秋が去ってしまうとそのあとには|暫《ざん》|定《てい》|的《てき》な空白がやってきた。秋でもなく冬でもない奇妙にしんとした空白だった。獣の体を包む黄金色は徐々にその輝きを失い、まるで漂白されたような白味を増して、冬の到来の近いことを人々に告げていた。あらゆる生物とあらゆる事象が、凍りつく季節にそなえて首をすくめ、その体をこわばらせていた。冬の予感が目には見えない膜のように街を|覆《おお》っていた。風の音や草木のそよぎや、夜の静けさや人々の立てる|靴《くつ》|音《おと》さえもが何かしらの暗示を含んだように重くよそよそしくなり、秋にはやさしく心地良く感じられた|中《なか》|洲《す》の水音も、もう|僕《ぼく》の心を慰めてはくれなかった。何もかもが自らの存在を守り維持するために|殻《から》をしっかりと閉ざし、ある種の完結性を帯びはじめていた。彼らにとって冬は|他《ほか》のどんな季節とも違う特殊な季節なのだ。鳥たちの声も短かく鋭くなり、ときおりの彼らの羽ばたきだけがその冷ややかな空白を揺さぶった。
「今年の冬の寒さはおそらく格別のものになるだろうな」と老大佐は言った。「雲のかたちを見ればそれがわかるんだ。ちょっとあれを見てみなさい」
老人は僕を|窓《まど》|際《ぎわ》につれていって、北の尾根にかかった厚く暗い雲を指さした。
「いつも|今《いま》|頃《ごろ》の季節になると、あの北の尾根に冬の雲のさきぶれがやってくる。|斥《せっ》|候《こう》のようなもんだが、そのときの雲の形で我々は冬の寒さを予想することができる。のっぺりと平たい雲は温暖な冬だ。それがぶ厚くなればなるほど冬は厳しくなる。そしていちばん具合が悪いのが翼を広げた鳥のような格好をした雲だ。それが来ると、凍りつくような冬がやってくる。あの雲だ」
僕は目をすぼめるようにして北の尾根の上空を見た。ぼんやりとではあるが、老人のいう雲を認めることができた。雲は北の尾根の端から端まで達するほど左右に長く、その中央が山のように大きくふくらんでいて、たしかにそれは老人が言うように翼を広げた鳥の形をしていた。尾根を越えて飛来する不吉な灰色の巨鳥だ。
「五十年か六十年に一度の|凍《い》てつく冬だ」大佐は言った。「ところで君はコートを持っておらんだろう?」
「ええ、持っていません」と僕は言った。僕の持っているのは街に入ったときに支給されたあまり厚くない綿の上着だけだった。
老人は洋服だんすを開けて、そこから濃紺の軍用コートをひっぱり出して僕に手わたした。手にとると、コートは石のように重く、粗い羊毛が|肌《はだ》をちくちくと刺した。
「少々重いが、ないよりはましだ。君のためにこのあいだ手に入れておいたんだ。大きさがうまくあうといいが」
僕はコートの|袖《そで》に腕を通してみた。肩幅がいくぶん広く、着慣れないとよろめいてしまうほどの重みがあったが、なんとか体にはあいそうだった。それに老人が言うように、ないよりはましなのだ。僕は礼を言った。
「君はまだ地図を|描《か》いておるのかね」と老大佐は僕に|訊《たず》ねた。
「ええ」と僕は言った。「まだいくつかの部分を残しているので、できれば仕上げてしまいたいんです。せっかくここまでやったもんですから」
「地図を描くのはべつにかまわんよ。それは君の勝手だし、|誰《だれ》に迷惑をかけるというものでもないからな。しかし悪いことは言わんから、冬が来たら遠出をするのはやめなさい。人家の近くを離れてはならん。ことに今年のような寒さの厳しい冬はいくら注意してもしすぎるということはない。ここはさして広い土地というわけではないが、冬場には君の知らんような危険な場所もいっぱいあるんだ。地図を描きあげるのは春まで待ちなさい」
「わかりました」と僕は言った。「でも冬というのはいつから始まるのですか?」
「雪だ。雪の最初のひとひらが降るときが冬の始まりだ。そして中洲に積った雪が溶けて消えてしまうときが冬の終りだ」
