私の視野が目覚し時計のあたりで結合すると、私は反射的に時計を手にとって膝の上に載せ、両手で赤と黒のボタンを押した。それから私はブザーがはじめから鳴っていなかったことに気づいた。私は眠っていたわけでもないし、したがって目覚し時計をセットしていたわけでもなく、たまたまキッチンのテーブルに目覚し時計を置いておいたというだけの話なのだ。私はシャフリングをしていたのだ。だから目覚し時計のブザーを止める必要はないのだ。
私は目覚し時計をテーブルの上に戻し、まわりを見まわした。部屋の様子は私がシャフリングをはじめる前とまったく変化してはいなかった。警報装置の赤ランプは〈ON〉を示し、テーブルの隅には空になったコーヒー・カップが置いてあった。|灰《はい》|皿《ざら》がわりに使ったガラスのコースターの上には彼女が最後に吸った|煙草《た ば こ》の|吸《すい》|殻《がら》が一本、まっすぐなまま残っていた。|銘《めい》|柄《がら》はマールボロ・ライトだった。口紅はついていない。考えてみれば、彼女は化粧というものをまるでしていなかった。
それから私は目の前にあるノートと鉛筆をチェックしてみた。きれいに削った五本のFの鉛筆のうち、二本は折れ、二本は根もとまで丸くなり、一本だけがまっさらなまま残っていた。右手の中指に長い時間書きものをした時のような軽いしびれが残っていた。シャフリングは完成していた。ノートにはぎっしりと十六ページにわたって細かい数値が書きこまれていた。
私はマニュアルにあるとおりに、洗いだし転換数値とシャフリング済み数値の項目ごとの数量をあわせてから、最初の方のリストを流しの中で焼き捨てた。ノートを安全箱に収め、テープレコーダーと一緒に金庫の中にしまった。そして居間のソファーに座ってため息をついた。これで作業の半分は終ったのだ。少くともあと一日は何もしないで済む。
私はグラスにウィスキーを指二本ぶん|注《つ》ぎ、目をつぶって二くちで飲んだ。生あたたかいアルコールが|喉《のど》をこえて食道をつたい、胃の中におさまった。やがてそのあたたかみが血管をつたって体の各部にはこばれていった。まず胸と|頬《ほお》があたたかくなり、次に手があたたかくなり、最後に足があたたかくなった。私はバスルームに行って歯を|磨《みが》き、水をコップに二杯飲み、小便をし、次にキッチンに行って鉛筆を削りなおし、筆皿にきちんと並べた。そして目覚し時計をベッドの|枕《まくら》もとに置き、電話の自動応答装置を切ってもとに戻した。時計は十一時五十七分を指していた。明日はまだ手つかずで残っている。私は急いで服を脱ぎ、パジャマに着替えてベッドにもぐりこみ、毛布を|顎《あご》の下までひっぱりあげてから枕もとのライトを消した。十二時間たっぷり眠ってやろうと私は心の中で思った。誰にも邪魔されることなく、たっぷりと十二時間眠るのだ。鳥が鳴いても、世の中の人々が電車に乗って会社にでかけても、世界のどこかで火山の大噴火があっても、イスラエルの機甲師団がどこかの中東の村を壊滅させても、とにかく眠りつづけるのだ。
それから私は計算士を引退したあとの生活について考えた。私は十分な金を|貯《た》め、それと年金とをあわせてのんびりと暮し、ギリシャ語とチェロを習うのだ。車の後部座席にチェロ・ケースをのせて山に行き、一人で心ゆくまでチェロを練習しよう。
