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今日からマ王13-6

时间: 2018-04-30    进入日语论坛
核心提示:     6「失敗したッ!」 都内某所のホテルの屋上で、村田健は濁《にご》った水から顔を上げた。赤と白の鯉《こい》が膝《
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      6
 
「失敗したッ!」
 都内某所のホテルの屋上で、村田健は濁《にご》った水から顔を上げた。赤と白の鯉《こい》が膝《ひざ》の脇《わき》を泳いでゆく。髪《かみ》から魚臭《くさ》い水滴《すいてき》を滴《したた》らせながら、日よけつきのベンチとテーブルを占拠《せんきょ》したボブに確認した。
「どうだった!?」
「こちらが確認《かくにん》のVTRです」
 サングラスを押さえ、可愛《かわい》らしい日本語で首を傾《かたむ》けながら言う男が、地球を支配する魔王《まおう》だとは誰も思うまい。もっとも支配といったって、ビル・ゲイツとどっちが凄《すご》いか訊かれたら悩 《なや》む程度だ。
 乾《かわ》いたコンクリートに水の跡《あと》を残して、村田が液晶《えきしょう》を覗き込む。
「くそっ、あとちょっとで渋谷を掴めるとこだったんだ。魂《たましい》でも意識でも引っ掛《か》かればこっちのものだ、それを手掛かりに辿《たど》って行ける。なのに……映ってる?」
「ああ、クリアだ」
 水中を撮影《さつえい》した映像は、全体にベージュがかってはいるものの村田の身体をはっきりと映している。
「よく撮《と》れてるね、プランクトンいっぱいの屋上庭園にしては」
「ああ」
 額を突き合わせるボブと村田の会話に、勝利は無理やり割り込んだ。
「大体なー、ホテルの屋上の濁った池から異世界に行けたら、行方《ゆくえ》不明の鯉続出で困るってーの。こんなとこから旅立てるのは、可愛いカルガモ親子だけだろ」
 太鼓橋《たいこばし》の上から見下ろしていた渋谷勝利は、憎《にく》まれ口を叩《たた》きながらもボブの手元を覗き込んでいる。弟の「特別な」友人の言葉が本当なのか気になって仕方がないのだ。
「場所は問題ではないらしいのだよ、ジュニア。寧《むし》ろ重要なのはタイミングで」
「だからジュニアって呼ぶな、あんたの息子じゃあるまいし……おあっ」
 映像の途中《とちゅう》で村田の上半身が消えた。驚いて声をあげたのは橋の上の勝利だ。慌《あわ》てて朱塗《しゅぬ》りの欄干《らんかん》を掴む。
「き、消えた。気持ち悪いな、おい」
「心霊《しんれい》写真として投稿《とうこう》してもいいよ友達のお兄さん。目のとこ黒い線入れてくれればね」
 村田は巻き戻した映像を神妙な面持《おもも》ちで指さした。
「ほらね、いい線までいってるんだ。ところがこの直後に、向こうから来た何かの衝撃《しょうげき》で押し返されたんだよ。だからって渋谷が還《かえ》ってきたようでもないし、そっちとこっちで正面衝突《しょうとつ》して、お互《たが》いに元来た方へと弾《はじ》き跳《と》ばされちゃった感じだ。咄嵯《とっさ》に追い縋《すが》ろうとしたんだけど」
 一瞬復活した村田の上半身が再び消える。今度はほんの数秒で元に戻《もど》り、やがて身体は水面へと浮上《ふじょう》した。
「ね? 二回目は手掛かりを探《さぐ》り当てられなかった。渋谷の存在自体が不安定なんだ、感じたり感じなかったりする。どういう場所にいるんだろう」
「魔族の力の及《およ》ぶ土地ではないのだろう?」
「もちろん。もしそうならもっと元気だよ。意気揚々《ようよう》と燃えてるはずだ。それからこれも駄目《だめ》だ、戻ろうとする力が弱い」
 胸に着けていた金のブローチを外す。眼鏡《めがね》の水滴を振り落としてから、掌《てのひら》に置いてまじまじと眺《なが》めた。
「元々渋谷の持ち物じゃないから引きが弱いんだ。こういう言い方も変だけどさ、途切《とぎ》れがちな足跡《そくせき》辿ってでも、彼の元に向かおうって気概《きがい》が足りないんだよな。どこの家の紋《もん》だったかなぁ、鳥だよね。何しろこっちも何千年も昔のことだから、家紋なんか覚えちゃいないし」
「オーストリア辺りにありそうだが、紋章なんてどこの一族も似たり寄ったりだからな。私なぞさっばり区別がつかんよ。鳥だったのか。横向きの鰐《わに》だと思っていた」
 傍《はた》で聞いている勝利にとっては、頭を抱《かか》えたくなるような会話だった。普通《ふつう》、鳥類と爬虫《はちゅう》類は間違《まちが》えないだろう。サングラスが狂《くる》っているんじゃないのか。
 いいのか地球、こんなおっさんが魔王で本当にいいのか。商店街でステッキ片手にサンバ踊《おど》ってる親父《おやじ》だぞ?
