人が駆《か》け込んできた。あの急ぎかたからすると、現在は夕食の準備中かもしれない。おれの健気《けなげ》なデジアナGショックによると、ただ今、午後五時二十分。|爪先《つまさき》で踏《ふ》んだ柑橘《かんきつ》類が、また酸味のある汁《しる》を流した。
「ぼくはウプ、もうとっとと見つかりたくなってウプ。そのほうが楽できる気がオウプ。陸を離れて久しいんだし、今更戻《いまさらもど》されもしないウッブ」
「|奇妙《きみょう》な語尾《ごび》でバカ言うな。おれたち密航中なんだぞ? 見つかったら首根っこ掴《つか》まれて海に放《ほう》り込まれちまうよ」
「ぼくとお前をか? そんな勇気のある者がいるものか。いくら鮮烈《せんれつ》の海坊主《うみぼうず》と呼ばれるサイズモアだって、王と婚約《こんやく》者を無下《むげ》に扱いはしないだろう」
「いや、問題はギュンターだよ。あの悲壮《ひそう》感|漂《ただよ》う別れの演説を覚えてるだろ? 生きては戻れないとでも言いたげだった。ありゃ今回の任務を余程《よほど》危険なものだと思い込んでるんだな。そんな状態の彼に見つかったら、絶対に同行させてもらえっこない」
「……まあ確かに、小シマロンは危険だが」
「って言ったってさー、ギュンターは特使として公式に訪問するんだぞ。酷《ひど》い目に遭わされるわけがないじゃないか」
精神的|脱皮《だっぴ》を経験して、いつの間にやら真ギュンターになっていたというフォンクライスト卿は、自分が行くと申し出たが最後、誰が何を言っても聞かなかった。彼の政治的|手腕《しゅわん》を知らないおれは、必死になって引き留めたのだが、どうやらそれが|超絶《ちょうぜつ》美形の涙腺《るいせん》を緩《ゆる》ませてしまったらしい。
「なあギュンター、いくらバーチャル会議が失敗したからって、責任取って志願しなくてもいいんだよ」
「そうだぞギュンター。むしろぼくに|譲《ゆず》るべきだ。雪、キク状態で色々あって、頭の螺子《ネジ》が緩み気味だろう」
「あっじゃあ次は葛湯《くずゆ》ギュンターになってみるってのはどうかなっ? ゆき、きく、くずゆ、ほーらエンドレス尻取《しりと》り」
「ううー陛下、私ごときの身をご案じくださるとは、なんとお|優《やさ》しい|御方《おかた》なのでしょう。陛下の美しく清らかな御心に触《ふ》れて、このフォンクライスト・ギュンター、今にもとろけそうな気持ちでございます。しかしながら此度《このたび》の任だけは、どうぞ私にやり遂《と》げさせてくださいませ。たとえこれが今生《こんじょう》の別れとなりましても、.私は彼の危険な地へと赴《おもむ》く心づもりでございます! おお陛下、陛下の麗《うるわ》しい|漆黒《しっこく》の|瞳《ひとみ》にもう二度と……いえしばらくはお会いできないと思うと、私のちっぽけな心臓が、バイヨバイヨと痛みます」
嘆《なげ》きの表現まで|微妙《びみょう》だ。
驚《おどろ》いたことにグウェンダルはあっさりと了承《りょうしょう》し、他の貴族の面々も全権特使という「栄誉《えいよ》」を譲《ゆず》った。男に対して辛辣《しんらつ》な言葉を浴びせずにはいられないアニシナさんでさえ、考えてみれば適任かもしれませんなどと|納得《なっとく》していた。
何故《なぜ》だ! 小シマロン本国には何があるんだ。超絶美形に相応《ふさわ》しい何かがあるのか!?
