物合はせ、なにくれといどむことに勝ちたる、いかでかうれしからざらむ。また、われはなど思ひてしたり顔なる人はかり得たる。女どちよりも、男はまさりてうれし。これが答(たふ)は必ずせむと思ふらむと、常に心づかひせらるるもをかしきに、いとつれなく、なにとも思ひたらぬさまにてたゆめ過ぐすも、またをかし。憎き者のあしき目見るも、罪や得らむと思ひながら、またうれし。
もののをりに衣(きぬ)打たせにやりて、いかならむと思ふに、清らにて得たる。さしぐしすらせたるに、をかしげなるもまたうれし。またも多かるものを。
日ごろ、月ごろ、しるきことありて、悩みわたるが、おこたりぬるもうれし。思ふ人の上は、わが身よりもまさりてうれし。
御前(おまへ)に人々所もなくゐたるに、今上りたるは、少し遠き柱もとなどにゐたるを、とく御覧じつけて、「こち」と仰せらるれば、道あけて、いと近う召し入れられたるこそうれしけれ。
(現代語訳)
物合わせなど、何やかんやと競争することに勝つのは、どうしてうれしくないことがあろうか。また、我こそはと得意顔になっている人をだますことができた場合はうれしい。女どうしよりも、男をだますことができたら一段とうれしい。相手がきっと仕返ししようとするのが思われて、常に注意を払っているのもおもしろいが、相手がそっけなく何も思っていないようすでこちらを油断させながら過ごしていくも、またおもしろい。憎たらしい人が辛い目にあうのも、そう考えるのは罰が当たると思うものの、やはりうれしい。
何かの折に、つやを出すために衣を打たせやって、どんなふうになるかしらと思ううちに、美しく出来上がってきたのはうれしい。さし櫛を磨きに出して、すばらしく出来上がったときもうれしい。このような例はたくさんある。
幾日も、幾月も、はっきりした兆候があって患い続けていて、すっかりよくなったときもうれしい。自分が慕っている人の身のときは、自分自身のこと以上にうれしい。
中宮様の御前に女房たちがすきまもなく座っているところに、遅れて参上した自分が、少し離れた柱のそばなどに座っていると、中宮様がすぐにお見つけになり、「こちらへ」と仰られて、女房たちが道を開けて、すぐお近くまで召し入れられたのは、それこそうれしい。