時間はもう七時を過ぎ、窓の外はすっかり暗くなっていたが、それでもまだ彼女はあらわれなかった。結局私は二十三番と二十四番のピアノ・コンチェルトを全部聴いてしまった。たぶん彼女は思いなおして、私のところに来るのをやめてしまったのかもしれなかった。もしそうだとしても、そのことで彼女を責めることはできなかった。どう考えてみても、来ない方がまともなのだ。
しかし私があきらめて次のレコードを探しているときに、ドアのベルが鳴った。魚眼レンズをのぞくと、廊下に本を抱えた図書館のリファレンスの女の子が立っていた。私は鎖をかけたままドアを開き、廊下に|他《ほか》に|誰《だれ》かの姿がないか|訊《き》いてみた。
「誰もいないわよ」と彼女は言った。
私は鎖を外してドアを開け、彼女を中に入れた。彼女が中に入ると私はすぐにドアを閉め、|鍵《かぎ》をかけた。
「すごくいい|匂《にお》いするわねえ」と彼女が鼻をくんくんさせながら言った。「台所のぞいていいかしら?」
「どうぞ。でもアパートの入口あたりに変な人いなかった? 道路工事をやっているとか、駐車中の車に人が乗っていたとか?」
「ぜんぜん」と彼女は言ってキッチンのテーブルに持ってきた二冊の本をひょいと置き、レンジの上の|鍋《なべ》のふたをひとつずつあけてまわった。「これあなたがぜんぶ作ったの?」
「そうだよ」と私は言った。「腹が減ってるんなら|御《ご》|馳《ち》|走《そう》するよ。たいした料理でもないけどさ」
「そんなことないわ。私こういうの大好き」
私はテーブルに料理を並べ、彼女がそれを片端からたいらげていくのを、感心して|眺《なが》めていた。これくらい熱心に食べてくれれば料理の作りがいもあるというものだ。私は大きなグラスにオールド・クロウのオン・ザ・ロックを作り、厚あげを強火でさっと焼いておろししょうがをかけ、それをさかなにウィスキーを飲んだ。彼女は何も言わずに黙々と食べていた。私は酒をすすめてみたが、彼女は要らないと言った。
「その厚あげ、ちょっとくれる?」と彼女は言った。私は半分残った厚あげを彼女の方に押しやって、ウィスキーだけを飲んだ。
「もしよかったら御飯と梅干しがあるし、みそ|汁《しる》もすぐに作れるけど」と私は念のためにたずねてみた。
「そういうの最高だわ」と彼女は言った。
私はかつおぶしで簡単にだしをとってわかめとねぎのみそ汁を作り、ごはんと梅干しを添えて出した。彼女はあっという間にそれをたいらげてしまった。テーブルの上が梅干しのたねだけを残してきれいさっぱりかたづいてしまうと、彼女はやっと満足したようにため息をついた。
「ごちそうさま。おいしかった」と彼女は言った。
彼女のようなほっそりとした美人がそんなにガツガツと食事をするのを見たのははじめてだった。しかしそれはまあ見事といえば見事な食べっぷりであった。彼女がすっかり食べ終ったあとでも、私はなかば感心し、なかばあきれて、彼女の顔をぼんやり眺めていた。
「ねえ、いつもそんなにいっぱい食べるの?」と私は思いきって質問してみた。
「ええ、そうよ。いつもこれくらい」と彼女は平気な顔をして言った。
「でもまるで太ってないみたいだけれど」
「胃拡張なの」と彼女は言った。「だからいくら食べても太らないことになってるの」
「ふうん」と私はうなった。「ずいぶん食費がかかりそうだなあ」実際彼女は私の翌日の昼食のぶんまで一人で食べてしまったのだ。
「そりゃすごいわよ」と彼女は言った。「外食するときはふつう二軒つづけてはしごするのよ。まずラーメンとギョーザかなんかで軽くウォーミング・アップしてから、ちゃんとしたごはんを食べるの。お給料のほとんどは食費に消えちゃうんじゃないかしら」
私はもう一度彼女に酒をすすめた。ビールを欲しいと彼女は言った。私はビールを冷蔵庫から出し、ためしにフランクフルト・ソーセージを両手にいっぱいフライパンで|炒《いた》めてみた。まさかとは思ったが、私が二本食べた他はぜんぶ彼女がたいらげた。重機関銃で|納《な》|屋《や》をなぎ倒すような、すさまじい勢いの食欲だった。私が一週間ぶんとして買いこんできた食料は目に見えて減っていった。私はそのフランクフルト・ソーセージで、おいしいザワークラウト・ソーセージを作るつもりだったのだ。
私ができあいのポテト・サラダにわかめとツナをまぜたものを出すと、彼女はそれも二本めのビールとともにぺろりとたいらげた。
「ねえ、私とても幸せよ」と彼女は私に言った。私はほとんど何も食べずに、オールド・クロウのオン・ザ・ロックを三杯飲んでいた。彼女の食べる姿に見とれていて、まるで食欲なんてわかなかったのだ。
「よかったらデザートにチョコレート・ケーキもあるけれど」と私は言ってみた。彼女はもちろんそれを食べた。見ているだけで、|喉《のど》のすぐ下まで食べ物が押しあがってくるような気分になった。私は料理を作るのは好きだけれど、どちらかといえば少食といってもいい方なのだ。
たぶんそのせいだと思うけれど、私のペニスはうまく|勃《ぼっ》|起《き》しなかった。神経が胃の方に集中してしまっているのだ。しかるべきときにペニスが勃起しなかったことなんて東京オリンピックの年以来はじめてのことだった。私はこれまでそういった種類の肉体能力については自分でも絶対的と表現してもさしつかえない程度の自信を持って生きてきたから、それは私にとっては少なからざるショックだった。