「……都知事すっ飛ばして、一気に財界魔王になるべきか」
 自分が継《つ》いだほうがマシな気がしてきた。これもボブの作戦かもしれない。だが今は地球の未来を憂《うれ》えている場合ではない。たった一人の大切な弟が、訳の解《わか》らない世界に連れ去られて戻ってこないのだ。
 待ってろゆーちゃん、おにーちゃんが今すぐ助けに行くからね!
「おい、おいおい、そこの白メガネ黒メガネ」
「なんだいエロメガネ」
「人をエロガッパみたいな呼び方すんな。なあ俺を行かせろ、俺に試させろよ。案外、ていうか当然のことながら一発でゆーちゃんのとこに飛んじゃうぜ? 何せこっちには愛があるからな、愛が」
「無理だ」
 新旧二人の眼鏡に、即座《そくざ》に否定される。
「言っただろ、渋谷のお兄さん。絶対無理、テポドンがまともに爆発《ばくはつ》しても無理。向こう生まれの大賢者の魂持ってる僕でさえ、地球生活が長いからこんなに苦労してるんだ。身も心も地球産で、魔力もないあんたが行こうったって、よっぽど強い力に引っ張ってもらわなきゃ不可能だ。それこそ富士山噴火《ふんか》、ナイアガラ逆流とか」
 ありえない。
「僕だってこんなに難しいとは思ってなかったよ。すっかり地球の人になってたんだね。いやまったく、朱に交われば赤くなるって本当だ」
「ジャパニーズコトワザは結構的を射ているな。どうするねムラタ、カルガモ池にもう一回浮《う》かんでみるかね?」
 身震《みぶる》いして生臭い水を撒《ま》き散らしながら、村田は大きなくしゃみをした。まるで毛の長い犬のようだ。
「ろ、ロドリゲスは何時に着くんだろ」
 一方、三人の眼鏡のうち最後の一人は、朱色の太鼓橋に脚《あし》を投げだして座っていた。学生らしく短い前髪を弄《いじ》りながら、不吉《ふきつ》なことを呟《つぶや》いている。
「……ナイアガラ……ナイアガラ逆流させるには……まずパスポートか」
 兄弟愛のためには犯罪者にもなる覚悟《かくご》だが、今のところ富士山は狙《ねら》わないらしい。
 
 どうも戦力的に不安が残る気がして、フォンビーレフェルト卿《きょう》は人知れず溜息《ためいき》をついた。整った眉目《びもく》に勿体《もったい》ないような皺《しわ》が刻まれている。魔力のない者を中心に組織するしかないと、理屈《りくつ》では解っているのだが。
「聖砂国まではこの『うみのおともだち』号を使う。異論ないな」
「光栄であります、ヴォルフラム閣下!」
 世界の海は俺の海、鮮烈《せんれつ》の海坊主《うみぼうず》と名高いサイズモア艦長《かんちょう》が背筋を正して敬礼した。海戦の猛者《もさ》は貫禄《かんろく》たっぷりだ。
「だが今回、動くのは海の上とは限らない。場合によっては陸上での行動も余儀《よぎ》なくされるわけだが……その点に関しても異存はないか、サイズモア」
「もちろんであります閣下。幸か不幸か自分は魔族としての資質も毛も薄《うす》く、生まれついての魔力も備わってはおりません。長きに亘《わた》る航海生活の中、酒と泪《なみだ》と男と女で育てた腕《うで》と腹をもって、陸戦でもお役にたちたいと存じます」
「うん。あー、男も女もだったのか……ま、まあいい。我々にとって聖砂固は未見の大陸だ、どんな過酷《かこく》な環境《かんきょう》が待ち受けているかもしれない。乾いた風が吹《ふ》き荒《すさ》ぶ砂の大地かもしれんし、湿気《しっけ》ばかりで腐臭《ふしゅう》漂《ただよ》う沼《ぬま》続きの道かもしれない。過酷な旅になるとは思うが、陛下をご無事にお連れするまで、どうか諦《あきら》めることなく任を務めてほしい」
「お、お任せください閣下! 過酷な環境に関しましては、潔《いさぎよ》くツルリと剃《そ》ってから出立いたしますから大丈夫《だいじょうぶ》ですッ」
 そうは言ってもお別れが辛《つら》いのか、どことなく涙目のサイズモアなのだった。
