巡視官達が言葉少なに立ち去った理由を知ると、フォンクライスト卿はよよよとばかりに泣き崩《くず》れた。絹《きぬ》のハンカチの角を噛《か》み、スミレ色の涙《なみだ》をはらはらと零《こぼ》す。
「陛下に誤解されたなんて、私にとってはこの世の終わりも同然ですー」
「そんなに泣くなよギュンター、おれは別に誤解してないって。ほら鼻水|拭《ふ》いて。何だよマッチョスキーがバレたくらい。おれだってマッスルは尊敬してるし、筋肉つけようと日々|鍛錬《たんれん》してるんだからさ。あーほらほら、ギュン汁《じる》拭いて」
「陛下が? 筋肉を?」
少しの間があった。アーダルベルトの|身体《からだ》におれの顔で想像してみたらしい。
「どうか、どうかお考え直しください。陛下は今のままで|完璧《かんぺき》です!」
成長|途中《とちゅう》の十代男子相手に、なんとも失礼な話だ。この先もっと身長が伸《の》びる予定だし、ウェイトも三割は増やす予定だ。オプションとして胸毛《むなげ》も育てようか考慮《こうりょ》中。とりあえず外見から男らしくなってみようかと。
そういえば種々雑多などさくさに紛《まぎ》れて、ギュンターは密航の理由を|訊《き》くのを忘れてくれたようだ。世の中、何が幸運に転じるか判《わか》らない。
ゼタとズーシャは今度こそ全権特使の部屋に移し、ダカスコスとサイズモアに世話を頼《たの》んだ。小シマロン上陸が近くなってきたからだ。本国に着けば、おれとギュンター、ヴォルフラムは、うみのおともだち号を空けることになる。ジェイソンとフレディを助けに行きたいのは山々だが、当初の目的も果たさなくてはならない。おれたちは小シマロンの急進的外交の|真偽《しんぎ》を確かめ、もし事実なら食い止めるために、眞魔国から海を越《こ》えて来たのだから。
血で書かれた手紙の内容からは、新たな事実も判明した。知性の人・フォンクライスト卿をもってしても聖砂国の言語は通訳できなかったが、幼稚《ようち》園児《えんじ》なみの文字と文法ながらも手紙は共通語で書かれている。頭脳|明晰《めいせき》な者が冷静に解読すれば、もっと多くのヒントが隠《かく》されているはずだった。
「ここです。ベネ……辛《かろ》うじてベネラと読めますね。我々の言語にそんな動詞はございませんから、恐《おそ》らくは固有名詞でしょう。地名か人名です。となると『助ける』のは執筆《しっぴつ》者本人ではなく、ベネラという場所か人になります。陛下の御心《おこころ》を曇《くも》らせている件《くだん》の|双子《ふたご》は、自分達の生命以上に心配なものがあるのでしょう」
気休め程度にしかならないが、ギュンターの言葉は少しだけおれを安心させた。彼女達にはまだ、他人の身を心配する|余裕《よゆう》があるってことだ。
「ベネラって地方か都市を救って欲しいのかな。飢饉《ききん》とか干害なら|援助《えんじょ》できるけど、未知の疫病《えきびょう》とかだと難しいよね……」
ゼタとズーシャ姉弟にベネラは何かと|尋《たず》ねてみたが、案の定意思の疎通《そつう》はできなかった。拙《つたな》いジェスチャーと恥ずかしい絵で|挑戦《ちょうせん》してみたが、彼等はきょとんとするばかりだ。おれはともかくアーティストでもあるヴォルフラムは自信をなくし、|膝《ひざ》を抱《かか》えて拗《す》ねてしまった。
「この出鱈目《でたらめ》な綴《つづ》りは『希望』でしょうか。うーむ、左右が正反対な上に、横棒が一本余分です。教育に携《たずさ》わる者として、このいい加減さは許し難《がた》いですね」
「手紙を書く習慣があまりなかったんだよ」
半年くらい前だったら、|驚《おどろ》いたのはギュンターではなく自分だっただろう。