そう考えたらもう矢もたてもたまらず、密航計画を実行していた。
食糧が入った木箱に隠れ、出航間近「うみのおともだち」号に積み込まれたのだ。|艦長《かんちょう》のサイズモアは勇猛《ゆうもう》果敢《かかん》で気は優しくて力持ち、プライベートでは少々|髪型《かみがた》を気にする好人物で、おれも知らない仲ではないが、海軍の要職にある以上、正面切って密航させろとは言えない。そんなことを頼《たの》んだら、ギュンターとの板挟《いたばさ》みでますます髪が抜《ぬ》けてしまうだろう。だからこその独自の作戦展開なのだが、一体どうして船酔《ふなよ》い体質のヴォルフラムまでついてきているのか。
彼がいつ吐くか気が気ではなかったし、さっきから互いの|膝《ひざ》が当たって痛い。
「それにしても狭いな。こう狭いと毒女アニシナみたいな気分になる」
「痛た、脚を伸《の》ばすなよ。おれの|喉笛《のどぶえ》一号もだけど、お前の剣《けん》も|邪魔《じゃま》な……なに? なんで毒女アニシナ?」
「あるカバンの修理で職人が蓋《ふた》を開けると、アニシナがみっしりと詰まっているんだ。読むなら持ってるぞ、ほら」
ヴォルフラムは懐《ふところ》から文庫サイズの本を取りだした。やけに小さい。原書はハードカバーだったはずなのだが。
「量産型だ」
「りょ、量産型アニシナ……」
「布教のために旅先の宿の|抽斗《ひきだし》に忍《しの》ばせてこいと渡《わた》されているんだ」
「聖書じゃないんだから。ていうか普及《ふきゅう》じゃなくて布教かよ!?」
ツェリ様が愛の凄腕《すごうで》狩人《かりうど》なら、アニシナさんは世界を股《また》に掛《か》けるワールドワイド毒女か。|美貌《びぼう》の自由|恋愛《れんあい》主義党首と、|恐怖《きょうふ》の毒女アニシナ教教祖。どちらも甲乙《こうおつ》つけがたい。そして、どちらも彼女にしたくない。
おれは|卑怯《ひきょう》な手を使おうとして、開いたぺージに人差し指を這《は》わせた。中国の超能力者《ちょうのうりょく》もびっくりだが、眼《め》で見るよりも指で読むほうが|普段《ふだん》なら速いのだ。
「くっそー、さすがに最新印刷技術だなあ。印刷部分と余白部分の手触《てざわ》りの差が殆《ほとん》どないや。かすーかに感じるって程度だよ。これじゃ薄暗《うずくら》がりの中では読めない。んーと、なんだ? 修理屋が鞄《かばん》の蓋を開けると、|目映《まばゆ》い光が|一斉《いっせい》に飛び込んできた。うわっ」
本当に視界が一気に明るくなって、文庫本に魔術でもかかっているのかと驚いた。全開にされた上部から、照明よりも|眩《まぶ》しいものが覗《のぞ》き込んでいる。
しまった、|厨房《ちゅうぼう》係に見つけられた!
「……あれ!?」
気付かなかったことにしようというのか、相手は再び板を戻した。だがすぐにもう一度開けて、|天井《てんじょう》を向くおれとヴォルフを見詰めた。顔が確かめられないのは逆光のせいばかりではなく、男の頭部が光量を倍増しているのだと気付く。ピカピカに磨《みが》き上げられた頭皮は鏡のような仕上がりで、部屋中に照明を反射している。
「あれー!? 誰だ、陛下と閣下を食材にしようとしてたのは」
この声には聞き覚えがあった。
「しーっしーっ、|違《ちが》うんだってダカスコス」
フォンクライスト|卿《きょう》ギュンター配下の何でも係軍人、リリット・ラッチー・ナナタン・ミコタン・ダカスコスだ。せっかく本名を暗記したのに、フルネームで呼ぶと彼は泣いてしまう。潔《いさぎよ》く剃《そ》り上げたスキンヘッドを輝《かがや》かせながら、ダカスコスはフリルのエプロンで両手を擦《こす》った。
「一体全体なんで果物の箱になんか住んでるんスか? それとも何かの実験中ですか」
「そっちこそ、その少女|趣味《しゅみ》なエプロンはなに。いつの間にサイズモア艦のシェフになったんだ」