「ねえ、大丈夫よ、気にしないでいいのよ、たいしたことじゃないんだもの」と彼女は言ってくれた。髪の長い胃拡張の、図書館のリファレンス係の女の子だ。我々はデザートのあとでウィスキーとビールを飲みながらレコードを二枚か三枚聴き、それからベッドにもぐりこんだのだ。これまでにけっこういろんな女の子と寝てきたが、図書館員と寝るのははじめてだった。そしてまたそれほど簡単に女の子と性的関係に入ることができたのもはじめてだった。たぶんそれは私が夕食をごちそうしたせいだと思う。でも結局、さっきも言ったように、私のペニスはまったく勃起しなかった。胃がイルカのおなかみたいに膨んでいるような気がして、どうしても下腹部に力が入らないのだ。
彼女は裸の体をぴったりと私のわきにつけ、中指で私の胸のまん中を十センチくらい何度も上下させた。「こういうのって、誰にでもたまにはあることなんだから、必要以上に悩んじゃ|駄《だ》|目《め》よ」
しかし彼女が慰めてくれればくれるほど、私のペニスが勃起しなかったという事実がより明確な現実感を伴って私の心にのしかかってきた。私は昔何かの本でペニスは勃起しているときより勃起していないときの方が美的だという趣旨の文章を読んだことを思いだしたが、それもたいした慰めにはならなかった。
「この前女の子と寝たのはいつ?」と彼女が訊いた。
私は記憶の箱のふたを開けて、その中をしばらくもそもそとまさぐってみた。「二週間前だな、たしか」と私は言った。
「そのときはうまくいったのね?」
「もちろん」と私は言った。ここのところ毎日のように誰かに性生活についての質問をされているような気がする。あるいはそういうのが世間で今はやっているのかもしれない。
「誰とやったの?」
「コールガール。電話して呼ぶんだ」
「そういう種類の女の人と寝ることについてそのとき何か、そうねえ、罪悪感のようなものは感じなかった?」
「女の人じゃない」と私は訂正した。「女の子、二十か二十一だよ。罪悪感なんてべつにないよ。さっぱりしててあとくされもないしさ。それにはじめてコールガールと寝たわけでもない」
「そのあとマスターベーションした?」
「しない」と私は言った。そのあと私はとても仕事が忙しくて、今日までクリーニングに出したままの大事な上着をとりに行く暇もなかったのだ。マスターベーションなんてするわけがない。
私がそう言うと彼女は納得がいったように|肯《うなず》いた。「きっとそのせいよ」と彼女が言った。
「マスターベーションしなかったせいで?」
「まさか、|馬《ば》|鹿《か》ねえ」と彼女は言った。「仕事のせいよ。仕事がすごく忙しかったんでしょ?」
「そうだな、おとといは二十六時間くらい眠れなかった」
「どんな仕事?」
「コンピューター関係」と私は答えた。仕事を訊かれたとき、私はいつもそう答えることにしている。だいたいのラインとしては|嘘《うそ》じゃないし、世間の大抵の人はコンピューター・ビジネスについてそれほど深い専門知識を持っているわけではないので、それ以上つっこんだ質問をされずに済む。
「きっと長時間頭脳労働したせいで、すごくストレスがたまって、それで一時的に駄目になっちゃったのね。よくあることよ」
「ふうん」と私は言った。たぶんそうなのかもしれない。疲れているうえに、この二日ばかり何だか不自然なことがいっぱいあって多少ナーヴァスになっているところに、すさまじい暴力的とでもいえそうな食欲を目のあたりに見せつけられたせいで、私は一時的にインポテントになってしまったのかもしれない。ありそうな話だった。
でもそれだけで簡単に説明がつくほど問題の根は浅くないのではないかという気もした。それ以外にたぶん何かしらの要素があるのだ。私はこれまで同じように疲れて同じようにナーヴァスになっているときにも、かなり満足のいく程度の性能力を発揮してきたのだ。それはたぶん彼女の有しているある種の特殊性に起因しているのだ。
特殊性。
胃拡張・長い髪・図書館……。
「ねえ、私のおなかに耳をつけてみて」と彼女は言った。そして毛布を足もとまでまくった。
彼女はとてもすべすべとした|綺《き》|麗《れい》な|身体《か ら だ》をしていた。すらりとして、余分な肉は一片たりとも付着していない。乳房もまずまずの大きさだった。私は言われたとおり、乳房とへそのあいだの画用紙みたいにぺったりとした部分に耳をつけてみた。あれだけ食べ物を詰めこんだのにもかかわらず腹がぜんぜん膨んでいないというのはまさに|奇《き》|蹟《せき》というほかはなかった。まるであらゆるものを|貪《どん》|欲《よく》に|呑《の》み込んでいくハーポ・マルクスのコートみたいだ。|肌《はだ》は薄くやわらかく、あたたかかった。
「ねえ、何か聴こえる?」と彼女が私に言った。
私は息を止めて耳を澄ませてみた。ゆっくりとした心臓の鼓動の他には、音らしいものは何も聴こえなかった。静かな森の中に寝転んで、遠くの方から聞こえてくる|樵《きこり》の|斧《おの》の音に耳を澄ませているようなかんじがした。