我々は北の尾根の雲を見ながら、二人で朝のコーヒーを飲んだ。
「それから、これも大事なことだ」と老人は言った。「冬が始まったら、なるべく壁には近寄らんようにしなさい。そして森にもだ。冬にはそういった存在が強い力を持ちはじめる」
「森にはいったい何があるのですか?」
「何もないよ」と少し考えたあとで老人は言った。「何もない。少くとも私や君にとって必要なものはそこには何もない。我々にとっては森は不必要な場所なんだ」
「森の中には誰もいないのですか?」
老人はストーヴの|扉《とびら》を開けて中のほこりを払い、そこに細い|薪《まき》を何本かと石炭を入れた。
「おそらく今夜あたりからストーヴの火を入れねばならんだろう」と彼は言った。「この薪や石炭は森でとれる。それからきのこやお茶やそういった種類の食料も森でとれる。そのような意味あいでは森は我々にとって必要だ。しかしそれだけだ。それ以外には何もない」
「でもそうすると、森には石炭を掘ったり薪をあつめたり、きのこを探したりする人が生活しているということになりますね?」
「たしかにね。何人かは住んでいる。彼らは石炭や薪やきのこをとって街に供給し、我々はそのかわりに穀物や衣類を与える。そのような交換が週に一度特定の場所で特定の人間によって行われる。しかしそれ以外の交わりはない。彼らは街に寄りつかないし、我々は森には近寄らない。我々と彼らとはまったくべつの種類の存在なのだ」
「どう違うんですか?」
「あらゆる意味でだよ」と老人は言った。「おおよそ考えられ得る限りの面で、彼らと我々とは違う。しかしいいかね、彼らには興味を抱かんでほしい。彼らは危険だ。おそらく彼らは君に何らかの悪い影響を及ぼすだろう。君はなんというか、まだ定まっておらん人間だからね。それがきちんと定まるべきところに定まるまでは無用の危険には近づかん方がよろしい。森はただの森だ。君の地図にはただ〈森〉と書いておけばいいのだ。わかったかね?」
「わかりました」
「それから冬の壁はこのうえなく危険だ。冬になると壁は一層厳しく街をしめつける。我々がきちんと間違いなくその中に囲みこまれていることを確認するんだ。壁はここで起っていることを何ひとつとして見過さない。だから君はたとえどのような形にせよ、壁とかかわりを持つべきではないし、近寄ってもならん。何度も言うようだが、君はまだ定まってはおらん人間なのだ。迷いもあり、矛盾もあり、後悔もするし、弱くもある。冬は君にとっていちばん危険な季節だ」
しかし冬がやってくる前に、僕は少しなりとも森のことを探らねばならなかった。影に地図を渡す約束の時期になっていたし、彼は僕に森を調べろと命じたのだ。森さえ調べ終えれば地図は完成する。
北の尾根の雲がゆっくりとしかし確実にその翼を広げ、街の上空にはりだしてくるにつれて、太陽の光は黄金色の輝きを急速に減じていった。空は細かい灰に覆われたようにぼんやりと曇り、光は弱々しくそこに|淀《よど》んでいた。そしてそれは僕の傷つけられた目にとってはうってつけの季節だった。空がからりと晴れわたることはもうなく、吹きすさぶ風もその雲を追い払うことはできなくなっていた。
僕は川沿いの道から森に入り、道に迷うことのないように、なるべく壁伝いに歩いて森の内部を調べることにした。そうすれば森を囲む壁のかたちを地図に描きこむこともできる。
しかしそれは決して楽な探索ではなかった。途中にはまるでごっそりと地面が陥没したあとのような深く切れこんだ|溝《みぞ》があり、僕の背たけよりもずっと高く繁茂した巨大な野いちごの茂みがあった。行く手を|阻《はば》む湿地があり、いたるところに大きな|蜘《く》|蛛《も》がねばねばとした巣をはっていて、それが僕の顔や首や手にまとわりついた。ときおりまわりの茂みで何かがごそごそとうごめく音が聞こえることもあった。巨木の枝が頭上を覆い、森を海の底のような暗色に染めていた。樹木の根もとには大小さまざまの色とりどりのきのこが姿を見せ、それはまるで不気味な皮膚病の予兆のようにも見えた。