「毛か? もしかして毛根の話をしているのか? だったら別に剃《そ》らなくても、自然に任せるのが一番だと思うぞ」
 まだまだ子供だとばかり思っていたヴォルフラムの成長ぶりに、感極《きわ》まったサイズモアは鼻水を啜《すす》った。啜るばかりでは耐《た》えきれずに、喉《のど》の奥まで行ってしまった。
「ああ若君、すっかり大人になられて。なんと立派なお姿でありましょうか! 爺《じい》は嬉《うれ》しゅうございますぞ」
「いつからお前はぼくの爺になったんだ? 初めて会ったのは昨年だろう」
「お母様も星の彼方《かなた》でさぞやお喜びでございましょう!」
「いい加減にしろサイズモア。母上はまだご存命だぞ。それどころか隙《すき》あらばもう一人くらい子供を増やそうと、虎視眈々《こしたんたん》と狙っておられる」
 次こそ女の子、絶対に娘《むすめ》がいいわ。末息子《むすこ》の美しい金髪《きんぱつ》を撫《な》でながら、上王陛下は自分そっくりの顔にうっとりしているのだ。女として、あと五花くらい咲かせるつもりだ。
「ぼくとフォンクライスト卿が行けない以上、サイズモア、お前に全指揮権を預けることになる。実績的には何の不安もないが、今回ばかりは敵を屠《ほふ》るだけの戦いとは違う。いいな、艦長。信じている。ぼくを失望させないでくれ」
「おまっ、おまっおまっ、お任せくださいっ」
「あとは何でも係として、そこのダカスコスも連れて行け……兵士の数が心許《こころもと》なかろうが、なるべく早く二次隊を送る。医療《いりょう》班や物資補給はそちらが追いつくのを待ってもらいたい」
「医療に関しては待たれる必要はありません」
 慈愛《じあい》の人に戻ったギーゼラが、口調の強さとは逆ににっこりと微笑《ほほえ》んだ。
「わたしが参りますよ。お役に立てない義父《ちち》の代わりに」
「だがギーゼラ、魔力《まりょく》の強い者はそれだけで不利だと、お前が言ったんだぞ。お前だって……」
「ええそうですとも。聖砂国に近づけば近づく程《ほど》、体の不調は酷《ひど》くなり魔術も使えなくなるでしょう。癒《いや》しの手の一族としての能力は無いも同然です。ですが閣下、これだけは理解していただきたいのです。医療行為《こうい》とは本来、魔術にばかり頼《たの》むものではありません。癒しの本質は心、まず心ありきなんです。傷ついた誰《だれ》かを治したいという、卑《いや》しい心こそが大切なのです」
「……卑しいのに大切なのか」
 ヴォルフラムの肩《かた》に置かれた両手に力がこもる。肩胛骨《けんこうこつ》が軽くピンチだ。
「ですから閣下、たとえ魔術が使えなくとも、わたしは聖砂国へと赴《おもむ》き、わたしの愛する兵士達、或《ある》いは現地の傷病者達を治療し続けます。閣下はご存じですか? 兵学校の伝説的医療教官であるナリキンガールが、今際《いまわ》のきわに遺《のこ》した言葉を」
 興奮したギーゼラにガクガクと揺《ゆ》すられる。攪拌《かくはん》されつつある脳味噌《のうみそ》の右端《みぎはし》で、ヴォルフラムは士官学校にあった肖像画《しょうぞうが》を思いだした。ナリキンガール、ああ、あの白衣の悪魔か。
「彼女は言いました。何故《なぜ》治療するのか、そこに患者《かんじゃ》があるからです!」
 おおおおい、『ある』じゃなくて『いる』だろう。傷病兵は物扱《あつか》いなのか。
 それでも軍曹殿《ぐんそうどの》の力強い言葉に、全員が勇気づけられた時だった。
 廊下《ろうか》から何かを引きずるような不気味な音と、低い呻《うめ》きが聞こえてくる。背筋を冷たい汗が《あせ》伝った。
「ヴぉールフラーぁム」
 ずずー、ずずー。
「ヴぉールフラーぁム」
 ずずー、ずずー。
 ダカスコスが震える声で言うと、ヴォルフラムは恐《おそ》る恐る自分を指さした。
「か、閣下、お呼びです」
「ぼくか? ぼくが呼ばれているじゃりか?」