「何も聴こえないよ」と私は言った。
「胃の音って聴こえないのかしら?」と彼女は言った。「胃が食物を消化する音」
「くわしいことはわからないけれど、たぶん|殆《ほと》んど音は立てないと思うな。胃液で溶かすだけだからさ。多少の|蠕《ぜん》|動《どう》運動はもちろんあるにしても、それほどの音はしないはずだよ」
「でも、私、自分の胃がいま一所懸命働いているのがすごくはっきり感じとれるのよ。もう少し耳を澄ませてみて」
私はそのままの姿勢で耳に神経を集中し、彼女の下腹部と、その先の方にふっくらと盛りあがっている陰毛をぼんやりと眺めていた。でも胃の活動音らしきものはまったく聴こえなかった。きちんとした間隔をおいて心音が聴こえてくるだけだった。『眼下の敵』にこういうシーンがあったような気がした。私が耳を澄ませているその下で、彼女の巨大な胃がクルト・ユルゲンスの乗ったUボートみたいにひっそりと消化活動を行なっているのだ。
私はあきらめて顔を彼女の身体から放し、|枕《まくら》にもたれて彼女の肩に手をまわした。彼女の髪の匂いがした。
「トニック・ウォーターある?」と彼女が訊いた。
「冷蔵庫」と私は言った。
「ウォッカ・トニックが飲みたいんだけど、いいかしら?」
「もちろん」
「あなたも何か飲む?」
「同じものでいいよ」
彼女が全裸でベッドを出て、キッチンでウォッカ・トニックを作っているあいだに、私は『ティーチ・ミー・トゥナイト』の入ったジョニー・マティスのレコードをプレイヤーに載せ、ベッドに|戻《もど》って小さな声で合唱した。私と私のやわらかなペニスとジョニー・マティスと。
「|空は大きな黒板で《ザ・スカイ・ザ・ブラックボード》——」と|唄《うた》っていると、彼女が二杯の飲み物を一角獣についての本の上にトレイがわりにのせて戻ってきた。我々はジョニー・マティスを聴きながら濃いウォッカ・トニックをちびちびと飲んだ。
「あなたいくつ?」と彼女が訊いた。
「三十五」と私は言った。間違えようのない簡潔な事実というのはこの世で最も好ましいことのひとつだ。「ずっと前に離婚して今は独り。子供なし。恋人なし」
「私は二十九。あと五カ月で三十よ」
私はあらためて彼女の顔を見た。とてもそんな|歳《とし》には見えない。せいぜい二十二か二十三というところだ。お|尻《しり》もちゃんと上にあがっているし、しわ[#「しわ」に丸傍点]ひとつない。私は女性の年齢を判断することについての能力を急激に失いつつあるような気がした。
「若く見えるけど、本当に二十九よ」と彼女は言った。「ところであなた本当は野球選手か何かじゃないの?」
私は驚いて飲みかけていたウォッカ・トニックを思わず胸の上にこぼしそうになった。
「まさか」と私は言った。「野球なんてもう十五年もやったことないよ。どうしてそんなこと考えついたんだ?」
「TVであなたの顔を見たことがあるような気がしたのよ。私はTVといっても野球中継かニュースくらいしか|観《み》ないし。じゃあニュースかしら?」
「ニュースにも出たことないよ」
「コマーシャルは?」
「ぜんぜん」と私は言った。
「じゃあきっとあなたにそっくりな人だったのね……。でもあなたとにかくコンピューター関係者には見えないわよ」と彼女は言った。「進化がどうのこうのとか、一角獣とか、かと思えばポケットにはとびだしナイフが入ってるし」
彼女は床に落ちている私のズボンを指さした。たしかに尻ポケットからはナイフがのぞいていた。
「生物学関係のデータ処理をしてるんだ。一種のバイオテクノロジーで、企業利益がからんでいるものだからね。それで用心をしてるんだ。最近はデータの奪いあいも物騒になってきたもんでね」
「ふうん」と彼女は今ひとつ納得しかねるような顔つきで言った。
「君だってコンピューターを操作しているけれど、とてもコンピューター関係者には見えないぜ」と私は言った。
彼女は指の先でしばらくコツコツと前歯を|叩《たた》いていた。「だって私の場合は、ほら、完全な実務レベルだもの。末端を処理しているだけ。蔵書のタイトルを項目べつにインプットして、リファレンスのために呼びだしたり、利用状況を調べたり、その程度のことね。もちろん計算もできるけど……。大学を出てから二年間コンピューター操作専門の学校にかよったの」
「君が図書館で使ってるのはどんなコンピューター?」
彼女はコンピューターの型番を教えてくれた。最新型の中級オフィス・コンピューターだが、性能は見かけよりずっと優れていて、使い方次第ではかなり高度な計算をすることもできる。私も一度だけ使ったことがある。
私が目を閉じてコンピューターのことを考えているあいだに、彼女が新しいウォッカ・トニックをふたつ作って持ってきた。それで我々はまた二人並んで枕にもたれ、二杯めのウォッカ・トニックをすすった。レコードが終るとフル・オートマティックのプレイヤーの針が戻り、ジョニー・マティスのLPをもう一度頭から演奏しなおした。それで私はまた「|空は大きな黒板で《ザ・スカイ・ザ・ブラックボード》——」と口ずさむことになった。
「ねえ、私たち似合いだと思わない?」と彼女が私に言った。彼女のウォッカ・トニックのグラスの底がときどき私のわき腹に触れてひやりとした。
