僕はまず夕方に西の丘の頂上にのぼって、まわりをぐるりと見まわしてみた。しかし丘は街を一望のもとに見下ろせるほど高くはなかったし、僕の視力はすっかり低下していたから、街をとり囲む壁のかたちをはっきりと見定めることは不可能だった。街のおおよその広がり方がわかるという程度のことだ。
街は広すぎもせず狭すぎもしなかった。つまり僕の想像力や認識能力を|遥《はる》かに|凌駕《りょうが》するほど広くはなく、かといって簡単に|全《ぜん》|貌《ぼう》を|把《は》|握《あく》できるほど狭くはないということだ。僕が西の丘の頂上で知り得た事実はそれだけだった。高い壁が街をぐるりととりまき、川がそれを南北に区切って流れ、夕暮の空が川を|鈍《にび》|色《いろ》に染めていた。やがて街に角笛の音が響き、獣たちの踏み鳴らすひづめの音が|泡《あわ》のようにあたりを|覆《おお》った。
結局、壁のかたちを知るためには壁に沿って歩いてみるしかなかった。しかしそれは決して楽な作業ではなかった。僕は暗く曇った日か夕方にしか外を歩くことができず、西の丘から遠く離れた場所にでかけるには相当の注意を払わねばならなかった。出かけた先で曇った空が突然晴れわたることもあれば、また逆に激しい雨が降りだすこともあった。そのために僕は毎朝大佐に空の雲ゆきを見てもらうことにした。大佐の天候に対する予想はほぼぴたりとあたった。
「天気のことくらいしか考えることはないからな」と老人はそれでも得意そうに言った。「毎日毎日雲の流れを見ておればこれくらいのことはわかるようになるさ」
しかし彼にも突然の天候の急変までは予測がつかなかったし、僕の遠出に危険がつきまとうことにはやはり変りなかった。
それに加えて壁の近くは多くの場合深い|藪《やぶ》や林や岩場になっており、簡単にそのそばに寄ったり姿を見たりすることができないようになっていたからだ。人家はすべて街の中心を流れる川に沿って集まり、その地域を一歩離れると道をみつけるのさえ困難なありさまだった。わずかに通じている踏みわけ道も途中でぷつんと途切れていたり、いばらの茂みに|呑《の》みこまれていたりして、そのたびに僕は苦労して|迂《う》|回《かい》するか、もと来た道をそのまま引き返さねばならなかった。
僕は最初に街の西端、つまり門番小屋のある西の門のあたりから調査をはじめ、ぐるりと時計まわりに街を巡ってみることにした。最初のうちその作業は予想していたよりずっと円滑に進んだ。門から北に向けての壁の近くには腰のあたりまでの丈の草が茂る|平《へい》|坦《たん》な野原がどこまでもつづき、障害というほどの障害もなく、草のあいだを縫うようにきれいな道がついていた。野原にはひばりによく似た鳥が巣を作っていて、彼らは草のあいだから飛び立ち、空をぐるぐるとまわって|餌《えさ》を捜し、またもとの場所に|戻《もど》っていった。それほど多くの数ではないけれど、獣の姿も見えた。獣たちはまるで水に浮かんでいるみたいに首と背中を草原の上にぽっかりと出して、食用になる緑の芽を捜しながら、ゆっくりと移動していた。
しばらく進んで、それから壁に沿って右に折れると南の方に崩れかけた古い兵舎が見えた。飾り気のない質素な二階建ての建物が三|棟《むね》縦に並び、そこから少し離れて、官舎よりはいくぶん小ぶりな将校用のものらしい住宅が固まって建っていた。建物と建物のあいだには樹木が配され、そのまわりを低い石壁が囲っていたが、今ではすべてが高い草に覆われ、人気はうかがえなかった。おそらく官舎にいる退役軍人たちもかつてはこの兵舎のどれかに住んでいたのだろう。そして何かの事情があって、彼らは西の丘の官舎に移動させられ、その結果兵舎は|廃《はい》|墟《きょ》となってしまったのだ。広い草原も当時は練兵場として使用されていたらしく、草のあいだのところどころに|塹《ざん》|壕《ごう》を掘ったあとがあったり、|旗《はた》|竿《ざお》を立てるための石の台があったりした。