 皆《みな》の恐怖《きょうふ》が最高潮に達した頃《ころ》、閉められていた艦長室のドアが乱暴に叩《たた》かれた。勇気あるマッチョ、アーダルベルトが、皆が息を呑む中、勢いよく扉《とびら》を押し開ける。
「ごがっ!」
 戸口には顔面を強打したフォンクライスト卿ギュンターが、無様に転がっていた。
「なんだ、ギュンターか」
「なんだはないでしょう、何だは。法力酔《よ》いと船酔いでまともに歩けない身をひきずって、やっとのことでここまで来た者に向かって」
 物凄い努力をしたように聞こえるが、彼が寝《ね》ていたのは隣《となり》の部屋だ。
 義理の娘が出してくれた椅子に落ち着くと、フォンクライスト卿ギュンターは「次は熱い茶を所望《しょもう》じゃ」みたいな顔になった。ヴォルフラムの白い眼にぶつかってやっと、自分がこの部屋に来た理由を思い出す。
「そうでした、そうでした。私が病《や》んだ身体《からだ》に鞭《むち》打ってここに来たのは、ヴォルフラム、私《わたくし》より魔力の弱いあなたのためにこそある、最高の方法を思いついたからでした」
「ぼくの魔力がお前に劣るだと?」
 プライドの高い美少年が不機嫌そうな声になると、ギュンターはいきなり叫んだ。
「聖砂国に行きたいかー?」
「お、おうー」
 つられて拳《こぶし》を突《つ》き上げる。
「よろしい。それでは私が、あなたにフォンクライスト家に代々伝わる秘術をかけて差し上げましょう」
 胡散臭《うさんくさ》い。ヴォルフラムは不審《ふしん》な面持《おもも》ちで、義理の娘であるギーゼラを振《ふ》り返った。こちらも聞かされていないのか、首を横に振るばかりだ。
「これまで誰にも使ったことはありませんが、私にはとっておきの秘術があるのです」
「秘術? 性別を変えたり盲腸《もうちよう》を取ったりするんじゃなかろうな」
「それは手術でしょう、そういうのはアニシナに頼みなさい。私の場合はもっと高尚《こうしょう》な秘術、相手の魔力を完全に封《ふう》じる禁忌《きんき》の技《わざ》なのです」
「禁忌の技……まさかお前、ぼくを実験台に!?」
「違いますよ失礼な。だからアニシナと一緒《いっしょ》にしないでください。ほんのりと傷つくではありませんか」
 ギュンターは手放せなくなってきた老眼鏡を押し上げ、法力酔いで血の気の引いた顔をしかめた。
「あなたが聖砂国に行けないのは、生半可に魔力が強いからです。だったらそれを封じてしまいさえすれば、陛下の御許《みもと》に馳《は》せ参じることができるはず……」
 いやに袖飾《そでかざ》りの多い腕を左右に開くと、がばっとばかりにヴォルフラムを抱《だ》き込んだ。全員が息を呑《の》んだのは、子鹿《こじか》に襲《おそ》いかかる巨大熊《きょだいくま》みたいに見えたからだ。
「よっ、よせギュンター! 窒息《ちっそく》し……ぼくを殺す気……もみぎゅ」
「ああーんヴォルフラム、いやぁーん、あはぁーん!」
「よせー……よ……ちぇー……」
「ああーそんなヴォルフラム、おーぅ、いいえーぇ」
 硬直《こうちょく》したフォンビーレフェルト卿《きょう》を胸に閉じ込めたままで、薄灰色の美しい長髪を両手で掻《か》き上げた。身も世もない喘《あえ》ぎ声をあげながら、激しく洗髪するように揉《も》み回す。破壊力《はかい》は抜群《ばつぐん》だ。
 ギーゼラが真っ白になっていった。白のギーゼラとして生まれ変わったわけではない。尊敬する義父の豹変《ひょうへん》に、現実から逃避《とうひ》してしまったのだ。他の者達は言葉もなく、全員一斉《いっせい》にくるりと向きを変え、壁《かべ》に向かって頭を打ち付け始めた。見てはならない、このおぞましい光景を決して記憶《きおく》に残してはならないと判断したからだ。
 というより夢、これは夢に違《ちが》いない。あの麗《うるわ》しの王佐《おうさ》、フォンクライスト卿ギュンター様が、ユーリ陛下の婚約《こんやく》者であるヴォルフラム閣下を襲っているなんて!