「似合い?」と私はききかえした。
「だってあなたは三十五だし、私は二十九だし、ちょうどいい歳だと思わない?」
「ちょうどいい歳?」と私は繰りかえした。彼女のオウム型反復がすっかり私の方に移ってしまったようだった。
「これくらいの歳になれば、お互いちゃんといろんなことも心得てるし、どちらもひとり身だし、私たち二人でけっこううまくやれるんじゃないかしら。私はあなたの生活に干渉しないし、私は私なりにやるし……私のこと|嫌《きら》い?」
「そんなことないさ、もちろん」と私は言った。「君は胃拡張だし、こちらはインポテントだし、似合いかもしれない」
彼女は笑って手をのばし、私のやわらかいペニスをそっとつかんだ。ウォッカ・トニックのグラスを持っていた方の手だったので、とびあがりそうなくらい冷たかった。
「あなたのはすぐになおるわ」と彼女は私の耳もとで|囁《ささや》いた。「ちゃんとなおしてあげる。でもべつに急いでなおさなくてもいいのよ。私の生活は性欲よりはむしろ食欲を中心にまわっているようなものだから、それはそれでかまわないの。セックスというのは、私にとってはよくできたデザート程度のものなの。あればあるにこしたことないけれど、なくてもそれはそれでべつにかまわないの。それ以外のことがある程度満足できればね」
「デザート」と私はまた反復した。
「デザート」と彼女も繰りかえした。「でもそのことについてはまた今度きちんと教えてあげる。その前に一角獣の話をしましょう。そもそもはそれが私を呼んだ本来の目的だったんでしょう?」
私は肯いて空になったふたつのグラスを手にとって床に置いた。彼女は私のペニスから手をどかし、枕もとの二冊の本を取った。一冊はバートランド・クーパーの『動物たちの考古学』で、もう一冊はボルヘスの『幻獣辞典』だった。
「ここに来る前に私はこの本をぱらぱらと読んでみたの。簡単に言うと、こちらの方は」(と言って、彼女は『幻獣辞典』を手にとった)「一角獣という動物を|竜《りゅう》や人魚のような空想の産物として|捉《とら》えたものであり、それからこちらの方は」(と言って『動物たちの考古学』の方を手にとった)「一角獣が存在しなかったとは限らないという立場から、実証的にアプローチしたものなの。でもどちらも一角獣そのものについての記述は残念ながらあまり多くはないの。竜や小鬼なんかについての記述に比べるとちょっと意外なほど少ないわね。たぶん一角獣という存在がすごくひっそりとしているせいじゃないかと私は思うんだけど……。申しわけないけど、うちの図書館で私が手に入れることができたのはこれだけなの」
「それで十分だよ。一角獣についての概略がわかればいいんだ。ありがとう」
彼女はその二冊の本を私の方にさしだした。
「もしよかったら君が今その本を簡単にかいつまんで読んでくれないかな」と私は言った。「耳から入ってきた方がアウトラインをつかみやすいんだ」
彼女は肯いて、まず『幻獣辞典』を手にとって、はじめの方のページを開けた。
「われわれは宇宙の意味について無知なように、竜の意味についても無知である」と彼女は読みあげた。「これがこの本の序文ね」
「なるほど」と私は言った。
それから彼女はずっとうしろの方のしおりをはさんであったページを開いた。
「まず最初に知っておかなければならないのは一角獣にはふたつの種類があるということなの。まずひとつはギリシャに端を発する西欧版の一角獣であり、もうひとつは中国の一角獣なの。そのふたつでは姿かたちも違えば、人々の捉え方もぜんぜん違うのよ。たとえばギリシャ人は一角獣をこんな風に描写しているの。
『これは胴体は馬に似ているが、頭は|雄《お》|鹿《じか》、足は象、尾は|猪《いのしし》に近い。太いうなり声をあげ、一本の黒い角が額のまん中から三フィート突き出している。この動物を生け捕りにするのは不可能だといわれている』
それに比べて中国の一角獣はこんな具合。
『これは鹿の体をしていて、牛の尾と馬の|蹄《ひづめ》持つ。額に突き出している短かい角は肉でできている。皮は背で五色の色が混じりあい、腹は|褐色《かっしょく》か黄色である』
ね、ずいぶん違うでしょ?」
「そうだね」と私は言った。
「姿かたちだけではなく、その性格や意味あいも、東洋と西洋ではがらりと違うの。西洋人の見た一角獣はひどく|獰《どう》|猛《もう》で攻撃的ね。なにしろ三フィートっていうから、一メートル近い角があるわけだものね。またレオナルド・ダ・ヴィンチによれば一角獣の捕えかたはひとつしかなくて、それはその情欲を利用することなの。若い乙女を一角獣の前に置くと、それは情欲が強すぎるために攻撃することを忘れて少女の|膝《ひざ》に頭を載せ、それで捕えられてしまうのね。この角[#「角」に丸傍点]が意味することはわかるでしょ?」
「わかると思う」
「それに比べると中国の一角獣は縁起の良い聖なる動物なの。これは竜、|鳳《ほう》|凰《おう》、|亀《かめ》と並ぶ四種の|瑞獣《ずいじゅう》のひとつであり、三六五種の地上動物のうちではいちばん上の位にあるの。性格はきわめて穏かで、歩くときはどんな小さな生きものをも踏みつけないようにするし、生きた草は食べず、枯れ草しか食べないの。寿命は約一千年で、この一角獣の出現は聖王の誕生を意味する。たとえば|孔《こう》|子《し》の母が彼を|身《み》|籠《ごも》ったときに一角獣を目にしているのね。