うまくいけば山に別荘を買うこともできるかもしれない。ちゃんとしたキッチンのついた|小《こ》|綺《ぎ》|麗《れい》な山小屋。私はそこで本を読んだり、音楽を聴いたり、ヴィデオ・テープで古い映画を見たり、料理をしたりして過すのだ。料理——というところで、私は図書館のリファレンス係の髪の長い女の子のことを思いだした。彼女がそこに——その山の家に——一緒にいるのも悪くないような気がした。私が料理を作り、彼女がそれを食べるのだ。
しかし料理のことを考えているうちに、私は眠りに|陥《お》ちた。空が落ちてくるみたいに、眠りはとつぜん私の上にふりかかってきた。チェロも山小屋も料理も、みんなどこかにちりぢりに消えてしまった。私だけがあとに残って、まぐろのようにぐっすりと眠った。
誰かが私の頭にドリルで穴をあけ、そこに固い|紙《かみ》|紐《ひも》のようなものを押しこんでいた。ずいぶん長い紐らしく、紐はあとからあとから私の頭の中に送りこまれていった。私は手を振ってその紐を払いのけようとしたが、どれだけ手で払っても、紐は私の頭の中にどんどん入りこんできた。
私は体を起して手のひらで頭の両側をさすってみたが、紐はなかった。穴もあいていない。ベルが鳴っているのだ。ベルが鳴りつづけているのだ。私は目覚し時計をつかんで膝の上に載せ、両手で赤と黒のボタンを押した。しかしそれでもベルは鳴りやまなかった。電話のベルだ。時計の針は四時十八分を指していた。外はまだ暗い——ということは朝の四時十八分だ。
私はベッドから出てキッチンまで歩いていって、受話器をつかんだ。夜中に電話のベルが鳴るたびにいつも、今度こそ電話をちゃんと寝る前にベッドルームに戻しておこうと決心するのだが、すぐにそのことを忘れてしまうのだ。それでまたむこうずねをテーブルの脚だかガス・ストーヴだかにぶっつけてしまうことになるのだ。
「もしもし」と私は言った。
受話器の向うは無音だった。電話を砂の中にすっぽり埋めてしまったような完全な無音だった。
「もしもし」と私はどなった。
しかし受話器はあいかわらずしん[#「しん」に丸傍点]と静まりかえっていた。息づかいも聞こえなければ、ことりという音もしなかった。電話線をつたって私までその沈黙の中にひきずりこまれてしまいそうなほどの静けさだった。私は腹を立てて電話を切り、冷蔵庫から牛乳を出してごくごく飲み、それからまたベッドにもぐりこんだ。
次に電話のベルが鳴ったのは四時四十六分だった。私はベッドを出て同じコースを経て電話にたどりつき、受話器をとった。
「もしもし」と私は言った。
「もしもし」と女の声が言った。誰の声だかは判断できなかった。「さっきはごめんなさい。音場が乱れてるのよ。それでときどき音がすっぽり抜けちゃうのよ」と女は言った。
「音が抜ける?」
「ええ、そう」と女は言った。「音場がさっきから突然乱れはじめたの。祖父の身にきっと何かがあったのよ。ねえ、聞こえてる?」
「聞こえてる」と私は言った。私に一角獣の頭骨をくれたあの奇妙な老人の孫娘だった。ピンクのスーツを着たあの太った娘。
「祖父がずっと帰ってこないの。そして突然音場が乱れはじめたのよ。きっと何かまずいことが起ったのよ。実験室に電話をかけてみても出ないし……きっとやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]が祖父を襲って何かひどいことをしたんだわ」
「間違いないの? おじいさんが実験に熱中して帰ってこないとかその程度のことじゃないの? この前だって一週間も君の音抜きに気づかなかったじゃないか。なにしろ何かにのめりこむといろんなことを忘れちゃいそうなタイプだからね」