日本で十六年間も生活していると、字が書けない人がいるなんて思いもしなくなる。おれたちにとっては平仮名《ひらがな》と片仮名ばかりではなく、漢字やアルファベット、簡単な英語までもが義務だ。|挨拶《あいさつ》と料理名程度なら、何ヵ国語も操《あやつ》っている計算になる。けれど世の中には文字を学ぶ機会の無かった人も、身につけた言葉を禁じられた人もいて、目の前にある手紙はその一例だ。
ジェイソンとフレディがどうやって生きてきて、今どんな|状況《じょうきょう》に置かれているのかは判らない。確かなことはひとつだけだ。二人は|魔族《まぞく》に助けを求めている。
裏切りたくない。約束を破りたくない。
小シマロンの国主もしくは当局と会談した後に、場合によっては聖砂国とも|接触《せっしょく》するだろう。
それを切っ掛《か》けに双子の行方《ゆくえ》を|捜《さが》し、ベネラなる土地について情報を得られればいいのだが。
大小シマロンが大半を治める大陸に着いたのは、六晩過ぎてからだった。
以前にこの地を踏《ふ》んだのは偶然《ぐうぜん》と事故の結果だったが、今回は|違《ちが》う。おれが自分の意志で、密航までして乗り込んできたんだ。
前回のスタート地点はギルビット商港だったので、カロリアを突《つ》っ切り、ロンガルバル川を北上したのだが、この度《たび》の眞魔国全権特使による公式訪問は、サラレギー記念軍港へと誘導《ゆうどう》された。
事前に「赤鳩《あかはと》新型|彗星《すいせい》便」で書簡を送っていたので、我々の上陸は先方の政府も|承認《しょうにん》済みだ。「赤鳩新型彗星便」は通常よりも三倍速いが、まれに身分を忘れて他の団体に紛れてしまう事故がある。しかも本鳥達はそのアクシデントを、若さ故《ゆえ》の|過《あやま》ちとして認めようとしない。顧客《こきゃく》にとっては非常に使い勝手が悪いのだが、でもやっぱり速いから頼《たよ》るのをやめられない。ジレンマだ。
幸いにも赤鳩は無事に目的を果たしてくれたらしく、うみのおともだち号の入港はスムーズに進んだ。ギルビット商港とは打って変わって、周囲に華《はな》やかな船は一|隻《せき》もない。停泊《ていはく》している大型|艦《かん》は、どれも武装した戦艦ばかりだ。
サラレギー記念軍港。
その名称《めいしょう》には聞き覚えがある。元祖|刈《か》りポニことナイジェル・ワイズ・絶対死なない・マキシーンが、畏敬《いけい》の念をこめて呼んだ主君の名だ。自分の名前を|施設《しせつ》につけるなんて、存命中はなかなかできない|行為《こうい》だ。残してきた実績に余程《よほど》の自信がなければ、オレサマの名前を使うが良いなどとは言い出せない。例えば渋谷有利記念スタジアムとか、渋谷有利野球博物館とか。
かゆい。
何でもかんでも自分の名前を書いちゃう幼稚園児みたいだ。
「どうしたユーリ、敵を前にして武者震《むしゃぶる》いか。無理もない、小シマロンといえば二十年前の大戦で、我々魔族に散々手を焼かせた相手だからな! 当時の様子を思い出すと、ぼくもこう血|湧《わ》き肉|躍《おど》る想《おも》いだ。今度こそ雌雄《しゅう》を決してやる!」
アニシナさんに実験されそうな台詞《せりふ》を口にして息巻くヴォルフラムに「王命により全権特使に任じられた」フォンクライスト|卿《きょう》が釘《くぎ》を刺《さ》す。
「何を言っているのですかヴォルフラム。本来ならあなたは船に残してゆくところを、首都での警備が手薄《てうす》になった場合に備えて、陛下の警護として同行させるのです。浮《うわ》ついた言動で私達の|邪魔《じゃま》をせぬよう、よくよく肝《きも》に銘《めい》じておきなさい」
王子様レベルマイナス1はたちまち膨《ふく》れ面《づら》だ。
今回の訪問団に魔王が同行していると、小シマロン側に知られるわけにはいかない。二十年近く前に終戦したとはいえ、未《いま》だ|緊張《きんちょう》関係にある国だ。そんな土地に何の|前触《まえぶ》れもなく、相手の王様がのこのことやってきたら、国民感情を逆撫《さかな》でするどころか、最悪の場合は|卑怯《ひきょう》な手段で|虜囚《りょしゅう》とし、眞魔国への格好の餌《えさ》として使われかねない……と頭のいいギュンターは言う。