『七十年後、とある|狩人《かりゅうど》たちが一頭の|麒《き》|麟《りん》を殺したところ、その角には孔子の母が結びつけておいた飾り|紐《ひも》がまだついていた。孔子はその一角獣をみに赴き、そして涙を流した。なぜならこの|無《む》|垢《く》の神秘な獣の死が何を予言するのか感じとったし、その飾り紐には彼の過去があったからだ』
どう、|面《おも》|白《しろ》いでしょ? 十三世紀になっても一角獣は中国の歴史に登場してくるのよ。ジンギス汗の軍隊がインド侵入を計画して送り込んだ|斥《せっ》|候《こう》遠征隊が|砂《さ》|漠《ばく》のまん中で一角獣に出会うの。この一角獣は馬のような頭で、額に角が一本あって、からだの毛は緑色で、鹿に似ていて、人間のことばをしゃべるのよ。そしてこう言ったの。お前たちの主人が国に帰るべきときが来たってね。
『ジンギス汗の中国人の大臣のひとりが相談を受け、その動物は麒麟の一種で〈角瑞〉というものだと彼に説明した。〈四百年の間、大勢の軍隊が西方の地で戦ってきた〉と彼は言った。〈流血を|忌《い》み|嫌《きら》う天は、角瑞をとおして警告を与えているのです。後生ですから帝国をお救い下さい。中庸こそ際限なき喜びを与えるのです〉皇帝は戦いの計画を思いとどまった』
東洋と西洋では同じ一角獣といってもこれだけ違うのね。東洋では平和と|静《せい》|謐《ひつ》を意味するものが、西洋では攻撃性とか情欲とかを象徴することになるんだもの。でもいずれにせよ、一角獣が架空の動物であり、それが架空であればこそ様々な特殊な意味を|賦《ふ》|与《よ》されたということには変りはないと思うわ」
「一角の獣はほんとうに存在しないの?」
「イルカの一種にイッカクというのがいるけれど、正確に言うとこれは角ではなくて、|上《うわ》|顎《あご》の門歯の一本が頭のてっぺんで成長したものなの。長さは約二・五メートルで、まっすぐで、角にはねじ模様がドリルみたいに刻みこまれているのよ。でもこれは特殊な水生動物だし、中世の人々の目に触れることはあまりなかったでしょうね。|哺乳類《ほにゅうるい》でいうと、中新世にあらわれては次々に消えていった様々な動物の中には一角に似たものがいなくはないわね。たとえば——」
と言って彼女は『動物たちの考古学』を手にとって、前から三分の二あたりのところを開いた。
「これは中新世——約二千万年前——に北アメリカ大陸に存在したとされる二種の|反《はん》|芻《すう》動物なの。右側がシンテトケラスで、左側がクラニオケラス。どちらも三角だけれど、独立した一角を持っていることはたしかね」
私は本を受けとって、そこにある図版を見た。シンテトケラスは小型の馬と鹿を一緒にしたような動物で、額に牛のような二本の角を持ち、鼻先にY字形に先端がわかれた長い角を持っていた。クラニオケラスはシンテトケラスに比べるとやや丸顔で、額に二本の鹿のような角を持ち、それとはべつにうしろに向けて突きだして、そのまま上に湾曲した長く鋭い一本の角を持っていた。どちらの動物もどことなくグロテスクな感じがあった。
「でもこういった奇数角の動物たちは結局ほとんど全部が姿を消してしまったの」と彼女は言って、私の手から本を取った。
「哺乳類という分野に限っていうと、単角あるいは奇数角を有する動物はきわめて|稀《まれ》な存在であり、進化の流れにてらしあわせてみると、それは一種の奇形であり、言い方をかえれば進化上の孤児といってもいいくらいなの。哺乳類に限らなくても、たとえば恐竜のことを考えても、三つの角を持った巨大恐竜がいたけれど、それはまったくの例外的な存在だったわけね。というのは角というのはきわめて集中的な武器であって、三本というのは必要ないわけ。たとえばフォークのことを考えればよくわかるんだけれど、三本の角があるとそれだけ抵抗が増えて突きさすのに手間がかかるのね。それからそのうちの一本が何か固いものにぶちあたると、力学上三本とも相手の体につきささらないという可能性も生じるわけ。
それから、これは複数の敵を相手にする場合のことなんだけれど、角をぶすりと|誰《だれ》かにつきたててそれをひっこ抜き、次の誰かに向うのに三本の角ではやりにくいのね」
「抵抗が大きいから時間がかかる」と私は言った。
「そのとおり」と言って彼女は私の胸に三本の指を突き立てた。「これが多角獣の欠点。命題その一。多角獣よりは二角獣あるいは一角獣の方が機能的である。次に一角獣の欠点ね。いや、その前に二角であることの必然性を簡単に説明しておいた方がいいかもしれないわね。二角であることの有利な点は、まず動物の体が左右対称にできていることね。あらゆる動物は左右のバランスをとることによって、つまり力を二分割することによって、その行動パターンを規定しているの。鼻だって穴はふたつあいてるし、口だって左右対称だから実質的にはちゃんとふたつにわかれて機能しているわけ。おへそはひとつだけど、あれは一種の退化器官だしね」
「ペニスは?」と私は|訊《たず》ねた。