それでもひとたび壁を離れて森の奥に足を踏み入れると、そこには不思議なほどひっそりとした平和な世界が広がっていた。人の手の入っていない深い自然のもたらす大地の鮮かな息づかいがあたりに|充《み》ち、それは僕の心を静かに解きほぐしてくれた。それは僕の目には老大佐が忠告し警告してくれたような危険な場所とは映らなかった。そこには樹木と草と小さな生物がもたらす限りのない生命の循環があり、一個の石にもひとくれの土にも動かしがたい摂理のようなものが感じられた。
壁から離れて森の奥に進めば進むほど、僕のそのような印象はより強くなった。不吉な影は急速に薄れ、樹形や草の葉の色あいもどことなく穏かになり、鳥の声ものびやかに響くようだった。ところどころに開けた小さな草地にも、木々のあいだを縫うようにして流れるせせらぎにも、壁の近くの森に見られたような緊張感や暗さは感じられなかった。|何《な》|故《ぜ》それほどまでの差異が風景に生じるのかは僕にはわからなかった。それは壁がその力で森の空気を乱しているからかもしれないし、あるいはただの地形上の問題かもしれなかった。
しかしどれだけ森の奥を歩くことが心地良くとも、僕はやはり完全に壁を離れることはできなかった。森の奥は深く、一度そこに迷いこめば方向を見定めることさえ不可能だった。道もなく目じるしもない。だから僕は常に目の端に壁を|捉《とら》えられる程度の距離を維持しながら注意深く森を進んだ。森が僕にとって味方なのか敵なのかを簡単に見きわめることはできなかったし、そのやすらぎと心地良さはあるいは僕をその中に誘いこむための幻影かもしれなかった。いずれにせよ、老人が指摘したように、この街にとって僕は弱く不安定な存在なのだ。どれだけ注意してもしすぎるということはない。
おそらく森の奥に本格的に足を踏み入れなかったせいだとは思うが、僕は森に住む人々の|痕《こん》|跡《せき》をひとつとして目にすることはできなかった。足跡もなければ、人が何かに手を触れたような形跡もなかった。僕は森の中で彼らに出会うことをなかば|怖《おそ》れ、なかば期待していたが、何日歩きまわってみても彼らの存在を暗示するような出来事は何ひとつ起らなかった。彼らはたぶんもっと奥の方に暮しているのだろうと僕は推測した。それとも僕の姿を巧妙に避けているかだ。
三日めか四日めの探索の折に、ちょうど東の壁が南に向けて大きく方向を転じるあたりで、僕は|壁《かべ》|際《ぎわ》に小さな草地をみつけた。草地は折れ曲った壁にはさみこまれるようにして扇状に広がり、密生したあたりの樹木もその部分にだけは手を触れることなくささやかな空間を残していた。その一郭には壁際の風景特有の荒々しい緊張感は不思議に見受けられず、森の奥に見られたようなやすらかな|静《せい》|謐《ひつ》が漂っていた。しっとりとした丈の低い草がじゅうたんのようにやわらかく地面を覆い、頭上には奇妙な形にくっきりと切りとられた空が広がっていた。草地の一方の端にはかつてここに建築物があったことを示す石の土台のあとがいくつか残っていた。土台をひとつひとつ|辿《たど》ってみると、それがかなりきちんとした本格的な間取りの建物であることがわかった。少くとも間にあわせに造られた小屋ではない。三つの独立した部屋があり、キッチンと浴室と玄関のホールがあった。僕はそのあとを辿りながら、その建物が存在していた|頃《ころ》の様子を想像してみた。しかし誰がどのような目的でこんな森の奥に家を造り、そしてどうして|全《すべ》てをひき払ってしまったのかは、僕にはわからなかった。
台所の裏側には石造りの井戸も残っていたが、井戸の中には土がつまり、上には草が茂っていた。おそらくここを引き払った誰かがそのときに井戸も埋めてしまったのだろう。何故かはわからない。