「ややや。実は前回帰宅して|女房《にょうぼう》の|機嫌《きげん》をとろうとしたところ、|喋《しゃべ》れば喋るほど|怒《おこ》らせるという最悪の結果となってしまいまして。沈黙《ちんもく》は金といいますか、家庭内別居といいますか。どうにも家に居づらいんですわ。これはもう長期間留守にする仕事に転職するしかあるまいと求人雑誌を見ていたら、たまたまサイズモア艦長の船で|募集《ぼしゅう》があったんスよー。しかしまだ調理軍人見習いの身、日々|是《これ》皮剥《かわむ》きの毎日です。それよりもお二方、このまま箱に住んでられると、数刻後には厨房長ともめぐりあうと思うのですが」
「めぐりあい? そら困る、そりゃ絶対に困るって」
親切だが気が|利《き》かないダカスコスを唆《そそのか》し、厳重に口止めをした上でおれたちは食糧貯蔵庫を後にした。小シマロンまでは魔動を使って最速最短で七日。天候|次第《しだい》では十日以上かかる。まだ旅程の半分も来ていなかったが、誰かに発見された以上、狭苦《せまくる》しい木箱の中にいる必要もない。
ダカスコスは半ば涙目《なみだめ》になりながら艦長には言ったほうがいいと|訴《うった》えたのだが、後々ギュンターに責められるのを考えると、やはり関《かか》わる者は最小限に止《とど》めておきたかった。
「なにせあのフォンクライスト卿だからさー。怒《いか》りを|嫉妬《しっと》と取り違えて、目からビーム、口から|超音波《ちょうおんぱ》で呪《のろ》い殺しそうじゃん」
「そんな陛下、じゃあこうして私室にお二方を|匿《かくま》ってるオレはどうなるんスか!? オレはギュンギュンにやられてもいいっていうんスか」
「ごめん」
「……ひーっ!」
何やら恐《おそ》ろしい想像をしてしまったらしく、ダカスコスは脳天の産毛《うぶげ》を逆立てた。さらばだダカスコス、おれたちは尊い|犠牲《ぎせい》となったきみの頭の……いや命の輝きを忘れはしない。
食糧貯蔵庫から船室に移動したとはいえ、隠遁《いんとん》生活に変わりはない。人目を忍ぶ密《ひそ》かな|潜伏《せんぷく》の日々だ。暗さと息苦しさからは解放されたが、ベッド一台置ければ上等の見習い厨房係の部屋が、ユニットバスつきのはずはない。おれたちはトイレに行く度に周囲を窺《うかが》い、他の連中に気付かれないよう変装しなければならなかった。厨房から調理軍人見習いの服一式を持ち出してきてもらい、それで我慢《がまん》した。黒髪を手持ちのバンダナで覆《おお》ったおれは、怪しい無国籍《むこくせき》風料理人といった風情《ふぜい》だが、白い調理帽まで被《かぶ》ったヴォルフラムは、あっという間に可愛《かわい》いコックさんだった。
人の行き来の多い昼は部屋に閉じ籠《こ》もるしかないので、担架《たんか》なみに|狭《せま》い簡易ベッドで眠《ねむ》ったり、毒女アニシナを穴があくほど読んだりした。一冊の本をこんなに熟読したのは久しぶりだ。野球のルールブック以来かもしれない。長い台詞《せりふ》も暗唱したし、老人から幼女まで口調を分ける演技力もついた。帰ったら早速《さっそく》グレタに読み聞かせてやらなくちゃ。期せずしてリーディング能力もアップした。語学初心者に児童書は有効かもしれない。
「つ、続き、続きを読ませろー」
「しっかりしろユーリ、毒にやられてるぞ」
「永遠の|被害《ひがい》者、具《ぐ》・上樽《うえだる》の生死が気になるんだよう」
あまりの怖《こわ》さに気も漫《そぞ》ろ。
日が暮れると人通りも少なくなるので、|慎重《しんちょう》に動きさえすれば、部屋の出入りも比較《ひかく》的自由になった。マンションのベランダで一服する親父《おやじ》達よろしく、|甲板《かんぱん》の隅《すみ》っこで一息つく。冷たい風に頬《ほお》を撫《な》でられると、ヴォルフラムはようやく船酔いから解放された。
以前のような豪華《ごうか》客船の旅ではないので、食後のパーティーやサロンみたいな社交場もない。当然だ、|緊張《きんちょう》関係にある国へと赴く艦上なのだから。だが、眞魔国海軍の誇《ほこ》る大規模戦艦だけあって、最低限の兵士の|娯楽《ごらく》設備は調《ととの》えているらしい。遠くから聞こえるバイオリンの陽気な音色や、時々あがる|歓声《かんせい》がそれを教えてくれた。