「ペニスとヴァギナは、これはあわせて一組なの。ロールパンとソーセージみたいにね」
「なるほど」と私は言った。なるほど。
「いちばん大事なのは|眼《め》ね。攻撃も防御もこの眼をコントロール・タワーとして行われるから、その眼に密着して角がはえているというのがいちばん合理的なわけよ。いい例が|犀《さい》ね。犀は原理的には一角獣だけれど、ひどい近眼なの。犀の近眼はそれが単角であることに起因しているの。いわば片輪のようなものね。でもそういった欠点にもかかわらず犀が生きのびているのは、それが草食獣であって、硬い甲板に|覆《おお》われているからなの。だから防御の必要がほとんどないのね。そういった意味では犀は体型的に見ても三角恐竜によく似ていると言えるの。でも一角獣は絵で見るかぎり確実にその系列にはないわね。甲板に覆われてもいないし、とても……なんていうか……」
「無防備」と私は言った。
「そう。防御に関しては鹿と同じくらいね。そのうえに近眼ときたら、これは致命的よ。たとえ|嗅覚《きゅうかく》や聴覚が発達していたとしても、退路をふさがれたら手も足も出ないわね。だから一角獣を襲うのは高性能の散弾銃で飛べないあひるを撃つのと同じようなものなのよ。——それから一角であることのもうひとつの欠点は、その損傷が致命的だという点にあるのね。要するにスペア・タイヤなしでサハラ砂漠を横断するようなものなのよ。意味はわかる?」
「わかる」
「もうひとつの単角の欠点は、力を入れにくいという点にあるの。これは奥歯と前歯を比較すると理解しやすいわね。奥歯の方が前歯に比べて力を入れやすいでしょ? これはさっきもいった力のバランスの問題なの。末端が重くてそこに力が入れば入るほど総体は安定するのね。どう? これで一角獣が相当な欠陥商品であることがわかったでしょ?」
「よくわかった」と私は言った。「君はとても説明が|上《う》|手《ま》いよ」
彼女はにっこりと笑って、私の胸に指を|這《は》わせた。「でもね、それだけじゃないの。理論的に考えると、一角獣が絶滅をまぬがれて生存していける可能性がひとつだけあるの。これがいちばん重要なポイントなんだけれど、あなたにはそれがなんだかわかる?」
私は胸の上で手を組んで、一分か二分考えこんだ。でも結論はひとつしかなかった。
「天敵がいないこと」と私は言った。
「あたり」と言って、彼女は私の|唇《くちびる》にキスした。
「じゃあ、天敵がいない状況をひとつ設定してみて」と彼女は言った。
「まずその場所が隔絶されていることだね。他の動物が侵入できないこと」と私は言った。「たとえばコナン・ドイルの『失われた世界』みたいに土地が高く隆起しているか、あるいは深く陥没していること。あるいは外輪山のようにまわりを高い壁で囲まれていること」
「素晴しい」と彼女は言って、人さし指で私の心臓の上をぱちんとはじいた。「実はそういった状況の中で、一角獣の頭骨が発見された記録があるのよ」
私は思わずつばを|呑《の》みこんだ。私は知らず知らずのうちに事態の|核心《ハ ー ト》に近づきつつあるのだ。
「一九一七年のロシア戦線でそれは発見されたの。一九一七年の九月」
「十月革命の前月で、第一次世界大戦。ケレンスキー内閣」と私は言った。「ボルシェヴィキが行動を起しはじめる直前だ」
「ウクライナの戦線で一人のロシア軍の兵士が|塹《ざん》|壕《ごう》を掘っている最中にそれをみつけたの。彼はただの牛か大鹿の頭骨だと思ってそれをそのへんに|放《ほう》りだしておいた。そのまま事が済めば、そんなものは歴史の|闇《やみ》から闇へと|葬《ほうむ》られたはずなのだけれど、たまたまその部隊を指揮していた|大《たい》|尉《い》が、ペトログラード大学の生物学の大学院生だったのね。彼はその頭骨を拾いあげて営舎に持ちかえり、じっくりと調べてみたの。そしてそれが彼がこれまでに見たことのない種類の動物の頭骨であることを発見したの。彼はすぐにそれをペトログラード大学の生物学の主任教授に連絡し、調査スタッフがやってくるのを待ったんだけれど、彼らはとうとうやってこなかったの。なにしろ当時のロシアはものすごく混乱していて、食糧や弾薬や薬品もろくに前線に送れないありさまだし、あちこちでストライキが|勃《ぼっ》|発《ぱつ》しているし、とても学術調査隊が前線にたどりつけるような状態じゃなかったのね。それにもし仮にそこに彼らが|辿《たど》りつけたとしても、実地調査をしている暇はほとんどなかったと思うわ。というのはロシア軍は敗退につぐ敗退をつづけていて、前線はずるずると後退していたから、そこはすぐにドイツ軍の占領地域になっちゃったのよ」
「それで、その大尉はどうなったんだい?」
「その年の十一月に、彼は電柱に|吊《つる》されたの。ウクライナからモスクワに向けて、電信線をつなぐ電柱がずっと連なっていて、ブルジョワジー出身の将校の多くは、そこに吊されたのね。本人は政治性のかけらもないただの生物学専攻の学生だったんだけれど」
私はロシアの平原に並んだ電柱に将校が一人ずつ吊されている様を思い浮かべてみた。