おれは考えすぎだと思うけど。
「陛下もどうぞお気を緩《ゆる》めることのございませんように。サラレギーの城内では通常どおりの護衛はつけられません。どうか|充分《じゅうぶん》にご注意ください。御身《おんみ》と御命の安全のためには、やはり身分を偽《いつわ》る変装も必要かと存じます。従って……」
おれたちは全権特使の専属料理人という、新たな階級を与《あた》えられた。皿洗いに比べると格段の出世だが、|衣装《いしょう》は|厨房《ちゅうぼう》見習いのままだ。バイト先の制服なみの格好で、他国の王様にお目通りするとは思わなかった。
「ああ、とてもよくお似合いです陛下! 純白の上衣《うわぎ》は陛下の気高さを引き立て、ところどころ油染《あぶらじ》みの残る前掛けは、闊達《かったつ》さを物語って|微笑《ほほえ》ましい。陛下のお召《め》し物といえば黒が多いようにお見受けいたしますが、やはり|黒髪《くろかみ》には白もよく合いますねえ」
「結局あんたはおれが全裸《ぜんら》でさえなけりゃ、どんな服でも褒《ほ》めるんだよね」
「お望みとあらばお美しい裸体も賞賛させていただきま……んがッ」
「それはお前のお望みだろうっ!?」
鼻の下を伸ばしかけたギュンターは、ヴォルフラムに背中から思い切り|蹴《け》られた。おれの|胡散《うさん》臭《くさ》い無《む》|国籍《こくせき》風料理人姿と違って、金髪《きんぱつ》碧眼《へきがん》美少年の白衣は愛らしい。白いコック|帽《ぼう》の|天辺《てっぺん》からは、さえずる小鳥でも飛び立ちそうだ。
こんな姿の三人組は、サラレギー軍港から用意された高速馬車に乗り込んだ。毛玉臭いので覗《のぞ》いてみると、車を牽《ひ》くのは数十頭の羊達だ。馬車じゃないじゃん。
周囲を囲む馬上の人達は、小シマロン王立秘密警護隊の皆《みな》さんだ。秘密じゃないじゃん。
そしてなんと本日の先導役は、王立白水牛部隊の紅一点だ。ていうかマラソンかよ!?
「白水牛……白バイソン……略して白バイかー……うーん」
軍港から首都サラレギーまでは、陸路でゆうに二十日はかかる。高速馬車を日に何度も乗り換《か》えても、短縮できるのは半分までだ。昼の間は高速道を突っ走るが、夜間は街道《かいどう》沿いで宿泊《しゅくはく》することになる。ありがたいことに宿屋がこれまた上等で、旅行グルメ番組のレポーターにでもなったみたいだ。
これまでの過酷《かこく》さが|嘘《うそ》のように|優雅《ゆうが》で絶品な贅沢《ぜいたく》旅だ。
|滋養強壮《じようきょうそう》が売りの温泉に浸《つ》かりながら、余は満足じゃという気分だった。ついつい鼻歌もでてしまう。
「ふー、極楽《ごくらく》極楽。こんなにいい思いさせてもらえるなら、今後はずっとギュンターと|一緒《いっしょ》に旅行しようかなあ」
「そ、それは嬉《うれ》しいお言葉で……おえー……このギュンター、恐悦至極《きょうえつしごく》に……ぅおえーぷ」
「おーい、|大丈夫《だいじょうぶ》かー? ギュン汁《じる》漏《も》れてるんじゃないかー?」
可哀想《かわいそう》なことに魔力の強いヴォルフラムは絶えず頭痛と吐《は》き気を|訴《うった》え、もっと強いらしいギュンターはゲロ袋《ぶくろ》常備だった。神を信仰《しんこう》する人間の土地であるとか、法力に従う要素が満ちているとか、敵地での移動には様々な障害があるらしい。
地球人DNAで構成されているおれの肉体は、温泉効果でツルツルぺかぺか、どこもかしこも絶好調だってのに。
気の毒な純血魔族二人がベッドで|撃沈《げきちん》している間に、おれはちょっとだけ|冒険《ぼうけん》心をだし、高級旅館|探索《たんさく》ツアーに出掛《でか》けた。決して助平《すけべい》心ではなく探求心だ。混浴希望ではなく非常口|確認《かくにん》のためだ!