見回りすら来ない|船尾《せんび》近くの一角で、おれとヴォルフは口数も少なく過ごしていた。船員が歌う声と波の音が混ざり合い、|穏《おだ》やかなメロディーになって聞こえてくる。
海面に揺《ゆ》れるのは、うみのおともだち号の灯《あか》りだけで、星の影《かげ》も映らない。
「ユーリ」
「んー?」
「行きたければあっちに混ざってきてもいいんだぞ」
「あっちってどっちに、船員達の飲み会に? よせよ、おれが禁酒|禁煙《きんえん》なの知ってんだろ。それにこんな簡単な変装で、もしも正体がばれたらどうするんだ。忘れるなよ、おれたちは密航中という難しい立場なんだぞ? 密航インポッシブルなんだから」
「お前が平気ならそれでいいんだが」
白く塗《ぬ》られた柵《さく》に寄り掛かったまま、ヴォルフラムは顔を海に向けたまま言った。
「その……どちらかというとお前はいつも下々の者と過ごすことを好むだろう。王都にいてもすぐに城下へ出てしまったり、血盟城でも厨房や廏舎《きゅうしゃ》に入り浸《びた》っていたりと。大体いつも……コンラートと|一緒《いっしょ》にな。だから今も、向こうで騒《さわ》いでいるほうが性《しょう》に合うのかもしれないと思ってな」
「ああ、そういうこと」
冷たい鉄柵を|握《にぎ》り締《し》めて、おれも波の間に眼を向けた。本当に陸地に行き着くのかと、不安になるほど果てがない。
「少し淋《さび》しいけど、皆《みな》に混ざろうとは思わないよ。この船は重大な外交問題を抱《かか》えて、小シマロンに向かってるんだ。おれは絶対安全だと信じてるけど、皆が皆そう思ってるわけじゃないだろう? 御前《ごぜん》会議とやらで|指摘《してき》されたとおり、未《いま》だに敵国と感じてる人も多い。|攻撃《こうげき》を受けるかもしれないとか、敵地に行くと|覚悟《かくご》してる人もいるかもしれない」
肘《ひじ》と腰《こし》に当たる鉄の棒に、凝《こ》り固まった筋肉が悲鳴をあげた。
「……そんなピリピリした中で過ごす毎日なんて、おれにはとても想像できないけどね。でも何事もなく日が暮れて、やっと迎《むか》えた一日の終わりを|邪魔《じゃま》したくない。無礼講の宴会《えんかい》のまっただ中に上司が入ってったら、リラックスできるもんもできなくなっちゃうだろ? おれは別に敬語とか全然かまわないんだけどさ、相手に気を遣《つか》わせるのは悪いよ」
無意識に、ゆっくりと首を振《ふ》る。
「……邪魔したくないんだ。それに」
派手な歓声があがり、続いて大きな拍手《はくしゅ》が聞こえてきた。酒の飲み比べでもしているのだろうか。自然とおれの口元も緩《ゆる》む。急性アルコール中毒で|倒《たお》れなければいいけど。
「それに、別に今は一人|寂《さび》しく佇《たたず》んでるわけでもないし」
「ふん。少しは上に立つ者としての自覚ができてきたということか」
嬉《うれ》しさを抑《おさ》えたような声だ。
「時と場合によるんだよヴォルフ、時と場合」
どちらが照れくさいのか判《わか》らない。
「飲みたければキッチンから酒持って来ちゃえば? いいんだよ、おれに付き合って禁酒してくれなくても。お前はもう八十二歳なんだから、肝臓《かんぞう》を大事にしてくれればそれで」
「酔《よ》った挙げ句に誰《だれ》かに見咎《みとが》められでもしたら、お前に一生|馬鹿《ばか》にされるだろう……おい」
急に口調も表情も変えたヴォルフラムが、波の向こうを指差した。この艦《かん》の進行方向だ。
「あれは何だ?」
「船の灯り、かな」
真っ黒な海面に光がぽつんと揺れている。だがそれはすぐに数を増し、かなりのスピードでこちらに接近してくる。見張りが声を限りに|叫《さけ》び、艦内は俄《にわか》に騒がしくなった。夜勤に就《つ》いていた船員達が、甲板を忙《いそが》しく走り始める。