「違うわ。そんなのじゃないのよ。私にはちゃんとわかるの。私と祖父のあいだには何か感じあうものがあって、お互いの身に何かが起きるとそれがわかるのよ。祖父には何かがあったのよ。とてもまずいこと。それに音声バリヤーが破られているんだもの、間違いないわ。おかげで地下の音場がすっかり乱れてしまっているの」
「なんだって?」
「音声バリヤー、やみくろを寄せつけないための特殊な音を発信する装置のこと。それが暴力的に破壊されちゃったもので、あたりの音のバランスが狂いっぱなしになっているの。絶対にやみくろが祖父を襲ったんだわ」
「何のために?」
「祖父の研究をみんなが|狙《ねら》ってるのよ。やみくろとか記号士とか、そういう人たち。そういう人たちが祖父の研究を手に入れようとしていたの。彼らは祖父に取引きを申し出たんだけど、祖父がそれをはねつけたんで、それですごく腹を立ててたの。お願い、すぐここに来て。きっと悪いことが起るわ。助けて、お願い」
私はあの不気味な地下道をやみくろがわがもの顔に|徘《はい》|徊《かい》しているところを想像してみた。そんなところに今下りていくなんて、考えただけで身の毛がよだつ。
「ねえ、悪いとは思うけど|僕《ぼく》の仕事は計算をすることなんだ。それ以外の作業は契約には入っていないし、僕の手にはとても負いかねるよ。もちろん僕に役に立てることがあれば喜んでなんでもやるよ。でもやみくろと闘って君のおじいさんを取りかえしたりなんてことはできない。それは警察とか『|組織《システム》』のプロとか、そういう特殊な訓練を受けた人たちのやるべきことだよ」
「警察は問題外よ。あの人たちに頼むと何もかもが公表されちゃって大変なことになっちゃうわ。今祖父の研究が世間に公表されたら、世界が終ってしまうのよ」
「世界が終る?」
「お願い」と娘は言った。「早く来て私を助けて。でないととりかえしのつかないことになっちゃうわ。彼らが祖父の次に狙うのはあなたなのよ」
「どうして僕が狙われることになるんだい?君ならともかく僕は君のおじいさんの研究のことなんか何ひとつとして知らないじゃないか?」
「あなたはキイなのよ。あなたなしには|扉《とびら》は開かないの」
「なんのことだか理解できないな」と私は言った。
「くわしく電話で説明している暇はないわ。でもこれはとても重要なことなの。あなたが想像しているよりずっと重要なことなのよ。とにかく私を信じて。これはあなたにとって[#「あなたにとって」に丸傍点]重要なことなの。手遅れにならないうちに手を打たないともうおしまいよ。|嘘《うそ》なんかじゃないわ」
「やれやれ」と言って私は時計を見た。「とにかく君はそこを出た方がいいな。君の予想があたっているとしたらそこは危険すぎるからね」
「どこに行けばいいの?」
私は青山にあるオールナイト営業のスーパーマーケットの場所を教えた。「そこの中にあるコーヒー・スタンドで待っててくれ。五時半までには着けるから」
「私とても怖いわ。なんだかま
また音が消えた。私は何度か受話器に向ってどなってみたが、返事はなかった。沈黙が銃口から出る煙のように受話器の口からたちのぼっていた。音場が乱れているのだ。私は受話器をもとに戻し、パジャマを脱いでトレーナー・シャツと綿のズボンに着替えた。そして洗面所に行って電気かみそりで簡単に|髭《ひげ》を|剃《そ》り、顔を洗い、鏡に向って髪をとかした。寝不足のおかげで顔が安物のチーズケーキみたいにむくんでいた。私はただぐっすりと眠りたいのだ。ぐっすりと眠って元気になって、そしてごく普通のまともな生活を送りたいのだ。どうしてみんな私のことをそっとしておいてくれないのだ? 一角獣やらやみくろやらが、私といったいどんな関係があるというのだ?