「……しかしこういう時に限って、大浴場をあっさり発見してしまうんだよね」
|妙《みょう》に和風な格子戸《こうしど》に掛かった木製のプレートには、シマロン特有の読みにくい飾《かざ》り文字でこう彫《ほ》ってある。
『雄雌混合大浴場』
目で見るだけでは不安なので、念のために指先で触《さわ》ってみた。確かに混合大浴場。決して読み違いではない。いざ、とばかりに手拭《てぬぐ》いを肩《かた》にかけ、広々とした脱衣《だつい》所から|風呂場《ふろば》への引き戸を潜《くぐ》る。目の前にはめくるめく男女混浴の世界、たとえ昔のおねーさんばかりでも、男・渋谷有利十六歳、|後悔《こうかい》はしませんとも!
「ふ……」
立ちこめる湯煙《ゆけむり》で真っ白で、|浴槽《よくそう》の位置さえ判《わか》らない。早朝という時間帯の割には賑《にぎ》やかだが、何の音なのかは周囲の|壁《かべ》に反響《はんきょう》してよく聞き取れない。カポーンこんカポーンこんと桶《おけ》の音に混じって、盛《さか》んに動き回る気配がある。そして温泉独特の、効果が期待できそうな|刺激臭《しげきしゅう》。
「満員、御礼《おんれい》?」
「んもふっ、んもふっ、もふもふもふーっ」
……もふ?
必死で目を凝《こ》らして見ると、中央に広がる|巨大《きょだい》な浴槽には、もっこもこの毛玉が無数に|浮《う》かんでいた。
「……湯ノ花!?」
「じゃないでーす」
白やベージュ、薄灰色の毛玉に紛《まぎ》れて、女性が独り胸まで浸かっている。|両腕《りょううで》を湯船の縁《ふち》に伸《の》ばし、リラックスした表情だ。だがその肩に掛かる|特殊《とくしゅ》な色の髪と、ジャズシンガー張りのハスキーボイスには覚えがあった。
「まさか……なんであんたがこんなとこまで」
「こんなとこまでとはご|挨拶《あいさつ》ですね陛下。久しぶりにお会いするってえのに、再会を喜ぶ|抱擁《ほうよう》もなしですか」
眞魔国特殊部隊兵士であり女装も嗜《たしな》む多彩《たさい》な男、オレンジの髪と理想的外野手体型のグリエ・ヨザックが、口端を|悪戯《いたずら》っぽく上げてみせた。今言った特殊部隊とは、エリートの中のエリートというわけではない。彼の場合本当に任務「特殊」なのだ。もう他《ほか》にどう表現すればいいのやら。
「ようこそ、大人の羊の夜の社交場、雌雄混合大浴場へ」
「んもふーっ、もふもふもふもふーっ!」
「ぎゃー!」
大歓迎《だいかんげい》とばかりに両腕を広げたヨザックの脇《わき》で、いきり立った羊が一頭|嘶《いなな》いた。くるりと丸まった角をこちらに向け、鼻息|荒《あら》く威嚇《いかく》してくる。
「ひ、羊……羊風呂……全然混浴じゃねーじゃん」
「え? 陛下、お気づきになりませんでしたか? ちゃんと雌雄混合ですってェ」
男女混浴ではなくオスメスミックスなのね。しかも魅力《みりょく》的な異性を目の前にして、滋養強壮大浴場だ。
「あっはっは、参りましたねェ。シツジさんたち次々と欲情しちゃってますぜ」
「なっ、なんという下品温泉なんだー! なんでそんな|普通《ふつう》の顔して、ケモノまみれでいられるわけ!?」
「やぁだ陛下ったら、羊くらいで取り乱しちゃってカワイイー。だってアタシだって|所詮《しょせん》ケモノですものぉ」
「……ヨザック……」
あんた山羊《やぎ》派じゃなかったの?