「でも彼はボルシェヴィキが軍の実権を握る直前に、信用のできる後方移送の傷病兵にその頭骨をわたして、もしペトログラード大学のさる教授にそれを届けてくれたなら、かなりの額の謝礼をやると約束したのよ。でもその兵隊が軍の病院を退院して、頭骨を手にペトログラード大学を訪れることができたのは翌年の二月で、そのとき大学は一時的に閉鎖されていたの。学生は革命に明け暮れていたし、教授の多くは追放されたり亡命したりで、とても大学を開けていられるような状態にはなかったのよ。仕方ないので彼は後日金にしようと思って、その頭骨の入った箱をペトログラードで馬具屋をやっていた義兄にあずけ、自分はペトログラードから三百キロばかり離れた故郷の村に|戻《もど》ったの。でもこの男は、どんな理由からかはわからないけれど、二度とペトログラードに戻ることはできず、結局その頭骨は忘れさられたまま長いあいだその馬具屋の倉庫で眠りつづけることになったのね。
頭骨が次に|陽《ひ》の目を見たのは一九三五年のことだったの。ペトログラードはレニングラードと名前がかわり、レーニンは死に、トロツキーは追放され、スターリンが実権を握っていた。レニングラードではもう馬に乗る人なんてほとんどいなかったので、馬具屋の主人は店を半分売り払って、残った部分でホッケーの用品を売る小さな店をはじめることにしたのよ」
「ホッケー?」と私は言った。「一九三〇年代のソヴィエトでホッケーが|流《は》|行《や》ってたの?」
「私は知らないわよ。ここにそう書いてあるだけ。でもレニングラードは革命後もわりにモダンな|土《と》|地《ち》|柄《がら》だったから、みんなホッケーくらいやってたんじゃないかしら」
「そんなものかな」と私は言った。
「とにかく、それで倉庫を整理しているうちに、彼は一九一八年に義弟が置いていった箱をみつけて開いてみたの。そうするといちばん上にそのペトログラード大学の某教授あての手紙が入っていて、その手紙には『かくかくしかじかの人物がこの品を持参するので相応の謝礼をやってほしい』と書いてあったの。もちろんこの馬具屋は大学——つまり今のレニングラード大学ね——にこの箱を持っていって、その教授に面会を求めたの。でも教授はユダヤ人だったので、トロツキーの失脚と同時にシベリア送りになっていたのね。でもまあ馬具屋としては謝礼をもらう相手もいなくなってしまったわけだし、かといってわけのわからない動物の頭骨を後生大事に抱えていても一銭の得にもならないわけだから、べつの生物学の教授をみつけて事の経緯を話し、|雀《すずめ》の涙ほどの謝礼をもらってその頭骨を大学に置いて帰ってきたのよ」
「しかしまあいずれにせよ、十八年かけて頭骨はやっと大学にたどりついたわけだ」と私は言った。
「さて」と彼女は言った。「その教授は頭骨を|隅《すみ》から隅まで調べあげて、結局十八年前に若い大尉が考えたのと同じ結論——つまりこの頭骨は現存するいかなる動物の頭骨にも該当しないし、かつて存在したと想定されているいかなる動物の頭骨にも該当しないという結論に達したの。この頭骨の形状は鹿にもっとも近く、|顎《あご》の形態から草食性の|有《ゆう》|蹄《てい》|類《るい》と類推されたが、鹿よりはいくぶん|頬《ほお》がふくらんだような顔つきであったらしい。しかし鹿とのいちばん大きな違いはなんといっても、それが額のまん中に単角を有していたことなの。要するに一角獣ね」
「角がついていたということ? その頭骨に?」
「ええ、そう、角がついていたの。もちろんきちんとした角じゃなくて、角の残りね。長さが約三センチのところで角はぽっきりと折れていたが、その残った部分から推定するとそれは長さ約二十センチ程度の、レイヨウの角によく似た直線的な角であったらしい——とあるわね。基部の直径は、えーと、約二センチ」
「二センチ」と私は繰りかえした。私が老人からもらった頭骨のくぼみもちょうど直径二センチだった。
「ペロフ教授——というのがその教授の名前なんだけど——は何人かの助手と大学院生をつれてウクライナに出向き、かつて若い大尉の部隊が塹壕を掘ったあたりを一カ月かけて実地調査したの。残念ながらそれと同じ頭骨を掘りあてることはできなかったけれど、それとはべつにその地域についていろいろと興味ぶかい事実が明らかになったの。その地域は一般にヴルタフィル台地と呼ばれているところで、小高い丘のようになっていて、のっぺりとした平原の多いウクライナ西部では、数少ない天然の軍事上の要所となっているの。おかげで第一次大戦ではドイツ軍・オーストリア軍とロシア軍がここを巡って一メートル刻みの激しい白兵戦を繰りかえしたし、第二次大戦では台地の姿がかわってしまうくらいに両軍の砲撃を受けることになるんだけど、まあそれはあとの話で、そのときヴルタフィル台地がペロフ教授の興味を引いたのは、その台地から発掘された各種の動物の骨がその一帯の動物の分布状況とはかなり大幅にちがっていたという点にあるの。それで彼はその台地が、古代においては今のような台地の形をしておらず、いわば外輪山のような格好をしていて、その中に特殊な生命体系が存在していたという仮説をたてたの。つまりあなたの言う『失われた世界』ね」
「外輪山?」