そのままずっと東に進むと、やがて平坦な草原は終り、林がはじまった。草原の中にぽつりぽつりと|灌《かん》|木《ぼく》が姿を見せはじめ、やがてそれがはっきりとした林になった。灌木の多くは株立ちで、細い幹が互いに|絡《から》みあうようにして上にのび、ちょうど僕の肩から頭のあたりの高さで広く枝をはっていた。その下には様々な種類の下草が生え、ところどころにくすんだ色をした指先ほどの大きさの花が咲いていた。樹木が増えるに従って地面の起伏ははげしくなり、灌木にまじって何種類かの丈の高い樹木もあらわれるようになった。ときおり小さな鳥が|啼《な》きながら枝から枝へと移るほかには物音ひとつ聞こえなかった。
細い踏みわけ道を|辿《たど》っていくと、|樹《き》|々《ぎ》の生え具合はだんだん密になり、頭上が高い枝に覆われるようになった。そしてそれにつれて視界が|遮《さえぎ》られ、壁の姿を追いつづけることができなくなっていった。仕方なく、僕は南に折れる|小《こ》|径《みち》をたどって街に出て、旧橋をわたって家に戻った。
結局、秋がやってきても、僕にはきわめて|漠《ばく》|然《ぜん》とした街の輪郭しか描くことはできなかった。おおよそのところを言うと、地形は東西に長く、北の林と南の丘の部分がふっくらと南北に突きだしている。南の丘の東側の斜面はごつごつとした岩場になり、それが壁に沿って長くつづいている。街の東側には北の林に比べるとずっと荒々しく陰気な森が川をはさんで広がっていて、ここには道さえほとんどついていない。わずかに川に沿って東の門まで歩くことのできる道があり、周辺の壁の様子を見ることができた。東の門は門番の言ったようにセメントのようなものでぶ厚く塗りこめられ、|誰《だれ》もそこから出入りできないようになっていた。
東の尾根を勢いよく下ってきた川は東門のわきから壁の下をくぐって我々の前に姿をあらわし、街の中央を西に向けて一直線に流れ、旧橋のあたりに美しい|中《なか》|洲《す》をいくつか作りだしている。川には三本の橋がかかっていた。東橋と旧橋と西橋だ。旧橋がいちばん古くて大きく、そして美しい。川は西橋をくぐり抜けたあたりで急に南に折れまがり、少し東に戻るような格好で南の壁に達している。壁の手前で、川は深い谷を作って西の丘の側面に切りこんでいる。
しかし川は南の壁を抜けない。川は壁の少し手前でたまり[#「たまり」に丸傍点]を作り、そこから石灰岩でできた水底の|洞《どう》|窟《くつ》にのみこまれていく。大佐の話してくれたところによれば壁の外に広がる見わたす限りの石灰岩の荒野の下には、そんな無数の地下水脈が網の目のようにはりめぐらされているということであった。
もちろん僕の夢読みはそのあいだも休むことなくつづけられた。僕は六時に図書館の|扉《とびら》を押し、彼女と一緒に夕食をとり、それから古い夢を読んだ。
僕は一晩のあいだに五つか六つの夢を読むことができるようになっていた。僕の指は入りくんだ光の筋を要領よく辿り、そのイメージや響きをより明確に感じとることができるようになっていた。夢読みの作業の意味することはまだ理解できなかったし、また古い夢というのがいったいどのような原理で成立しているのかということさえ僕にはわからなかったが、僕の作業が満足のいくものであることは彼女の反応から見てとれた。僕の目はもう頭骨の放つ光を見ても痛むことはなく、疲れ方もずっと楽になった。僕の読み終えた頭骨を、彼女はひとつずつカウンターの上に並べた。僕が翌日の夕方図書館にやってくると、そのカウンターの上の頭骨はひとつ残らずどこかに消えていた。
「あなたはすごく上達が速いわ」と彼女は言った。「予想していたよりずっと速く作業がはかどっているみたい」
「いったい頭骨はどれくらいあるんだい?」
「すごく沢山よ。千か二千。見てみる?」
彼女は僕をカウンターの奥にある書庫に入れてくれた。書庫は学校の教室のようながらんとした広い部屋で、そこには何列にも|棚《たな》が並び、棚の上には白い獣の頭骨が見渡す限りに置かれていた。それは書庫というよりは墓所という方がぴたりときそうな|眺《なが》めだった。死者の発するひやりとした空気が部屋を静かに覆っていた。
「やれやれ」と僕は言った。「これを全部読むにはいったい何年かかるだろうね?」
「あなたはこれを全部読む必要はないのよ」と彼女は言った。「あなたはあなたの読めるだけの古い夢を読めばいいのよ。もし残ればそれは次に来た夢読みが読むわ。古い夢はそれまで眠りつづけるのよ」
「そして君はその次の夢読みの手伝いもするのかい?」