 虚《うつ》ろな瞳《ひとみ》で壁打ちを続ける一同の中で、サイズモアとアーダルベルトだけは「この親にしてこの子あり」と呟《つぶや》いていた。たとえ血が繋《つな》がっていなくても、人とはここまで真の親子になれるものなのだ。
 部屋の隅《すみ》に転がされたままのマキシーンだけが、目を閉じ損《そこ》ねて石のように固まっている。彼こそが歴史的秘術の生き証人だった。
 永遠とも思われる時間の後に、フォンクライスト卿は身体《からだ》を離《はな》して椅子《いす》に戻《もど》った。
「ぽは。ごっつぁんデスー」
 心なしかお肌《はだ》ツヤツヤ頬《ほ》っぺたツルツルで、カナリア食った猫《ねこ》みたいな顔をしている。若い子の精気を吸った超絶美形は、食後の爪楊枝《つまようじ》が欲しそうだ。
 一方、腕《うで》の中から解放されたヴォルフラムは、膝《ひざ》を崩《くず》したお嬢《じょう》さん座りのまま動こうとしない。
「か、閣下、ヴォルフラム閣下!?」
 白目を剥《む》いて放心状態だ。ギーゼラに頬《ほお》を軽く叩かれて、やっとのことで正気に戻った。娘《むすめ》よりも無情なギュンターは、手を貸しもせず見下ろしている。
「さあお立ちなさい、フォンビーレンフェルト卿ヴォルフラム。これであなたの中に存在する魔力は私という輝《かがや》く膜《まく》に包まれ、術が解けるまで発動することはありません。つまりあなたの中には常にこの私が存在し、肉体は無理でも私の魂《たましい》だけは、あなたと共に陛下のお傍《そば》へと向かうのです」
 ギュンターの真意《しんい》が見えた気がする。単にヴォオルフラムに同情しただけでなく、自分もユーリの所へ行きたいという欲望をかなえたのだ。他人の中に精神の一部を宿らせるという傍迷惑《はためいわく》な方法で。
「よりによってお前が? ぼくの中に!? 冗談《じょうだん》ではない、そんな気色の悪い術はお断りだ!」
「だってもう完了《かんりょう》しちゃいましたもーん」
 もーんじゃないだろ、もーんじゃ。全員がお好み焼き派っぽいツッコミをした。ヒロシマフウオコノミヤキは陛下の好物だ。
「行きたいのでしょう? 陛下のもとへ」
「い、行きたい」
「だったらよいではありませんか、お陰《かげ》であなたの魔力はなくなったも同然で、法術者てんこもりの聖砂国へも行けるのですよ? 私だってあなたと一心同体になどなりたくはありませんが、より確実に陛下の元へ参じるためには致《いた》し方《かた》ありません。この身がお役に立てない以上、せめて精神だけでも尽《つ》くしたいではありませんか。ああ陛下……できることなら陛下と一つになりたかった。強い魔力を持って生まれたこの身が厭《いと》わし……げふっゴフッけふん」
 口を覆《おお》い、咳《せき》を抑《おさ》えた掌《てのひら》を開くと、べったりと赤い鮮血《せんけつ》がついている。ギュンターはがくりと膝を折った。
「……ああ、血が」
「鼻から垂れてるぞ、鼻からな」
「ますますもっていけません! この上はヴォルフラム、あなたに全《すべ》ての希望を託《たく》します。さあどうぞ、これも持ってお行きなさい」
 袖飾りを掻き分けながら懐《ふところ》に手を突っ込み、細い紐《ひも》の輪を取りだした。回復していないヴォルフラムの首に無理やり掛《か》ける。先端《せんたん》には薄《うす》灰色の小さな袋《ふくろ》がぶら下がっていた。
「うひぇー、濡《ぬ》れてる、なんか濡れてるぞ!?」
「濡れてなどいません。湿《しめ》っているとしたら寝汗《ねあせ》でしょう。それは私の毛髪《もうはつ》で編んだお守り袋です。毛十割、純毛、名付けて『ギュンターの守護』です」
