「どうも食事をありがとう」と彼女は言った。
「どういたしまして」と私は言った。
「いつもあれくらい自分で料理を作るの?」と彼女が|訊《き》いた。
「仕事があまり忙しくなければね」と私は言った。「仕事が忙しいときは作らない。適当に残りものを食べたり、外に出て食事したりするね」
彼女はキッチンの|椅《い》|子《す》に座って、バッグから|煙草《た ば こ》を出して火をつけた。
「私はあまり自分では料理って作らないのよ。だいたいが料理ってそれほど好きじゃないし、それに七時前に家に帰って料理をいっぱい作ってそれをひとつ残らずたいらげちゃうことを思うと、考えただけで自分でもうんざりしちゃうのよ。それじゃまるで食べるためだけに生きてるようなものだと思わない?」
そうかもしれない、と私も思った。
私が服を着ているあいだに彼女はバッグから手帳をだして、ボールペンで何かを書きつけ、それをちぎって私にくれた。
「うちの電話番号」と彼女は言った。「会いたくなるか食事が余るかしたら、電話をちょうだい。すぐに来るから」
彼女が返却ぶんの|哺乳類《ほにゅうるい》に関する三冊の本を手に帰ってしまうと、部屋の中は変な具合にしん[#「しん」に丸傍点]としてしまったように感じられた。私はTVの前に立ってTシャツのカバーをとり、もう一度一角獣の頭骨を眺めた。確証というほどのものは何ひとつないのだけれど、私はそれがウクライナの戦線で薄幸の若い歩兵|大《たい》|尉《い》が掘りあてた|謎《なぞ》の頭骨そのものではないかという気になりはじめていた。見れば見るほど、その頭骨には何かしらいわく[#「いわく」に丸傍点]因縁のようなものが漂っているような気がした。もちろん話を聞いたばかりなので、そういう気がするだけのことなのかもしれない。私はたいした意味もなくステンレス・スティールの|火《ひ》|箸《ばし》で、また軽く頭骨を|叩《たた》いてみた。
それから私は食器とグラスをあつめて流しで洗い、キッチンのテーブルを|布《ふ》|巾《きん》で|拭《ふ》いた。そろそろシャッフルをはじめる時間だった。邪魔が入らないように電話を録音サービスに切りかえ、ドア・チャイムのコネクティング・コードを抜き、キッチンのライト・スタンドだけを残して家じゅうの|灯《ひ》を消した。少くとも二時間のあいだ、私は一人きりであらゆる神経をシャフリングに集中しなければならないのだ。
私のシャフリングのパスワードは〈世界の終り〉である。私は〈世界の終り〉というタイトルのきわめて個人的なドラマに基づいて、|洗いだし《ブレイン・ウオッシュ》の済んだ数値をコンピューター計算用に並べかえるわけだ。もちろんドラマといってもそれはよくTVでやっているような種類のドラマとはまったく違う。もっとそれは混乱しているし、明確な筋もない。ただ便宜的に「ドラマ」と呼んでいるだけのことだ。しかしいずれにせよそれがどのような内容のものなのかは私にはまったく教えられてはいない。私にわかっているのはこの〈世界の終り〉というタイトルだけなのだ。
このドラマを決定したのは『|組織《システム》』の科学者連中だった。私が計算士になるためトレーニングを一年にわたってこなし、最終試験をパスしたあとで、彼らは私を二週間冷凍し、そのあいだに私の脳波の|隅《すみ》から隅までを調べあげ、そこから私の意識の核ともいうべきものを抽出してそれを私のシャフリングのためのパス・ドラマと定め、そしてそれを今度は逆に私の脳の中にインプットしたのである。彼らはそのタイトルは〈世界の終り〉で、それが君のシャフリングのためのパスワードなのだ、と教えてくれた。そんなわけで、私の意識は完全な二重構造になっている。つまり全体としてのカオスとしての意識がまず存在し、その中にちょうど梅干しのタネのように、そのカオスを要約した意識の核が存在しているわけなのだ。
しかし彼らはその意識の核の内容を私に教えてはくれなかった。
「それを知ることは君には不必要なのだ」と彼らは私に説明してくれた。「|何《な》|故《ぜ》なら無意識性ほど正確なものはこの世にないからだ。ある程度の年齢——我々は用心深く計算してそれを二十八歳と設定しているわけだが——に達すると人間の意識の総体というものはまず変化しない。我々が一般に意識の変革と呼称しているものは、脳全体の働きからすればとるにたらない表層的な誤差にすぎない。だからこの〈世界の終り〉という君の意識の|核《コア》は、君が息をひきとるまで変ることなく正確に君の意識の|核《コア》として機能するのだ。ここまではわかるね?」
「わかります」と私は言った。
「あらゆる種類の理論・分析は、いわば短かい針先で西瓜を分割しようとしているようなものだ。彼らは皮にしるしをつけることはできるが、果肉にまでは永遠に到達することはできない。だからこそ我々は皮と果肉とをはっきりと分離しておく必要があるのだ。もっとも世間には皮ばかりかじって喜んでいるような変った手合もいるがね」