「いいえ、私が手伝うのはあなただけよ。それは決められていることなの。一人の司書は一人の夢読みの手伝いしかできないの。だからあなたが夢読みをやめたら、私もこの図書館を去るのよ」
僕は|肯《うなず》いた。理由はわからなかったが、それは僕にはごくあたりまえのことのように感じられた。我々はしばらく壁にもたれて棚に並んだ白い頭骨の列を眺めていた。
「君は南のたまり[#「たまり」に丸傍点]に行ってみたことあるかい?」と僕は|訊《たず》ねてみた。
「ええ、あるわ。ずっと昔にね。子供の|頃《ころ》に母につれられていったの。普通の人はあまりあんなところには行かないんだけれど、母はちょっと変っていたから。南のたまり[#「たまり」に丸傍点]がどうかしたの?」
「見てみたいんだ」
彼女は首を振った。「あそこはあなたが考えているよりずっと危険な場所なの。あなたはたまり[#「たまり」に丸傍点]に近づいたりするべきじゃないのよ。行く必要もないし、行ってもそれほど|面《おも》|白《しろ》いところじゃないわ。なぜあんなところに行きたがるの?」
「この土地のことを少しでもくわしく知りたいんだ。|隅《すみ》から隅までね。もし君が案内してくれないんなら、僕は自分一人でいくよ」
彼女はしばらく僕の顔を見ていたが、やがてあきらめたように小さなため息をついた。
「いいわ。あなたは言っても聞くような人じゃないようだし、とにかく一人で行かせることはできないわ。でもこのことだけはよく覚えていてね。私はあのたまり[#「たまり」に丸傍点]がとても怖いし、二度とあんなところには行きたくないと思っているのよ。あそこにはたしかに何か不自然なものがあるのよ」
「大丈夫さ」と僕は言った。「二人で一緒に行って注意していれば、怖いことなんて何もないさ」
彼女は首を振った。「あなたは見たことがないからあのたまり[#「たまり」に丸傍点]の本当の怖さを知らないのよ。あそこの水は普通の水じゃないのよ。あそこにあるのは人を呼び寄せる水なのよ。|嘘《うそ》じゃないわ」
「近くに寄らないように気をつける」と僕は約束し、彼女の手を握った。「遠くから眺めるだけでいい。一目見てみたいだけなんだ」
十一月の暗い午後、我々は昼食を済ませてから南のたまり[#「たまり」に丸傍点]に向った。川は南のたまり[#「たまり」に丸傍点]の少し前あたりから西の丘の西側をえぐるようにして深い谷を作りそのまわりには藪が密生して道を閉ざしていたので、我々は南の丘の裏側を東からまわりこむようにして進まなければならなかった。朝のあいだに雨が降ったせいで、地面を厚く覆った落ち葉が歩くたびに足もとで湿った音を立てた。途中で我々は向うから来る二頭の獣とすれちがった。彼らはその黄金色の首をゆっくりと左右に振りながら我々のわきを無表情にとおりすぎていった。
「食べ物が少なくなっているのよ」と彼女は言った。「冬が近づいていて、みんな必死に木の実を捜しているの。だからこんなところまで来るのね。ほんとうは獣たちはここまでは来ないものなの」
南の丘の斜面を離れたあたりからはもう獣の姿を見ることはなく、はっきりとした道もそこで終っていた。人影のない枯れた野原や荒れた廃屋の集落をつっきって西に進むうちに、たまり[#「たまり」に丸傍点]の水音の響きが少しずつ耳に届くようになってきた。
それは僕がこれまでに耳にしたことのあるどんな音とも違っていた。滝の音とも違うし、風のうなりとも違うし、地鳴りでもない。それは巨大な|喉《のど》から吐きだされる粗いため息に似ていた。その音はある時は低くなり、ある時は高まり、またある時は断続的に途切れ、何かにむせぶように乱れもした。
「まるで誰かにむかって何かをどなっているみたいだな」と僕は言う。
彼女は僕の方を振り向いただけで何も言わず、手袋をはめた両手で藪をかきわけながら、僕の先に立って歩きつづける。
「昔よりずっと道が悪くなってるわ」と彼女は言う。「この前に来たときはこれほどひどくなかったのよ。もう引き返した方がいいかもしれない」
「でもせっかくここまで来たんだ。進めるところまで進んでみよう」