こんな奴《やつ》がうちの国の|敏腕《びんわん》兵士なのかと思うと、軍の性質をフォンヴォルテール|卿《きょう》に問い質《ただ》したくなる。おれはタオルで前を隠《かく》しただけの情けない格好で、言葉もなくがっくりと項垂《うなだ》れた。ヨザックは楽しそうな調子で手招きする。特に干渉《かんしょう》しなければ、羊アタックもないようだ。
「まあ|坊《ぼっ》ちゃん、せっかくの混浴なんだから、肩まで浸かって温まっておいきなさいよ」
「どーしてあんたが小シマロンにいるのー」
「そりゃあ陛下、オレさまが眞魔国|随一《ずいいち》の敏腕|諜報《ちょうほう》要員だからに決まってるっしょ。オレの飛ばした赤鳩《あかはと》情報見てくれました? 小シマロンの急進的外交政策について。あんなスクープすっぱ抜《ぬ》けるのは、眞魔国広しといえどもこのグリ江《え》ちゃんの他《ほか》にはいないわよん」
「グリ江ちゃん……また新しい女装キャラかぁー。はー、|脱力《だつりょく》脱力」
ウール臭《くさ》い点を|我慢《がまん》すれば、温泉はなかなか入り心地《ごこち》が良かった。湯加減も滑《なめ》らかさも申し分ない。ヨザックによるとお湯に滲《し》み出る羊エキスで、お肌《はだ》もしっとりするそうだ。
「実はその急進的外交政策の|真偽《しんぎ》を確かめに、おれたち海を越《こ》えてきたんだよ」
「見ましたよ、宿に入ってくるところ。んーもう陛下も隅《すみ》におけませんねェ、婚約《こんやく》者とお揃《そろ》いの服なんか着ちゃってェ」
「いてて、よせよグリ江ちゃん」
隣《となり》で|身体《からだ》を伸ばすおれの|脇腹《わきばら》を、肘《ひじ》で軽く突《つ》いてくる。けれどすぐに職業軍人の声を取り戻《もど》し、彼の任務の話に戻る。壁に耳ありメアリー商事だが、羊は|魔族《まぞく》のことなど気にしちゃいなかった。
「それにしても、真偽を確かめるってーのは|納得《なっとく》いきませんね。オレの情報に|間違《まちが》いがあるとでも?」
「別にあんたを疑ってるわけじゃないけど、アニシナさんに鼻で笑われちゃってね」
「んー、そうきたか。アニシナちゃんめ」
アニシナちゃん!? 耳慣れないフレンドリーな呼び方に、ほかほか入浴中にもかかわらず背筋が寒くなる。ヨザックは鬚《ひげ》のない顎《あご》を傾《かたむ》けた。
「胸の大きさでオレに負けたのを、未《いま》だに根に持ってるんかな」
「待て待て、ちょっと待て。アニシナさんは小柄《こがら》な割に胸があると思うよ……ってそういうことじゃなくてッ! あんたのは九割方筋肉だろ、ってそういうことでもなくてッ」
「でも陛下、男は|黙《だま》ってCカップですからね。それとも直接報告に出向かなかったから拗《す》ねちゃったかな。うーんそれもアニシナちゃんらしくないし。そもそもオレが帰国できなかったのは、急進的外交政策の他に内乱|勃発《ぼっぱつ》の|噂《うわさ》もあったからなんだけど……どうしました陛下? 可愛《かわい》らしいお口を半開きにしちゃって」
「あ、アニシナちゃんて。二度も」
「ああ、はあ。お気に障《さわ》りましたか」
「まさか、まさかとは思うけどヨザック、あんたたち隠れて付き合ってたりしないだろうな!?」
「フォンカーベルニコフ卿とオレがぁ?」
自称《じしょう》敏腕スパイ・魔王陛下の0043は、喉《のど》を仰《の》け反らせて笑い声をあげた。コードネームが電話番号みたいだが、女装もするし男も|騙《だま》す。
「|冗談《じょうだん》でしょ、隠れて付き合ったりしませんって!」
否定するのはそこなのか。じゃあ公然とならお付き合いしてるんデスかとは、恐《おそ》ろしくて訊《き》けなかった。鼻先を毛玉が流れてゆく。浴槽の右端《みぎはし》の方では、白と灰色の競走羊が一晩限りのメイクラブ中だ。
