「たしかに門番のいうとおりだよ」と老大佐はつづけた。「原理的にも現実的にも、君が自分の影をとり戻せる可能性というのはまずない。この街にいるかぎり君は影を持つことはできんし、君は二度とこの街を出ることはできん。この街は軍隊で言うところの片道穴なんだ。入ることはできるが、出ることはできない。あの壁が街をとり囲んでおる限りね」
「僕は自分が永久に影を失うことになるなんて思わなかったんです」と僕は言った。「ほんの一時的な措置だと思ったんです。|誰《だれ》もそんなことは教えてくれませんでしたしね」
「この街では誰も何も教えてはくれんよ」と大佐は言った。「街は街独自のやり方で動いていく。誰が何を知っていて何をしらないかなんて、街には関係のないことなんだ。まあ気の毒だとは思うがね」
「影はこれからいったいどうなるのですか?」
「どうにもならないよ。ただあそこにいるだけだ。死ぬまでずっとね。それ以来影に会ったかね?」
「会っていません。何度か会いにはいったんですが、門番が会わせてくれないんです。保安上の理由とかでね」
「まあそれも仕方あるまいね」と老人は首を振りながら言った。「影の保管は門番の役目で、彼はその責任の全部を負っておる。私にもなんともしてあげられんよ。門番はあのとおり気むずかしくて気性の荒い男だから他人の言うことも|殆《ほと》んど聞かん。|奴《やつ》の気が変るのを気長に待つしか手はあるまいね」
「そうしますよ」と僕は言った。「でも彼はいったい何を心配しているのですか?」
大佐はコーヒーを全部飲んでしまうとカップを|皿《さら》に戻し、ポケットからハンカチを出して口もとを|拭《ぬぐ》った。大佐の着ている服と同じようにハンカチもよく使いこまれた古いものだったが、手入れは行きとどいていて清潔だった。
「君と君の影がくっついてしまうことを心配しているんだよ。そうなるとまたはじめからやりなおしということになるからね」
そう言うと、彼は注意を再びチェス盤に戻した。そのチェスは僕の知っているチェスとは|駒《こま》の種類と動き方が少しずつ違っていたので、ゲームはだいたいいつも老人が勝った。
「|猿《さる》が僧正をとるが、かまわんかね?」
「どうぞ」と僕は言った。それから僕は壁を動かして猿の退路を|塞《ふさ》いだ。
老人は何度か|肯《うなず》いて、また盤面をじっと|睨《にら》んだ。勝負の|趨《すう》|勢《せい》はもう殆んどきまっており老人の勝利は確定したようなものだったが、彼はそれでもかさにかかって攻めたてることはせず、熟考に熟考をかさねた。彼にとってゲームとは他人を負かすことではなく自分自身の能力に|挑《いど》むことなのだ。
「影と別れる、影を死なせるというのはつらいものだ」と老人は言って、騎士を斜行させ壁と王のあいだを巧妙にブロックした。僕の王はそれで実質的には丸裸になった。チェックメイトまであと三手というところだ。
「つらさというのはみんな同じさ。私の場合だってそうだった。それも何も知らない子供のうちにひきはがされて、つきあいのないままに影を死なせてしまうならともかく、年をとってからだとこたえるもんだよ。私が影を死なせたのは六十五の年だものな。その年になればいろいろと思い出もある」
「影はひきはがされたあとどのくらい生きるものなのですか?」
「影にもよるね」と老人は言った。「元気な影もいれば、そうでないのもいる。しかしひきはがされた影はこの街ではそれほど長くは生きられん。ここの|土《と》|地《ち》|柄《がら》は影にはあわんのだよ。冬は長くつらい。春を二度見ることのできる影はまずいないね」
僕はしばらく盤面を|眺《なが》めていたが、結局あきらめた。
「五手|稼《かせ》げるよ」と大佐は言った。「やってみる価値はあるんじゃないかね。五手あれば相手のミスを期待できる。勝負というのはけりがついてみるまではわからんものだよ」
「やってみましょう」と僕は言った。