起伏の多い藪の中を水音に導かれるように十分ばかり進んだところで、突然|眺望《ちょうぼう》が開けた。長い藪地はそこで終り、平坦な草原が川に沿って我々の前に広がっていた。右手には川が削りとった深い谷が見えた。谷を抜けた流れは川幅を広げながら藪を抜け、そして我々の立った草原へと至っていた。草原の入口近くにある最後のカーブを曲ったところから川は急に|淀《よど》みはじめ、その色を不吉なかんじのする深い青へと変えながらゆっくりと進み、先の方でまるで小動物を|呑《の》みこんだ|蛇《へび》のようにふくらんで、そこに巨大なたまり[#「たまり」に丸傍点]を作りだしていた。僕は川沿いにそのたまり[#「たまり」に丸傍点]の方へと歩いていった。
「近寄っちゃだめよ」と彼女は言って、僕の腕をそっと取った。「表面だけ見ると波ひとつなくて穏かそうだけれど、下の方ではすごい|渦《うず》をまいてるのよ。一度ひきずりこまれたら最後、二度と浮かびあがれないわよ」
「どれくらい深いのかな?」
「想像もつかないくらいよ。渦が|錐《きり》のようになって底をえぐりつづけているの。だからどんどん深くなっていくの。言いつたえでは昔は異教徒や罪人をここに投げこんだそうだけれど……」
「投げこむとどうなるのかな?」
「投げこまれた人は二度と浮かびあがってはこない。洞窟のことは聞いたでしょ? たまり[#「たまり」に丸傍点]の下には洞窟が何本も口を開けていて、そこに吸いこまれて|暗《くら》|闇《やみ》の中を永遠に|彷徨《さ ま よ》いつづけるのよ」
たまり[#「たまり」に丸傍点]から蒸気のように|湧《わ》きあがってくる巨大な息づかいがあたりを支配していた。それは地の底から響きわたる無数の死者の|苦《く》|悶《もん》の|呻《うめ》きのようでもあった。
彼女は手のひらほどの大きさの木ぎれをみつけて、たまり[#「たまり」に丸傍点]のまん中あたりをめがけて|放《ほう》り投げた。水を打った木片は五秒ばかり水面に浮かんでいたが、突然何度か小刻みに震えてから、まるで何かに足をつかまれてひきずりこまれるように水中に姿を消し、二度とは浮かびあがってこなかった。
「さっきも言ったように、底の方では強い渦がまいているのよ。これでよくわかったでしょ?」
僕たちはたまり[#「たまり」に丸傍点]から十メートルばかり離れた平原に腰を下ろし、ポケットに詰めて持ってきたパンをかじった。遠くから眺めている限り、あたりの風景は平和な静けさに|充《み》ちていた。秋の花が野原を|彩《いろど》り、木々の葉は鮮かに紅葉し、その中央に波紋ひとつない鏡のような水面のたまり[#「たまり」に丸傍点]があった。たまり[#「たまり」に丸傍点]の向うには白い石灰岩の|崖《がけ》がそそり立ち、そこに覆いかぶさるように|煉《れん》|瓦《が》の壁が黒くそびえていた。たまり[#「たまり」に丸傍点]の息づかいをのぞけば、あたりはひっそりとして、木の葉さえみじろぎひとつしなかった。
「|何《な》|故《ぜ》あなたはそんなに地図を欲しがるの?」と彼女が|訊《たず》ねた。「地図を手にしたところで、あなたは永遠にこの街を出ることはできないのよ」
そして彼女は|膝《ひざ》に落ちたパン|屑《くず》を払い、たまり[#「たまり」に丸傍点]の方に目をやった。
「あなたはこの街を出たいの?」
僕は黙って首を振る。それがノオを意味するのか、あるいは自分の心を決めかねているしるしなのか、僕にもわからない。僕にはそれさえもわからないのだ。
「わからない」と僕は言う。「僕はただこの街のことを知りたいだけなんだ。この街がどのような形をしていて、どのように成り立っていて、どこにどんな生活があるのか、僕はそれが知りたいんだ。何が僕を規定し、何が僕を揺り動かしているのかを知りたいんだ。その先に何があるのかは僕にもわからないのさ」
彼女はゆっくりと首を左右に振り、そして僕の目をのぞきこんだ。
「先はないのよ」と彼女は言う。「あなたにはわからないの? ここは正真正銘の世界の終りなのよ。私たちは永遠にここにとどまるしかないのよ」
僕は仰向けに寝転んで空を見上げる。僕が見上げることのできる空は、いつも曇った暗い空だ。朝の雨に|濡《ぬ》れた地面はひやりと湿っていたが、それでも大地の|心《ここ》|地《ち》|良《よ》い香りが僕の体のまわりを覆っていた。
何羽かの冬の鳥が羽音を立てて藪から飛び立ち、壁を越えて南の空に消えていった。鳥だけが壁を越えることができるのだ。低く垂れこめたぶ厚い雲が、すぐそこまで迫った厳しい冬を予告していた。