「それより坊ちゃん、調査結果には続きがあるんです。本国に鳩を飛ばすよりも、直接話した方が手っ取り早いと思ってここで待ち受けてたんですけど。どうやらギュギュギュ閣下は法力|酔《よ》いで使いものにならんようですねェ」
「うん、ギュンターもヴォルフラムも|撃沈《げきちん》したっきりだ。魔力が強いのも考えものだな」
ヨザックは複雑そうな目で、おれの顔をまじまじと眺《なが》めてから言った。
「まあいいです、ご自分にもそのうち判るでしょ。修行不足の温室魔族達は放《ほ》っといて、非常事態なのでお話ししますが……例の急進的外交政策ですがね」
「ああ」
小シマロンと聖砂国の国交回復問題だ。一方は先の大戦で敵だった人間国家であり、もう一方は二千年以上|鎖国《さこく》状態を続けている神族国家だ。神族と人間の相違《そうい》は学んでいないが、両者がガッチリタッグを組むと、魔族的には大事になるらしい。
「あれには小シマロン国内にも多かれ少なかれ反対派が存在するらしいんですよ」
「まあ、どこの国の政治だってそんなもんだろ。満場|一致《いっち》での賛成なんて、超《ちょう》独裁国家でもなけりゃああり得ないよ」
「ところがほんの少し前まで、小シマロンは一致団結国家だったんです。二年前に弱冠《じゃっかん》十五歳で|即位《そくい》したサラレギー陛下には、|妙《みょう》に求心的な力がありましてね。コ……知人はカリスマ性とか呼んでましたが……常に臣下の心を掴《つか》み、んもう掴んで|握《にぎ》って叩《たた》いて揉《も》んで放さないっつーかね」
マッサージの得意そうな王様だな。それにしても|随分《ずいぶん》若くして即位したものだ。二年前で十五歳ということは、現在|僅《わず》か十七歳だ。十七歳にして国家元首とは立派だ。これだけの大国ともなれば、悩《なや》みの種も尽《つ》きないだろうに。
「高二かぁ。若いのに苦労が多くて大変だなー」
ヨザックがまた、|呆《あき》れたような目でおれを眺めた。気を取り直して軽く|咳払《せきばら》いをする。
「で、その反対勢力がね、これまたショボいんですけどねェ。ショボいなりに頑張《がんぱ》っちゃってるんですわ。よく言うでしょ、ショボな子ほど燃えるって。とにかく組織が小さいので、やたら小回りが|利《き》くんですよ。だから政府側もなかなか尻尾《しっぽ》を掴めないっつーか、一網打尽《いちもうだじん》、全員|処刑《しょけい》ってわけにいかないみたいで。けど炙《あぶ》り出されないのをいいことに、いつまでも地下に潜伏《せんぷく》してたら、政府の外交政策はどんどん進んじまいますからね。そいつらもいよいよ行動にでそうなんです。実は今、小シマロンはかなり|緊迫《きんぱく》した|状況《じょうきょう》なんですよ」
「行動って……どんな? まさか国家|転覆《てんぷく》とか軍事クーデターとか?」
「まあ手っ取り早く、王の暗殺……」
浴場をぼんやりと照らしていたランプが、不意に揺《ゆ》らいで光を弱めた。隣にいたヨザックの全身に|緊張《きんちょう》が走り、静かだが|素早《すばや》い動作で立ち上がる。
「……あー……」
おれは黙って首を斜《なな》めにずらした。ちょうど頭の真横にヤバイモノがきてしまったからだ。
炎《ほのお》はすぐに強さを取り戻し、|風呂場《ふろば》は元の明るさに戻る。どうやら風で揺らいだだけのようだ。その微風《びふう》を起こした張本人が、先程《さきほど》の引き戸から姿を現す。細く長い綺麗《きれい》な脚《あし》だけを覗《のぞ》かせてから、バスタオルを巻いた上半身が入ってくる。
真っ白な手足を惜《お》しげもなく晒《さら》して、湯煙《ゆけむり》の中をゆっくりと歩いてきた。
おれは心の中で諸手《もろて》を挙げ、|涙《なみだ》ながらに|叫《さけ》んでいた。混浴|万歳《ばんざい》!