動くタイミングや間隔《かんかく》が同じなので、灯火は大型艦一|隻《せき》によるものだと判る。少なくとも船団や艦隊ではない。
「おいおい、また海賊《かいぞく》じゃないだろうなー」
「まさか! ここはもうシマロン領海だぞ。そこまで|無謀《むぼう》な賊もいないだろう。ぼくは寧《むし》ろ|巨大《きょだい》イカだったらと思うと……」
ヴォルフラムはぶるりと|身震《みぶる》いした。
「何だヴォルフ、イカが怖いのか」
「おっ、お前はあのおぞましさを知らないんじゃり! お、落ち着け落ち着け、イカ釣《つ》り漁船があんなに巨大なはずがない」
「じゃあ小シマロンの軍艦かな」
船尾に近いこの一角は静かなものだが、攻撃を受ける可能性のある地区には兵が集まり、|各々《おのおの》の持ち場に就いてゆく。|戦闘《せんとう》配備状態だ。今のおれにできるのは、悲劇が起こらないようにと祈《いの》ることだけだ。
「わー良かったここにいたんですねっ、陛下も閣下もすぐに船室にお戻《もど》りください! こんな危ない場所にいて、敵が投石機でも使ってきたらどうされるんスかー」
スキンヘッドに|汗《あせ》を滲《にじ》ませて、ダカスコスが走ってきた。両手に膨《ふく》らんだ救命具を抱えている。おれたちが|溺《おぼ》れているとでも思ったのだろうか。
「そうはいかない、ぼくには|戦況《せんきょう》を見守る義務がある。最悪の事態に陥《おちい》り指揮官を失った場合、代わって指揮を執《と》る必要があるからな」
「え、おれたち密航者なのに!? ていうかさ、だったらおれも見てなきゃならないだろ。考えたくもないけど艦長とギュンターが|怪我《けが》したら、ヴォルフより先におれにお鉢《はち》が回ってくるんだよな」
「……お前に任せると即座《そもざ》に|降伏《こうふく》しそうな気がする……」
「ああーもう|勘弁《かんべん》してくださいよ|坊《ぼっ》ちゃんがたーぁ」
見習い|厨房《ちゅうぼう》係は半泣きで、我が|儘《まま》二人組の袖《そで》を引っ張った。
「戦艦じゃない! 巡視船《じゅんしせん》だ!」
頭上から見張りの報告が降ってくる。
良かった、これでいきなりの攻撃は免《まぬか》れるだろう。巡視船といえば、つまり、えーと海上保安庁みたいな存在だろうか? 船籍《せんせき》を|訊《き》き、不審《ふしん》なところがなければ、それでお咎《とが》めはなしのはずだ。こういう事態にならサイズモアだって慣れているだろう。いやひょっとしたら艦長自らが出向くことなく、当直の士官で済む程度の問題かもしれない。
おれたちが戻ろうと体の向きを変えた時だ。ほんの|僅《わず》かな間だけ、月を覆《おお》っていた雲が風に流された。海面を淡《あわ》い月光が照らす。おれの視界に小さな船影《せんたい》が、黒く、そして|奇妙《きみょう》に白く飛び込んできた。
「ちょっと待て」
「どうした?」
「何か居る。うちとシマロン船の間に。見ろよほら、あれ! 人が山盛りだ」
マストが折れて壊《こわ》れかけたみすぼらしい漁船に、人がぎっしりと乗り込んでいた。定員オーバーどころではない。|狭《せま》いデッキから今にも転げ落ちそうなのを、|互《たが》いに抱《だ》き合い支え合って堪《こら》えている。黒い波間にそこだけ|妙《みょう》に明るいと思ったら、人々の|身体《からだ》がはっとするほど白かった。
月の光に照らされた髪《かみ》も肌《はだ》も、色素が抜《ぬ》け落ちたみたいに白い。
おれは以前、よく似た子供達と会っている。彼女達も抜けるように白い肌と、クリーム色に近い金の髪をしていた。
彼等は|抵抗《ていこう》する術《すべ》を持たず、ただ抱き合って震《ふる》えていた。そうはっきりと見えるわけではなかったが、声もなくただ怯《おび》えているばかりだ。
「あれ難民船じゃねえ? 歴史のビデオで見たよ。ベトナム戦争とかカンボジアのボートピープルとか」
「どこの国の話だ」