 フォンビーレンフェルト卿は呪《のろ》われたような気がした。首を絞《し》められたり寝首を掻かれたりするに違いない。嫌悪《けんお》感で早くも気が遠くなる。
「い、嫌《いや》すぎる……」
「いいですか? 絶体絶命の危機に陥《おちい》ったら、この『ギュンターの守護』を握《にぎ》り締《し》めて呪文《じゅもん》を唱えるのです。ぎゅぎゅぎゅんぎゅんぎゅん、ぎゅぎゅぎゅんぎゅんぎゅん、ぎゅぎゅぎゅんぎゅんぎゅんぎゅんぎゅーん、ですよ。いつかはあなたの住む街へ行くかもしれませんからね」
「長い割にはありがたみのない文句だな」
「あのー、もう目を開けてもいいでしょうかー」
 最後まで壁打ちを続けていたダカスコスが、恐《おそ》る恐る尋《たず》ねた。その時になってやっと周囲の空気に気付いたのか、フォンクライスト卿は床《ゆか》に膝をついたままぐるりと見回す。皆《みな》一様に、顔の色が真っ白だ。
「なんですか何ですか嘆《なげ》かわしい。珍《めずら》しい儀式《ぎしき》を目撃《もくげき》したくらいのことで、そんなに怯《おび》える人がありますか。ああ情けなや、まったくもって情けなや。そんなことでは陛下の盾《たて》になり剣《けん》となるという魔族《まぞく》の民《たみ》の大義が果たせませんよ」
 鼻血ロードをくっきり描《えが》いた男に言われると、怒る《おこ》以前に脱力《だつりょく》してしまう。
 ギュンターは胸の前で両手を組み合わせ、眞王《しんおう》陛下に祈《いの》りを捧《ささ》げる体勢になった。
「ああ陛下、フォンクライスト・ギュンターは不安です。兵士はこのような有様の者ばかり、おまけに指揮をとるのは八十二歳の若造です。我等の偉大《いだい》なる眞王陛下、どうかこの突貫《とっかん》編成の追跡《ついせき》隊に、眞王陛下のお力をお貸しください」
 いくら年寄りの戯言《たわごと》とはいえ、黙《だま》って聞いていれば酷《ひど》い言われようだ。むくれたヴォルフラムはギュンターの椅子を引き、自分が座ってしまってから言った。
「ぼくの能力を認めていないな」
「認めています。認めてはおりますけれど、ヴォルフラムの戦闘《せんとう》経験から考えますに、交戦時の指揮には一抹《いちまつ》の不安が残ります。的確な状況《じょうきょう》判断ができるでしょうか……」
 実戦不足でウェラー卿に敗れたくせに、自分のことは棚《たな》に上げて額を押さえた。
「勇猛果敢《ゆうもうかかん》とはいえサイズモアは海の者ですし、ダカスコスは剣より箒《ほうき》を持たせたほうが役に立つ男です。こんな寄せ集めで陛下を奪還《だっかん》できるのでしょうか。第一、戦力的にも心許《こころもと》ない。炎術の使えないヴォルフラムなど、メロンを入れないメロンパン入れのようなものです」
 小難しい喩《たと》えに皆が首を捻《ひね》る。フォンビーレフェルト卿は声を抑えながらも、苛立《いらだ》ちを隠《かく》しきれない様子だ。
「だが現状では、これ以上の戦力増強は望めないだろう。眞魔《しんま》国から兄上の艦隊《かんたい》が到着《とうちゃく》するまで待つか? あの大陸近海の異常海流については聞いたはずだ。ただでさえ航行可能期間がもう無いというのに、この上また日を遅《おく》らせれば、聖砂国まで辿《たど》り着けるかどうかも危《あや》うくなる」
「それはそうです、確かに理屈《りくつ》ではそうなのですが……」
「オレも乗せろよ」
 ずっと黙っていたアーダルベルトが、寄り掛かっていた壁から背を離す。
「面白《おもしろ》そうじゃねぇか。オレにも一枚噛《か》ませろや」
 分厚い胸板が好奇心《こうきしん》に震《ふる》えていた。左右交互《こうご》に。