僕は井戸のわきに腰を下ろし、古びた石の|枠《わく》にもたれて空を見上げた。北の尾根から吹く風がその空の断片を半円形に縁どる|樹《き》|々《ぎ》の枝を細かく揺らし、ざわざわという音を立てていた。湿気をはらんだ厚い雲がその空間をゆっくりと横切っていった。僕は上着の|襟《えり》を立てて、ゆったりした雲の流れを見守っていた。
建物の|廃《はい》|墟《きょ》のうしろには壁がそびえていた。森の中でこれほどまぢかに壁を目にするのははじめてのことだった。すぐ近くから見る壁は文字どおり息づいているように感じられた。東の森にぽっかりとあいた野原に座り、古井戸に背をもたせかけて風の音に耳を澄ませていると、僕は門番の言ったことばを信じることができるような気がした。もしこの世に完全なものがあるとすれば、それは壁なのだ。そしてそれはそもそもの始まりからそこに存在していたのだろう。空に雲が流れ、雨が大地に川を造りだすように。
壁はそれを一枚の地図に捉えるにはあまりにも巨大であり、その息づかいはあまりにも強烈であり、その曲線はあまりにも優美だった。そして僕はその壁の姿をスケッチブックに描き写すたびに果てのない無力感に襲われることになった。壁は|眺《なが》める角度によって信じがたいほど大きく表情を変え、その正確な|把《は》|握《あく》を困難なものにしていた。
僕は目を閉じ、少しだけ眠ることにした。鋭い風の音は|止《や》むことなくつづいていたが、樹木と壁が僕をその冷ややかな風からしっかりと守ってくれていた。眠る前に僕は僕の影のことを考えてみた。地図を彼に手渡すべきしおどきだった。もちろん細部は不正確だし、森の内部はほとんど空白に近いが、冬はもう目前に迫っていたし、冬が来ればそれ以上の探索をつづけることはどのみち不可能になる。僕はスケッチブックにおおまかに街のかたちとそこに存在するものの位置と形態を描き、それについて僕が知り得るかぎりの事実をメモしておいた。あとはそれをもとに影が何かを考えるはずだった。
門番が僕と影を会わせてくれるかどうか自信はなかったが、門番はもっと日が短かくなって影の力が弱くなれば会うことはできると約束したのだ。冬がすぐそこに近づいている今は、その条件は|充《み》たされているはずだった。
それから僕は目を閉じたまま図書館の女の子について考えてみた。しかし彼女について考えれば考えるほど、僕の中の喪失感は深まっていった。それがどこからどのようにして生じるのか、僕には見定めることはできなかったが、純粋な喪失感であることはたしかだった。僕は彼女に関する何かを見失いつつあるのだ、と僕は思った。それも絶え間なく見失いつつあるのだ。
僕は毎日彼女と顔を合わせていたが、その事実も僕の中の空白の広がりを埋めることにはならなかった。僕が図書館の一室で古い夢を読んでいるとき、彼女はたしかに僕のとなりにいる。我々は一緒に夕食をとり、温かい飲み物を飲み、それから僕は彼女を家に送る。我々は歩きながら様々な話をする。彼女は父親や二人の妹や日々の生活について語る。
しかし彼女を家まで送りとどけて別れてしまうと、僕の喪失感は彼女と会う前よりもっと深くなっているように感じられた。僕にはそのとりとめのない欠落感をどのように処理することもできなかった。その井戸はあまりにも深く、あまりにも暗く、どれほどの土もその空白を埋めることはできないのだ。
おそらくその喪失感は僕の失われた記憶とどこかで結びついているのに違いないと僕は推測した。僕の記憶が彼女の何かを求めているのに、僕自身がそれに|応《こた》えることができず、そのずれ[#「ずれ」に丸傍点]が僕の心に救いがたい空白を残していくのだろう。しかしそれは今のところ僕の手には負えない問題だった。僕自身の存在はあまりに弱く不確かなのだ。
僕は様々な込みいった思いを頭から振り払い、眠りの中に意識を沈めた。