「こんよくばん……ぶっ」
さっきまでヨザックが局部を隠していた濡《ぬ》れタオルが、勢いよく頭に|被《かぶ》せられた。うわよせグリ江ちゃん、きたな、汚《きたな》いだろッ!? 滴《したた》るお湯が目に入っ……。
美しい四肢《しし》と肌を持った三人目の客は、|巨大《きょだい》な|浴槽《よくそう》の少し離れた場所に身を|沈《しず》めた。|爪先《つまさき》からするりと|滑《すべ》り込む様は、モテない人生十六年の青少年には目の毒だ。あまりに|優雅《ゆうが》で美しすぎて、まず掛《か》け湯だろなんて文句つけるのも忘れてしまった。
だがやはり公共の場でマナーは重要だ。入浴は、まず身体を流してか……。
おれが小煩《こうるさ》く口を開く前に、相手がまた艶《なま》めかしい動きを見せた。湯加減を確かめるみたいにそろそろと身体を伸《の》ばし、喉を反らせて官能的な溜《た》め息をつく。項《うなじ》にかかっていた淡《あわ》い金髪《きんぱつ》の後《おく》れ毛が、微《かす》かな音をたてて水面に落ちた。喉仏の透《す》き通るような肌色《はだいろ》といったら、この白さなら|柔軟《じゅうなん》仕上|剤《ざい》が入ってなくてもいいー! と叫んでしまうくらいだった。吸い寄せられた眼《め》が離せない。
耳慣れない音階で鼻歌をうたった後に、三人目の客は長く深く息を吐《は》き、女の子みたいな声で言った。
「風呂はいいねぇ」
ん? 女の子、みたい? ん? 喉仏? のどぼ……。
「……おーとーこーかーよーぉ……」
がっくりと肩《かた》を落とすおれの背中を、グリ江ちゃん「あたしがいるじゃなぁい」と撫《な》でてくれた。先走って鼻血を垂らさなくて本当に良かった。
「風呂は肌《はだ》も心も潤《うるお》してくれる。シマロンの生みだした文化の極《きわ》みだよ。特に羊風呂はたまらないね、そう感じないか?」
「……はあ」
「どうしたの、元気がないね。シマロン流の温泉は嫌《きら》いかい?」
細い首を軽く傾《かし》げて、にっこりと問いかけてくる。正面から見ると、彼は鼻の上に載《の》せるようなごく小さな眼鏡《めがね》をかけていた。薄《うす》く色の付いたレンズは当然、湯気で曇《くも》っている。風呂の中にまで? と疑問に思っていたら、正直に顔にでてしまったのか、笑《え》みを浮《う》かべたまま説明してくれた。
「ああ、ぼくの目は光と熱に弱くてね。……ぼくだって、変だね、もういい歳《とし》をした成人《おとな》なのに、未《いま》だについぼくなんて言ってしまうんだよ」
「ああ、でも八十二歳でもぼくって言うやつ知ってるから」
眼鏡使用者というだけで頭のいい人間だと刷り込まれてしまう。この先入観をどうにか消去しておかないと、のび太《た》に失礼だ。
心許《こころもと》ないランプの明かりでは、|瞳《ひとみ》の色までは確かめられなかった。逆におれの色にも気付かれていないだろう。彼は綺麗な指先を使って、頬《ほお》に触《ふ》れる髪《かみ》を耳に引っ掛けた。後ろ髪をまとめて上げているのだが、すぐにはらりと落ちてくる。困ったように|眉《まゆ》を聟《ひそ》めた|微笑《ほほえ》みが、血統書つきの優雅な猫《ねこ》みたいだ。
とにかく、整った|容貌《ようぼう》を持つ子だった。子といっても年の頃《ころ》はおれと同じくらい、十六にはなっていると思う。タイルの上を歩いてきた様子を見れば、背格好だってそうは変わらないだろう。ただしおれのほうが確実に筋肉がついているし、骨格自体もしっかりしている。
美形には慣れているはずなのに、この胸のときめきは一体何だ。特に美少年に関しては、最高レベルのサンプルが身近にいるじゃないか。
「でも|違《ちが》う……全く違う……共通点がない……」
「なに?」
ほんの少し|距離《きょり》を詰《つ》めて、まるで友人みたいに問いかけてくる。