僕が考えているあいだ、老人は|窓《まど》|際《ぎわ》に行って厚いカーテンを指で小さく開け、その細いすきまから外の景色を眺めていた。
「ここのしばらくが君にとってはいちばんつらい時期なんだ。歯と同じさ。古い歯はなくなったが、新しい歯はまだはえてこない。私の意味することはわかるかね?」
「影はひきはがされたがまだ死んでいないということですね?」
「そういうことさ」と老人は言って肯いた。「私にも覚えがあるよ。以前のもの[#「以前のもの」に丸傍点]とこれからのもの[#「これからのもの」に丸傍点]のバランスがうまくとれないんだ。だから迷う。しかし新しい歯が|揃《そろ》えば、古い歯のことは忘れる」
「心が消えるということですか?」
老人はそれには答えなかった。
「いろいろ質問ばかりしてすみません」と僕は言った。「しかし僕はこの街について殆んど何も知らないし、|面《めん》|喰《くら》うことばかりなんです。街がどういう機構で動いているのか、どうしてあんな高い壁があるのか、|何《な》|故《ぜ》毎日獣が出入りするのか、古い夢とは何なのか、どれひとつとして僕には理解できない。そして質問することができる相手はあなた一人しかいないんです」
「私だってものごとのなりたちを何から何まで|把《は》|握《あく》しておるというわけではない」と老人は静かに言った。「また口では説明できないこともあるし、説明してはならん筋合のこともある。しかし君は何も心配することはない。街はある意味では公平だ。君にとって必要なもの君の知らねばならんものを、街はこれからひとつひとつ君の前に提示していくはずだ。君はそれをやはりひとつひとつ自分の手で学びとっていかねばならんのだ。いいかね、ここは完全な街なのだ。完全というのは何もかもがあるということだ。しかしそれを有効に理解できなければ、そこには何もない。完全な無だ。そのことをよく覚えておきなさい。他人から教えられたことはそこで終ってしまうが、自分の手で学びとったものは君の身につく。そして君を助ける。目を開き、耳を澄まし、頭を働かせ、街の提示するものの意味を読みとるんだよ。心があるのなら、心があるうちにそれを働かせなさい。私が君に教えることができるのはそれくらいしかない」
彼女が住む職工地区がかつての輝きを|闇《やみ》の中に失った場所であるとするなら、街の南西部にひろがる官舎地区は、乾いた光の中でたえまなくその色を失いつづける場所だ。春がもたらした|潤《うるお》いを夏が溶かし、冬の季節風が風化させてしまったのだ。「西の丘」と呼ばれる緩やかな広い斜面に沿って、二階建ての白い官舎がずらりと立ち並んでいる。もともとひとつの|棟《むね》には三家族が住めるように設計され、まん中に飛び出るように付いた玄関ホールだけが共有部分になっていた。|下《した》|見《み》|貼《ば》りになった|杉《すぎ》|材《ざい》にも|窓《まど》|枠《わく》にも狭いポーチにも窓の手すりにも、白いペンキが塗られている。見わたす限り何もかもが白だ。西の丘の斜面にはあらゆる種類の白が揃っている。塗りなおされたばかりの不自然なくらい輝かしい白、太陽の光に長いあいださらされて黄ばんだ白、雨まじりの風にすべてを奪いとられたような虚無の白、そんな様々な白が、丘をめぐる砂利道沿いにどこまでもつづいていた。官舎には|垣《かき》|根《ね》はない。狭いポーチの足もとに一メートルほどの幅の細長い花壇があるだけだ。花壇はとても丁寧に手入れされていて、春にはクロッカスやパンジーやマリゴールドの花が咲き、秋にはコスモスが咲いた。花が咲くと、建物はよけいに|廃《はい》|墟《きょ》みたいに見えた。
この地区は、一昔前にはおそらく|瀟洒《しょうしゃ》といってもさしつかえないくらいの街並であったのだろう。丘をぶらぶらと散歩すると、そういった過去の|面《おも》|影《かげ》がそこかしこにうかがえた。通りには子供たちが遊び、ピアノの音が聞こえ、温かい夕食の|匂《にお》いが漂っていたはずだ。僕はいくつかの透明な|扉《とびら》を通り抜けるようにそんな記憶を|肌《はだ》に感じることができた。