眠りから覚めたとき、あたりの温度はおどろくほど低下していた。僕は思わず身ぶるいをし、上着をしっかりと体にあわせた。日が暮れかけているのだ。地面から立ちあがり、コートについた枯草を払っていると、雪の最初のひとひらが僕の|頬《ほお》を打った。空を見あげると雲は以前よりずっと低く垂れ、その不吉な暗みを増していた。大きなぼんやりとした形の雪片がいくつか空から風にのってゆるやかに地上に舞い下りているのが見えた。冬がやってきたのだ。
僕はそこを立ち去る前にもう一度壁の姿を眺めた。壁は雪の舞う暗く淀んだ空の下で、その|完《かん》|璧《ぺき》な姿を一層際立たせていた。僕が壁を見上げると、彼らが僕を見下ろしているように感じられた。彼らは目覚めたばかりの原初の生物のように僕の前に立ちはだかっていた。
お前はなぜここにいるのだ[#「お前はなぜここにいるのだ」に傍線]と彼らは語りかけているようだった。お前は何を求めているのだ[#「お前は何を求めているのだ」に傍線]、と。
しかし僕にはその問に答えることができなかった。冷気の中での短かい眠りが僕の体からあらゆるぬくもりを奪いとり、僕の頭に奇妙な形態のぼんやりとした混合物のようなものを|注《そそ》ぎこんでいた。それはまるで他人の体であり他人の頭であるように感じられた。何もかもが重く、そして|漠《ばく》|然《ぜん》としていた。
僕は壁になるべく目を向けないように注意しながら森を抜け、東の門へと急いだ。道は長く、そして|闇《やみ》は刻一刻と深まっていった。体からは微妙なバランスが失われていた。それで僕は途中で何度も立ちどまって息をつき、歩きつづけるための力をかきあつめ、分散した鈍い神経をひとつにまとめあげなくてはならなかった。夕暮の闇にまぎれて何かが僕の上に重くのしかかっているようにも感じられた。森の中で角笛の音を聞いたような気がしたが、いずれにせよそれはほとんど何の痕跡も残さずに僕の意識の中をすり抜けていった。
森をやっと抜けて川岸に出たとき、地表は既に深い闇に包まれていた。星も月もなく、雪まじりの風と冷ややかな水音だけがあたりを支配し、背後には風に揺れる暗い森がそびえ立っていた。それからどれほどの時間をかけて図書館に辿りつくことができたのか、僕には思いだせない。僕が覚えているのはただ川沿いの道をどこまでも歩きつづけたことだった。闇の中で柳の枝が揺れ、頭上で風がうなりをあげた。道はどれだけ歩いても終らなかった。
彼女は僕をストーヴの前に座らせ、僕の額に手をあてた。その手はひどく冷たく、そのせいで僕の頭はつららを突き立てられたように痛んだ。僕は反射的にそれを振り払おうとしたが、手は上にあがらず、無理にあげようとすると吐き気がした。
「ひどい熱だわ」と彼女は言った。「いったい今までどこで何をしていたの?」
僕はそれに対して何かを答えようとしたが、僕の意識の中からはあらゆる言葉が失われていた。彼女の言葉さえ正確には理解することができないのだ。
彼女はどこかから毛布を何枚かみつけてきて、それで僕を何重にもくるみ、ストーヴの前に寝かせてくれた。寝かせるときに彼女の髪が僕の頬に触れた。彼女を失いたくないと僕は思ったが、その思いが僕自身の意識から発したものなのかそれとも古い記憶の断片の中から浮かびあがってきたものなのかを判断することはできなかった。失われたものがあまりにも多く、僕はあまりにも疲れすぎているのだ。そんな無力感の中で、自分の意識が少しずつ失われていくのが感じられた。まるで意識だけが上昇していくのを肉体がやっとの思いでくいとめているような奇妙な分裂感が僕を襲った。そのどちらの方向に身をまかせればいいのか、僕にはわからなかった。
彼女はそのあいだずっと僕の手を握りしめていた。
「お眠りなさい」と彼女が言うのが聞こえた。それはまるで遠い闇の奥から長い時間をかけてやってきた言葉のように思えた。