「|何処《どこ》って、地球の話……あっ! あいつら撃《う》ったぞ、武装してない|小舟《こぶね》を攻撃した」
シマロン船が漁船の腹めがけて投石機を動かした。予告も警告もない。大きな石らしき塊《かたまり》が、脆《もろ》い船腹に穴を空ける。小舟はたちまち傾《かたむ》いて、ひしめき合っていた人々はズルズルと海に落ちる。
「なんて奴等《やつら》だ」
「でも救助する意志はあるみたいスよ」
ダカスコスの指摘どおり、シマロン船は海に落ちた人々を次々と引き上げていた。大人も子供も老人もいる。赤ん坊を抱いた母親もいた。皆一様に|蒼白《そうはく》な顔で、巡視船に助けられてゆく。当方の艦長であるサイズモアは、この件に関して無干渉《むかんしょう》を決めたようだ。非武装の民間船を攻撃する|行為《こうい》は許し難《がた》いが、威嚇《いかく》のつもりの誤射だと言われればそれまでだ。
全員が救助されるならば、あとは当事者間の問題だ。おれたちだって本来は招かれざる客なのだから、他国の領海内で騒ぎを起こしたくない。
「……けどあの攻撃が威嚇じゃなかったなら、小シマロンってのはやっぱり|物騒《ぶっそう》な国だよな」
「|今更《いまさら》なにを。ぼくは最初からそう言っているだろう」
大方の人間を救助し終えると、巡視船は我々を警戒《けいかい》し、型どおりの質問|事項《じこう》を投げかけてきた。貴艦の船籍はいずこか、領海を航行する目的は何か、|到着《とうちゃく》予定の港はどこか、また領海主たる小シマロンに、航海の許可は得ているか。
密航者を二人ほど乗せている以外には、特にやましいところもなかったので、|審査《しんさ》はスムーズに進んだ。大声で怒鳴《どな》り合う士官を|鉄柵《てつさく》に肘をかけて見ていたおれは、ふと目線を海面に向けた。月も消えた暗い波の間で、弱く動くものが視界の端《はし》に引っ掛《か》かった気がしたのだ。
「……あれ……」
ちょうどこの真下に当たる場所だ。深い闇《やみ》がそこだけ仄《ほの》かに白い。
二・○の視力を凝らす。
腕《うで》?
「あっ陛下!?」
本当に腕かどうか|確認《かくにん》する前に、ダカスコスの腕から取った救命具を投げていた。しなやかなロープが弧《こ》を描《えが》き、膨らんだ物体が着水する。
生白く細い二本の腕が、どうにか救命具を掴《つか》む。頭が水上に|浮《う》かんできた身体には、|驚《おどろ》いたことにもう一人が取りすがっていた。
本来ならしっかりしろとか|頑張《がんば》れとか叫んで、要救助者を励《はげ》ますべきなのだろう。だが、喘《あえ》ぎ声も|一切《いっさい》あげない彼等を見ると、こちらも大声をだしてはいけない気がした。
「しっかりしろ、いま助けてやるからなッ。ロープを腕と腰《こし》に回して」
「縄《なわ》を貸せ、そっちに縛《しば》りつける。ユーリ、ダカスコスと場所を替われ。子供二人か?」
「そう、みたい、だ」
だったら我々だけでもと|呟《つぶや》きながら、ヴォルフラムはおれの後ろでロープを|握《にぎ》った。小シマロンの巡視船もこちらの船員も、この救出劇には気付いていない。
しばらく縄と格闘《かくとう》すると、細い身体が二つデッキ近くまで上ってきた。救命具にしがみついていた白い腕が、丸い柵をしっかりと握る。おれたちは髪も服も構わず掴んで、子供二人を甲板《かんぱん》に引きずり上げる。
「……と、とにかく、助け、られて、よかった」
「すぐ医務室に運びましょうよ。それでなるべく早くシマロンの巡視船に帰して、他の皆《みな》と|一緒《いっしょ》にさせてやるのがいいスよ」
「そうだよね、あんなに、仲間がいたんだから、二人きりじゃ、やっぱ、心細い、だろ」
情けないぞ渋谷有利、たったこれだけの運動なのに、弾《はず》んだ息が戻らない。
おれたちが助けた二人組も、濡《ぬ》れたデッキに両手|両膝《りょうひざ》をつき、乱れた呼吸を必死に整えようとしていた。何度も自分達を指差しては、すぐにやめて手を下ろしてしまう。言いたいことがあるのだが、うまく言葉にできないらしい。