「要するに」と彼らはつづけた。「我々は君のパス・ドラマを永遠に君自身の意識の表層的な揺り動かしから保護しておかなくてはならんのだ。もし我々が君に〈世界の終り〉とはこうこうこういうものだと内容を教えてしまったとする。つまり西瓜の皮をむいてやるようなものだな。そうすると君は間違いなくそれをいじりまわして改変してしまうだろう。ここはこうした方が良いとか、ここにこれをつけ加えようとしたりするんだ。そしてそんなことをしてしまえば、そのパス・ドラマとしての普遍性はあっという間に消滅して、シャフリングが成立しなくなってしまう」
「だから我々は君の西瓜にぶ厚い皮を与えたわけだ」とべつの一人が言った。「君はそれをコールして呼びだすことができる。なぜならそれは要するに君自身であるわけだからな。しかし君はそれを知ることはできない。すべてはカオスの海の中で行われる。つまり君は手ぶらでカオスの海に潜り、手ぶらでそこから出てくるわけだ。私の言っていることはわかるかな?」
「わかると思います」と私は言った。
「もうひとつの問題はこういうことだ」と彼らは言った。「人は自らの意識の核を明確に知るべきだろうか[#「人は自らの意識の核を明確に知るべきだろうか」に丸傍点]?」
「わかりません」と私は答えた。
「我々にもわからない」と彼らは言った。「これはいわば科学を超えた問題だな。ロス・アラモスで原爆を開発した科学者たちがぶちあたったのと同種の問題だ」
「たぶんロス・アラモスよりはもっと重大な問題だな」と一人が言った。「経験的に言って、そう結論せざるを得ないんだ。そんなわけで、これはある意味ではきわめて危険な実験であるとも言える」
「実験?」と私は言った。
「実験」と彼らは言った。「それ以上のことを君に教えるわけにはいかないんだ。申しわけないが」
それから彼らは私にシャッフルの方法を教えてくれた。一人きりでやること、夜中にやること、満腹状態でもなく空腹状態でもないこと。そして定められた音声パターンを三回繰りかえして聴くこと。それによって私は〈世界の終り〉というドラマをコールすることができる。しかしそれがコールされると同時に私の意識はカオスの中に沈みこむ。私はそのカオスの中で数値をシャッフルする。シャッフルが終ると〈世界の終り〉のコールも解除され、私の意識もカオスの外に出る。シャッフルは完成し、私は何ひとつ記憶していない。逆シャッフルは文字どおりその逆である。逆シャッフルするためには逆シャッフル用の音声パターンを聴くのだ。
それが私の中にインプットされたプログラムだった。いわば私は無意識のトンネルのごときものに過ぎないのだ。すべては私の中を通り抜けていくだけだ。だから私はシャッフルをやるたびに、ひどく無防備で不安定な気持になる。|洗いだし《ブレイン・ウオッシュ》はべつだ。洗いだしは手間はかかるけれど、それをやっている自分に対して誇りを持つことができる。あらゆる能力をそこに集中させねばならないからだ。
それに対してシャフリング作業には誇りも能力も何もない。私は利用されているにすぎない。|誰《だれ》かが私の知らない私の意識を使って何かを私の知らないあいだに処理しているのだ。シャフリング作業に関しては、私は自分を計算士と呼ぶことさえできないような気がする。
しかしもちろん、私には好きな計算方式を選択する権利はない。私は洗いだしとシャフリングというふたつの方式についての免許を与えられていて、それを勝手に改変することは厳しく禁じられているのだ。それが気に入らなければ、計算士を廃業するしかない。私には計算士を廃業するつもりはない。『|組織《システム》』といざこざさえおこさなければ、計算士ほど個人として自由に能力を発揮できる職は|他《ほか》にないし、収入も良い。十五年働けば、あとはのんびり暮せるくらいの金をためることができる。そのために私は気の遠くなるような倍率のテストを何回にもわたって突破し、厳しいトレーニングにも耐え抜いてきたのだ。
酒の酔いはシャフリングの妨げにはならないし、どちらかといえば緊張をほぐすために適度の飲酒が|示《し》|唆《さ》されているくらいなのだが、私は私自身の主義として、シャフリングの前にはいつも体内からアルコールを抜くことにしている。とくにシャフリング方式が「凍結」されて以来もう二カ月もその作業から遠ざかっていたので、かなり注意深くそれにあたらねばならない。私は冷たいシャワーを浴び、十五分間激しい体操をし、ブラック・コーヒーを二杯飲んだ。それだけやれば大抵の酔いは消えてしまう。
それから私は金庫を開けて、転換数値をタイプした紙と小型のテープレコーダーを出して、キッチンのテーブルに並べた。そしてきちんと削った鉛筆を五本とノートを用意し、テーブルの前に座った。
まずテープをセットする。ヘッドフォンを耳にあててからテープをまわし、ディジタル式のテープ・カウンターを16まで進め、次に9に|戻《もど》し、再び26に進める。そしてそのまま十秒間ロックすると、カウンター・ナンバーが消え、そこから信号音が開始する。それ以外の操作が行われたときにはテープの音声は自動的に消滅することになっている。
テープをセットし終えると、私は右に新しいノートを置き、左に転換数値を置いた。これですべての準備は終った。部屋のドアとすべての侵入可能な窓にとりつけた警報装置は〈ON〉の赤ランプをつけていた。手違いはない。手をのばしてテープレコーダーのプレイ・スウィッチを押すと信号音が始まり、やがて生あたたかい混沌が音もなくやってきて、私を|呑《の》みこんでいった。