私はトレーナーの上にナイロンのウィンドブレーカーを着こみ、ポケットに財布と小銭とナイフを入れた。そして少し迷ってから一角獣の頭骨を二枚のバスタオルでくるくると包んで|火《ひ》|箸《ばし》と一緒にスポーツバッグに入れ、そのわきに安全箱に入ったシャッフル済みのノートを|放《ほう》り込んだ。このアパートも決して安全ではないのだ。私の部屋のドアや金庫の|鍵《かぎ》を開けることなんてプロの手にかかればハンカチを一枚|洗《せん》|濯《たく》するくらいの時間しかかからない。
私は結局片方しか洗わなかったテニス・シューズを履き、スポーツバッグを抱えて部屋を出た。廊下には人影はなかった。私はエレベーターを避けて、階段を降りた。まだ夜明け前だったので、アパートの中は物音ひとつなく静まりかえっていた。地下の駐車場にも人の姿はなかった。
なんだか変だった。あまりにも静かすぎる。彼らはずっと私の頭骨を狙っていたのだから、見張りの一人くらいはいてもよさそうなはずなのに、それもいない。まるで私のことなんか忘れてしまったみたいなのだ。
私は車のドアを開け、助手席にバッグを置いて、エンジンのスウィッチを入れた。時刻は五時少し前だった。私はまわりに目を配りながら車を駐車場から出して青山に向った。道路はがらんとしていて、帰りを急ぐタクシーや、夜間輸送のトラックの|他《ほか》にはほとんど車の姿もなかった。私はときどきバックミラーに目をやったが、うしろをついてくる車も見あたらなかった。
ものごとの進み具合がどうもおかしい。記号士たちのやりくちなら、私はよく知っている。彼らは何かをやるつもりなら、全力を尽してとことんやるのだ。中途半端なガス屋を買収したり、狙った相手の見張りを怠ったりすることなんて、まずありえないのだ。彼らはいつもいちばん素速くいちばん正確な方法を選んで、ためらわずにそれを実行する。彼らは一度、二年前に、五人の計算士をつかまえて、電気のこぎりで|頭《ず》|蓋《がい》|骨《こつ》の上部をぜんぶすっぽりと切りとってしまったことがある。計算士たちの脳をとりだしてその中のデータを生きたまま読みとろうとしたのだ。その試みはうまくいかず、結局|脳《のう》|味《み》|噌《そ》を抜かれて額から上の頭がなくなった五人の計算士の死体が東京港に浮かぶことになった。彼らはそれくらい徹底した行動をとるのだ。何かがおかしい。
スーパーマーケットの駐車場に車を入れたのは約束の時間ぎりぎりの五時二十八分だった。東の空はほんの少しだけ白んでいた。私はバッグをかかえて店の中に入った。広い店内にはほとんど人の姿はなく、レジスターでは|縞《しま》|模《も》|様《よう》の制服を着た若い男の店員が|椅《い》|子《す》に座って売りものの週刊誌を読んでいた。年齢も職業もはっきりしない女が一人ショッピング・カートに|缶《かん》|詰《づめ》やらインスタント食品やらを山積みにして通路をうろうろしていた。私は酒類を並べてある売り場の角を曲って、コーヒー・スタンドに行った。
スタンドに並んだ一ダースばかりのストゥールの上には、彼女の姿はなかった。私はいちばん端のストゥールに座り、冷たいミルクとサンドウィッチを頼んだ。ミルクは味がよくわからないくらい冷たく、サンドウィッチはビニール・ラップしてある出来あいのもので、パンがべっとりと湿っていた。私はゆっくりと時間をかけてサンドウィッチをひとくちひとくちかじり、ちびちびとミルクを飲んだ。しばらくのあいだ私は壁にはってあるフランクフルトの観光ポスターを|眺《なが》めて暇をつぶした。季節は秋で、川辺の|樹《き》|々《ぎ》は紅葉し、|川《かわ》|面《も》を白鳥が泳ぎ、黒いコートを着て鳥打ち帽をかぶった老人が白鳥に|餌《えさ》をやっていた。古い石造りの立派な橋があり、その後方に大聖堂の塔が見えた。よく見ると、橋の両岸の入口の部分には|橋《はし》|桁《げた》を利用した石造りの小部屋のようなものがあって、小さな窓がいくつかついていた。何につかうものなのかはよくわからない。空は青く、雲は白い。川岸のベンチには沢山の人たちが座っていた。みんなコートを着こんで、多くの女性はスカーフを頭にかぶっていた。|綺《き》|麗《れい》な写真だったが、見ているだけで|肌《はだ》|寒《ざむ》くなってきた。フランクフルトの秋の風景が寒そうだというせいもあるが、高い|尖《とが》った塔を見ていると私はいつも寒気がしてくるのだ。