「ご存知ないかもしれないが、オレはとっくに魔族も、魔力も捨てている。神族の土地だろうが法力に満ちた大陸だろうが、そこらの原っぱと変わりはない。お上品な斬《き》り合いはできないが、それなりの戦力にもな……」
「ふざけるな! 誰《だれ》がお前の力など借りるものか!」
 魔族を裏切った者の発言を、ヴォルフラムが叫《さけ》ぶようにして遮《さえぎ》った。責任者らしく振《ふ》る舞《ま》おうと感情を抑えていたのだが、どうにも我慢《がまん》ができなくなったのだ。
「我々を裏切り我が国に仇《あだ》なすことばかりしてきた男を、大事な王に近づけられるものか」
「まあ待てよ、我《わ》が儘《まま》プーさんよ」
「黙れ、着ぐるみ筋肉! お前なんかにプー呼ばわりされる筋合いはない! それ以前に、ぼくの呼び名を誰から聞いたんだ!?」
「旅行中の女学生が大勢泊《と》まっていた宿で」
 アーダルベルトはサラリと答えた。楽しい噂《うわさ》はすぐに国境を越《こ》える。
「おいおい、揮名《あだな》ごときで熱くなるなよ。しかもオレが魔族の身分を捨てたからって、同じ船にも乗せないってのは穏《おだ》やかじゃねえな。これから重要な作戦にかかろうって司令官が、そんな度量の狭《せま》い状態でいいのかい」
「なに……」
 高い位置にある青い瞳《ひとみ》が、いきり立つヴォルフラムを見下ろしている。
「笑わせてくれるぜ。任務遂行《すいこう》のためになら憎《にく》い敵とでも手を組む、それっくらいの余裕《よゆう》もねえのか。そんな狭量《きょうりょう》な者の指揮下に入る兵士達が、だんだん気の毒になってくるね」
「何だと?」
 心の中の目盛りを見られているような気がして、ヴォルフラムは唇《くちびる》を噛んだ。十貴族として、魔王の側近に立つ者としての器《うつわ》を、予想外の相手に試されている。
 この男の提案を突《つ》っぱね、忠義に篤《あつ》い者達だけで行くのは簡単だ。だがそれが最善の策かと訊《き》かれれば、素直《すなお》には頷《うなず》けない。より強い追跡隊を組むためには、アーダルベルトを加えても決して損にはならない。
 戦力だ。駒《こま》の一つとして考えればいい。こちらの不利に働かないよう、注意深く監視《かんし》すれば問題はなかろう。あとは自分達の感情だけだし、それだって制御《せいぎょ》するのは可能なはずだ。
 全てはユーリを助けるためと、強く言い聞かせれば済むことだ。
 ヴォルフラムは青い瞳を睨《にら》みつけながら、噛み締めていた唇を開く。答える前に胸の内で、この割れ顎《あご》め、と罵《ののし》るの忘れなかった。
「……いいだろう。サイズモア艦に同乗しろ」
「そうこなくちゃな。ああそうだ、こいつも持っていくぜ」
 放置されていた芋虫《いもむし》巻きシーンを、足の先でぐりぐりと弄《いじ》る。
「ぼくとユーリを狙《ねら》った男だぞ」
「小シマロンの牢《ろう》に戻《もど》したら盗《ぬす》み出したオレの苦労はどうなるんだ? かといって三食昼寝つきで、眞魔国に運んでやる理由もない。この船に積んでおくのが一番簡単なんだよ。別に人間として扱《あつか》わなくても構やしねえ、なーに、オレの荷物だと思ってくれりゃあいい」
「……勝手にしろ!」
 何が楽しいのか口元を歪《ゆが》ませた男の言《い》い種《ぐさ》に、ヴォルフラムは呆《あき》れて背中を向けた。きちんと管理しろよと言い捨てて、サイズモア達を連れて部屋を出る。
 準備することは山程《やまほど》あった。フォンクライスト卿《きょう》がまともに動けない今、彼が全てを指揮しなければならない。
「ふん」
 筋肉男は人の悪い笑《え》みを浮《う》かべたままで、面白そうに鼻を鳴らした。楽しくなってきた。こんな気分は久し振りだ。