「そう、まわりを険しい壁に囲まれた円形の台地。その壁が何万年という歳月を経て崩れ落ち、ごくあたりまえのなだらかな丘になったのね。そしてその中に進化の落とし子たる一角獣が天敵もなくひっそりと|棲《せい》|息《そく》していたというわけ。台地には豊富な|湧《わ》き|水《みず》もあったし、土地も|肥《ひ》|沃《よく》だったから、この仮説は理論的には成立し得るわけ。それで教授は計六十三項目にわたる動植物・地質学上の例証をあげ、一角獣の頭骨も添えて、『ヴルタフィル台地における生命体系についての考察』という題の論文をソヴィエト科学アカデミーに提出したわけ。これが一九三六年の八月のことなの」
「たぶん評判が悪かったことだろうね」と私は言った。
「そうね、ほとんど相手にもされなかったみたいね。それから具合の悪いことに、その当時モスクワ大学とレニングラード大学のあいだでは科学アカデミーの実権をめぐる争いがあって、レニングラード側はかなり旗色が悪く、そういったいわば『非弁証法的』な研究は徹底して冷や飯を食わされていたのね。でもその一角獣の頭骨の存在だけは誰にも無視することはできなかった。というのはなにしろ、仮説とはべつにちゃんとまぎれもない現物がそこに存在しているわけだものね。それで何人もの専門学者が一年がかりでその頭骨を調査したのだけれど、彼らとしても、それが作りものではなくて、まぎれもない単角動物の頭骨であるという結論を出さざるを得なかったの。結局科学アカデミー委員会は、それは進化とは無縁の単なる奇形鹿の頭骨であり、研究の対象には値いしないということで、頭骨をレニングラード大学のペロフ教授のもとに送りかえしたの。それでおしまい。
ペロフ教授はそのあとも、風向きが変って自分の研究成果が認められる時節が到来するのを待ちつづけたんだけど、一九四〇年に独ソ戦争が始まると、その希望も消え、結局一九四三年に失意のうちに|亡《な》くなってしまったの。頭骨の方も一九四一年のレニングラードの攻防戦の最中に行方不明になってしまった。なにしろレニングラード大学はドイツ軍の砲撃とソヴィエト軍の爆撃とであとかたもなく破壊されて、頭骨どころではなくなってしまったのよ。そのようにして一角獣の存在を証明できる|唯《ゆい》|一《いつ》の証拠は消滅してしまったわけ」
「じゃあ何ひとつとして確かなことはわからないわけだ」
「写真の|他《ほか》にはね」
「写真?」と私は言った。
「そう、頭骨の写真。ペロフ教授は百枚近くの頭骨の写真を撮っていたの。そしてその一部は戦災を逃がれて、今もレニングラード大学の資料館に保存されているというわけ。ほら、これがその写真」
私は彼女から本を受けとって、彼女の指さす写真に目をやった。かなり不鮮明な写真だったが、頭骨のおおよその形状はつかめた。頭骨は白い布をかぶせたテーブルの上に置かれ、そのとなりには大きさを示すために腕時計が並べられていた。そして額のまん中には白い丸が描きこまれ、角の位置を示していた。それは間違いなく私が老人から受けとったのと同じ種類の頭骨だった。角の基部が残っているかいないかだけの違いで、あとは何から何までがそっくり同じように見えた。私はTVの上の頭骨に目をやった。Tシャツをすっぽりとかぶせられた頭骨は、遠くから見るとまるで眠っている|猫《ねこ》のように見えた。私は彼女にその頭骨を私が持っていることを言おうかどうしようか迷ったが、結局は言わないことにした。秘密というのはそれを知っている人間が少ないからこそ秘密なのだ。
「その頭骨はほんとうに戦争で破壊されちゃったんだろうか?」と私は言った。
「さあ、どうでしょう」と小指の先で前髪をいじりながら彼女は言った。「その本によるとレニングラード戦は街の一区画一区画をローラーで順番につぶしていくような激しい戦闘だったし、大学のあたりは中でもいちばん被害の大きかった地区らしいから、頭骨は破壊されちゃったと見る方が妥当なんでしょうね。もちろんペロフ教授が戦闘の始まる前にそっと持ちだしてどこかに隠しちゃったのかもしれないし、ドイツ軍が戦利品としてどこかに持っていっちゃったのかもしれないし……でもいずれにせよ、それ以来その頭骨を目にした人間は一人もいないのよ」
私はもう一度その写真を見てからぱたんと本を閉じ、|枕《まくら》もとに置いた。そしていま私のもとにある頭骨がはたしてレニングラード大学に保存されていたのと同じものなのか、あるいはべつの場所で掘りだされたべつの一角獣の頭骨なのか、しばらく考えてみた。いちばん簡単なのは老人に直接|訊《き》いてみることだった。あなたはどこでこの頭骨を手に入れたのか、そして|何《な》|故《ぜ》私にプレゼントしてくれたのか、と。どうせシャフリング済みのデータを持っていくときにもう一度老人に会わなくてはならないのだし、そのときに|訊《たず》ねてみればいいのだ。それまでは何を思いわずらってみてもはじまらない。
天井を見ながらぼんやりとものを考えていると、彼女が私の胸に頭をのせ、体をぴたりとわきにつけた。私は彼女の体に手をまわして抱いた。一角獣の問題が一段落すると、私の気分も少し楽になったようだったが、ペニスの状態は好転しなかった。しかし彼女の方は私のペニスが勃起してもしなくてもどちらでもかまわないといった様子で、私のおなかの上に指先でわけのわからない図形をごそごそと描いていた。