「……」
|掠《かす》れた息と共に吐《は》きだされた言葉は、耳にしたこともない|響《ひび》きだった。
二人とも手足が細く長く、他の人達と同様に白い肌をしていた。髪は黄色の薄《うす》い|金髪《きんぱつ》で、顎《あご》の辺りまでしかない。ランプの灯《あか》りでも判るほど痩《や》せて弱っていたが、|珍《めずら》しい黄金色《きんいろ》の|瞳《ひとみ》だけは、強い|輝《かがや》きを放っている。
同じだ。おれは大シマロンで出会った少女達を思いだした。
ジェイソンとフレディ、強大な法力を持つ美しい|双子《ふたご》。あの子達は異国から連れられてきた神族なのだと、確か|誰《だれ》かが言っていた。
「ということは、彼等も……神族?」
「そうだ」
二人を立たせようとするダカスコスを制して、ヴォルフラムが|神妙《しんみょう》な面持《おもも》ちで言った。
「そして|恐《おそ》らくこの連中は、聖砂国の住民だ」
「何!? 聖砂国って例の|鎖国《さこく》状態の? あそこの国民はみんなジェイソンとフレディなの? ああ|違《ちが》うよ、ジェイソンとかフレディとか、この子たちみたいな神族なのか?」
国の名前を聞き分けたのか、一人がぱっと顔を上げた。救命具を掴んだ気丈《きじょう》なほうの子だ。失礼を承知でまじまじと顔を見ると、こちらは男でもう一人は女子のようだ。いずれも十二か十三歳くらいだろう。兄妹か姉弟かは判らないが、二人はとてもよく似ていた。
「……た……」
相変わらず言葉が通じない。
「陛下、オレのも」
上着を脱《ぬ》いで掛けてやると、ダカスコスが慌《あわ》てて自分の外套《がいとう》を差しだした。彼等は大人用のコートにすっぽりと収まってしまう。不意に女の子が洟《はな》を啜《すす》り、掠れた声で泣き始めた。兄か弟が短い言葉で窘《たしな》めるが、堰《せき》を切ったように|涙《なみだ》は止まらない。
「ああごめんな、いつまでも濡れたままにしといて。部屋に入ろう、中はもっと暖かいよ。そんなに泣くなよ……無理か、そうだよな。これ使いなよ」
おれは頭を覆っていたバンダナで、女の子の涙を拭《ふ》こうとした。
彼等が身を硬《かた》くする。
「っと、ごめん。艦られるのが慨いのかな」
だが姉弟二人の見開かれた瞳は、おれの黒い髪を|凝視《ぎょうし》していた。しまった、黒目|黒髪《くろかみ》は、|魔族《まぞく》以外には縁起《えんぎ》が悪いんだった。災難に遭《あ》った直後に|不吉《ふきつ》な色を見せられれば、誰だって不安な気持ちになる。すっ転んだ自転車の前を黒猫《くろねこ》が横切ったときには、おれだって|沈《しず》み込んだものだ。
「何もしない。|大丈夫《だいじょうぶ》、何もしないから。黒い髪ー、イズ、ベツニコワクナーイ」
「……ク?」
ついつい|怪《あや》しい外国人口調になるおれを指差して、男の子が口をばくばくさせる。喉《のど》の奥から慣れない音を絞《しぼ》りだし、やっと理解できる単語を|喋《しゃべ》った。
「……まぞく?」
「魔族? そうだよ」
彼は|素早《すばや》くおれの手首を握り、胸の前まで持っていった。背後でヴォルフラムとダカスコスが、それぞれの武器に手を掛ける気配がある。白づくしの少年は震える指をおれの|掌《てのひら》に置き、ゆっくりと、自分自身も確認するみたいに動かした。
人差し指が決まった線を描く。
『たすけて』
「助けて? 助けて欲しいって言いたいのか? だってほら、大丈夫だよきみの仲間も。さっき全員小シマロンの船に救助されてたじゃないか。すぐにきみたちも家族の元に帰してやるよ、濡れた服を着《き》替《が》える|暇《ひま》も惜《お》しいなら、今すぐ向こうの船に連絡《れんらく》を……」
彼は首を横に振《ふ》った。ゆるゆると、白くて|綺麗《きれい》な人形みたいに。もう一度、掌に人差し指を這《は》わせる。
『魔族』
『たすけて』
|脳《のう》味噌《みそ》のどこかで高らかな警告音が鳴った。