 それにしてもあの甘やかされっぱなしの三男坊《ぼう》が、上に立つ者の良識まで身に着けようとは。変われば変わるものだ。それもこれも、あの新前《しんまい》魔王が現れたせいか。
 脳味噌《のうみそ》の繋《つな》ぎ目に黒い髪《かみ》と瞳が浮かんで、知らず知らず頬《ほお》が緩《ゆる》む。
「さーて、甘ったれ三男坊がどこまでやれるか、お手並み拝見といこうか」
「アーダルベルト」
 低い声で囁《ささや》きかけられ、思わず全身の筋肉が収縮する。ほんの半歩離《はな》れただけの場所に、フォンクライスト卿ギーゼラが佇《たたず》んでいた。
「な、なんだ、軍曹殿《ぐんそうどの》か」
 ちなみに彼女の実際の身分は軍曹ではない。これは便宜上の呼び方だ。
「あなたにお渡《わた》ししておかなくては」
 ギーゼラは手にしていた赤い小瓶《こびん》を、アーダルベルトに握らせた。
「解毒剤《ざい》ではないけれど、どうしても㈵液の効果を消したい場合はこれを使ってください」
「何の薬だ?」
「嫌《いや》だわ、もう忘れたのですか。そこに転がっている元小シマロン軍人のための物よ」
 空になった手を口に持っていき、人差し指を唇にくっつける。誰にも内緒《ないしょ》、の合図だ。急に背筋が寒くなり、アーダルベルトは数歩後退《あとじさ》った。
「そろそろ薬効《やっこう》が顕《あらわ》れる頃よ。あなたたちを濁《にご》った目で見守っているわ、ずっとね」
「何をだ」
「ふふふ……ふふふふふふふふ……」
 どこかおキクめいた微笑《ほほえ》みを浮かべたまま、ギーゼラはすーっと後ろに下がって行った。足が殆《ほとん》ど動いていない。あまりの不気味さに、自慢のマッスルにも鳥肌《とりはだ》がたつ。
「な、何を見守るつもりなんだ!?」
 マージョルノキケーン㈵液㈼液とは結局何の新薬だったのだろう、アーダルベルトは自慢の筋肉に物を言わせ、床に捨てられた説明書を拾い上げた。白地に赤黒いインクで手書きされている。見るからに不吉《ふきつ》。この温かみをさっぱり感じない悪筆は、アニシナの文字に違《ちが》いない。
「なんだと……この画期的な発明品であるマージョルノキケーンは、世界中の鶏嫌《にわとりぎら》いの人々にとって新たな世界を切り開く手助けとなるでしょう」
 昨日まであなたを小馬鹿《こばか》にし、砂をかけるほど嫌っていた全世界の鶏が、今日この瞬間《しゅんかん》からはあなたの忠実な手下に! 生まれたての鶏の雛《ひな》に㈵液を投薬すると、ヒヨコアミリャーゼの働きで最初に見た相手を父親と思い込みます。信じて疑いません。同様に㈼液を飲ませると、ヒヨコイソフラボボンの働きで相手を母親と思い込みます。所謂《いわゆる》「スリコギ」です。ただし、両者を混ぜて与《あた》えるとヒヨエルロン酸が強まり、鶏と人との種族間を超えた感情を持つようになり危険です。
「確かに危険だなそれは……は!?」
 熱い視線を感じて振り返る。
 上半身だけ自由になった刈《か》りポニが、アーダルベルトを見上げていた。床についた左手で体を支え、右手はお淑《しと》やかに髭《ひげ》に添《そ》えられていた。下半身は巻かれたまま投げだされている。
 人魚のポーズだ。
 ぎょっとして手元の説明書に再び目を落とす。
『㈵液を投薬すると……最初に見た相手を父親と思い込み……』
「……おとぉさま?」
 疑問調の語尾《ごび》に寒気立つ。
「おい、おいおいおいおい何だマキシーン、そんな眼《め》で見るな、だから頬を赤らめるんじゃない! オレはお前の親じゃねぇんだぞ!?」
 フォンカーベルニコフ卿アニシナ、またつまらぬ物を発明してしまったようだ。
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