官舎という名前のとおり、かつては官吏たちがこの地区の住人であった。それほど地位の高い官吏ではなく、かといって下級職員でもない中級の地位に就いている人々だった。人々がそのささやかな生活を守り抜こうとしている場所だったのだ。
しかしそこにはもう彼らの姿はない。彼らがどこに行ったのかは僕にはわからない。
そのあとにやってきたのは退役した軍人たちだった。彼らは影を捨て、日あたりの良い壁にはりついた虫の|抜《ぬ》け|殻《がら》のように、強い季節風の吹きぬける西の丘の上で、それぞれのひっそりとした生を送りつづけていた。彼らにはもう守るべきものは|殆《ほと》んど何もなかった。ひとつひとつの棟には六人から九人の老軍人が住んでいた。
僕が門番から住居として指示されたのはそんな官舎の一室だった。僕の住む官舎には大佐が一人と少佐と|中尉《ちゅうい》が二人ずつ、そして|軍《ぐん》|曹《そう》が一人住んでいた。軍曹が料理を作り雑用をし、大佐が様々な判断を下した。軍隊と同じだ。老人たちはみんな戦争の準備や遂行やあとかたづけや革命や反革命に休む暇もなく追われているうちに家庭を持つ機会を失ってしまった孤独な人々である。
彼らは朝早く目覚めると習慣的に素速く食事を済ませ、誰に命令されるともなくそれぞれの仕事にとりかかるのである。あるものは建物の古びたペンキをへらのようなもので削り落とし、あるものは前庭の雑草を抜き、あるものは家具の修理を引き受け、あるものは荷車を引いて丘の下に配給食料を取りに行った。老人たちはそのような朝の労働を終えると、あとは|陽《ひ》だまりに集って思い出話に|耽《ふけ》った。
僕が与えられたのは東に面した二階の一室だった。手前の丘にさえぎられて見晴しはあまり良くないが、それでも端の方に川と時計塔が見えた。長く使われていなかった部屋らしく壁の|漆《しっ》|喰《くい》にはいたるところに暗いしみがつき、窓枠には白くほこりがつもっていた。古いベッドと小さな食卓と|椅《い》|子《す》がふたつあった。窓にはかび臭い厚いカーテンがかかっていた。床の木はかなり痛んでいて、歩くたびに|軋《きし》みを立てた。
朝になると隣室の大佐がやってきて二人で朝食をとり、午後には暗くカーテンを閉ざした部屋でチェスをした。晴れた午後にはチェスをする以外に時間を過す方法はなかった。
「こんなよく晴れた日にカーテンを閉ざして暗い部屋にとじこもらねばならんというのは、君のような若い人間にとってはきっとつらいことなのだろうな」と大佐は言った。
「そうですね」
「まあ私にとっちゃチェス相手ができてありがたいがね。ここの連中はゲームになんてほとんど興味を持っておらんからな。いまだにチェスなんかをやりたがるのは私くらいのものだ」
「あなたはどうして影を捨てたのですか?」
老人はカーテンのすきまからさしこむ陽光に染まった自分の指を見つめていたが、やがて窓際を離れ、テーブルの僕の向いに戻った。
「そうだな」と彼は言った。「おそらくあまりにも長くこの街を守りつづけてきたからだろうな。この街を捨てて出ていけば、私の人生の意味というものがなくなってしまうような気がしたんだろうね。まあ今となってはそんなものはどうでもいいことだが」
「影を捨てたことで後悔したことはありますか?」
「後悔はしない」と言って老人は首を何度か横に振った。「後悔したことは一度もないよ。|何《な》|故《ぜ》なら後悔するべきことがないからだ」
僕は壁で猿をつぶし、王が動くことのできるスペースを広げた。
「|上《う》|手《ま》い手だ」と老人は言った。「壁で|角《つの》を防げるし、王も自由になった。しかしそれと同時に私の騎士も活躍できるようにもなったな」
老人がじっくりと次の手を考えているあいだに僕は湯をわかし、新しいコーヒーをいれた。数多くの午後がこのように過ぎ去っていくのだ、と僕は思った。高い壁に囲まれたこの街の中で、僕に選びとることのできるものは殆んど何もないのだ。