「いいいいや、なんでも、なんでもないです」
ヴォルフラムは天使の如《ごと》き美少年だが、|輝《かがや》く金髪も湖底を思わせるエメラルドグリーンの瞳も、女性っぽくは感じない。母親|譲《ゆず》りの形良い唇《くちびる》だって、意志が強そうにきゅっと結ばれている。フォンビーレフェルト|卿《きょう》には太陽の光が似合うし、|一緒《いっしょ》に走り回ろうって気にもなる。
では隣《となり》で温まっている三人目の客には月とか陰《かげ》が似合い、少女めいた|美貌《びぼう》なのかと|訊《き》かれると……ほんの数十秒観察しただけでは、そこまで断言できなかった。だが、身体中のどのパーツをとっても中性的で、荒《あらあら》々しい部分が一つもない。
例えば指。すらりと細く長い指はとても形が良く、伸ばした爪《つめ》は淡いピンクで彩《いろど》られていた。小指を立ててワイングラスを持っても、決して不自然には見えないだろう。バットなんか握ったこともない手だ。脳内ですぐに訂正《ていせい》が入る。剣《けん》を振《ふ》るったことのない指だ。
「それにしても、どうしておれの周りには、こう美少年ばっか集まってくるのかねえ」
「やだ|坊《ぼっ》ちゃんたら。グリ江、照れちゃうー」
あらゆる意味で、おこがましいぞ。
「そっちの人はグリエっていうの?」
「ええそう。母親の家系が料理人だったの」
魔王陛下のお庭番0043は|充分《じゅうぶん》に大人なので、中性的な魅力《みりょく》になどよろめかない。慣れのない自分自身を反省しつつ、その点だけは尊敬する。
「ああ、大陸の東の方の名字だね! 大シマロンに|親戚《しんせき》がいるかい?」
ヨザックの事情を知らない相手は、通じる話題になって嬉《うれ》しそうだ。
「わたしの祖父も大シマロンの生まれなんだ。今でも遠い親戚があちらに残っているんだよ。ああ、わたしのことはサラと呼んでほしい。そのほうが親しくなれた気がするから」
「サラ? 名前まで女の子みたいで……ごめん、そんな言い方は失礼だよな。おれは、えーと」
風呂場で会ったばかりの美少年相手に、正体を明かすのはまずかろう。|咄嗟《とっさ》に適当な|偽名《ぎめい》を探すが、ふざけたものしか浮かばない。過去に使った人格でいいかなあ、ミツエモンかクルーソー|大佐《たいさ》で。
「おれはクルー……」
あの形良い指先が、|喋《しゃべ》りかけた口をそっと押さえた。薄く小さなレンズ越《ご》しに、色の判《わか》らない瞳が|悪戯《いたずら》っぽく笑った。ぼくに当てさせてと|訴《うった》えている。柔《やわ》らかく|優《やさ》しげな顔なのに、相手に有無《うむ》を言わせない。
「ユーリ陛下」
湯冷めしかけた肩が、ぎくりと震《ふる》える。
「そうでしょう? 名乗っていただくまでもない。あなたはわたしにとって最高の賓客《ひんきゃく》だよ、ユーリ陛下。まさか我が小シマロンをご訪問くださるとは、先日まで思いもしなかった」
「だ……」
口にしかけた疑問を呑《の》み込んだ。彼は今、名を言ったばかりじゃないか。
サラ。
大国の名を臆《おく》することなく口にする、おれと同年代の少年。二年前に|即位《そくい》した小シマロン王サラレギーは、今年で十七歳になる計算だ。
おれの腕《うで》を掴《つか》んだヨザックが、強い力で引き寄せた。マジックみたいに互《たが》いの位置が入れ替《か》わり、間に護衛役を|挟《はさ》む形になる。湯に浸《つ》かっていたはずなのに、冷たい|汗《あせ》がこめかみを伝う。乾《かわ》いてうまく動かない舌で、短い言葉を絞《しぼ》りだした。
「おれの、名前、を?」
「知らない者はないさ。双黒《そうこく》の|魔王《まおう》陛下」
見開きの君こと小シマロン王サラレギーは、|綺麗《きれい》な指先で、流れる髪を耳にかけた。