それで私は反対側の壁にはってある|煙草《た ば こ》のポスターに目をやった。つるりとした顔の若い男が火のついたフィルターつきの煙草を指にはさんで、ぼんやりとした目つきで斜め前方を見ていた。煙草の広告モデルはどうしていつもこういう〈何も見てない・何も考えてない〉という目つきができるのだろう。
煙草のポスターではフランクフルトのポスターを見ているときほど長く暇がつぶせなかったので、私はうしろを向いて、がらんとしたマーケットの店内を見まわした。スタンドの正面には果物の缶詰が巨大な|蟻《あり》|塚《づか》みたいに高く積みあげてあった。桃の山とグレープフルーツの山とオレンジの山が三つ並んでいる。その前には試食用のテーブルが置かれていたが、まだ夜も明けたばかりなので、試食サービスは行われてはいなかった。朝の五時四十五分から果物の缶詰を試食する人はいない。テーブルのわきには〈USA・フルーツ・フェア〉というポスターがはってあった。プールの前に白いガーデン・チェアのセットがあり、そこで女の子がフルーツの盛りあわせを食べていた。金髪でブルー・アイズで脚が長くよく日焼けした美しい娘だった。フルーツの広告写真にはいつも金髪の娘がでてくる。どれだけ長く見つめていても、目を離した次の瞬間にはどんな顔だったかまるで思いだせない——というタイプの美人だ。そういうタイプの美しさが世の中には存在する。グレープフルーツと同じで、見わけがつかないのだ。
酒類の売り場はレジスターが独立していたが、そこには店員はいなかった。まともな人間は朝食前に酒を買いに来たりはしないからだ。だからそこの一郭には客の姿もなく店員の姿もなく、|酒《さか》|瓶《びん》だけが植林されたばかりの小型の針葉樹といった格好で静かに並んでいた。ありがたいことに、このコーナーにはポスターが壁一面にはってあった。数えてみるとブランディーとバーボン・ウィスキーとウォッカが一枚ずつ、スコッチ・ウィスキーと国産のウィスキーが三枚ずつ、日本酒が二枚とビールが四枚あった。どうして酒のポスターだけがこんなに数多くあるのか、私にはよくわからない。あるいはそれは酒というものがあらゆる飲食品の中でもっとも祝祭的な性格を有しているからかもしれない。
しかし暇をつぶすにはもってこいだったので、私は端から順番にそのポスターを眺めていった。それで、その十五枚のポスターを眺めて、私にわかったことは、あらゆる酒の中ではウィスキーのオン・ザ・ロックが視覚的にいちばん美しいということだった。簡単に言えば、写真うつりが良いのだ。底の広い|大《おお》|柄《がら》なグラスにかき氷を三つか四つ放り込み、そこに|琥《こ》|珀《はく》|色《いろ》のとろりとしたウィスキーを|注《つ》ぐ。すると氷のとけた白い水がウィスキーの琥珀色に混じる前に一瞬すらりと泳ぐのだ。これはなかなか美しいものだった。気をつけてみると、ウィスキーのポスター写真の|殆《ほと》んどにはオン・ザ・ロックがうつっていた。水割りでは印象が薄いし、ストレートでは間がもたないのだろう。
もうひとつ気づいたのは、つまみのうつっているポスターがないということだった。ポスターの中で酒を飲んでいる人間は、|誰《だれ》もつまみを食べていないのだ。みんなただ、酒を飲んでいるのだ。これはたぶん、つまみがうつったりすると酒の純粋性が失われると考えられているからかもしれない。あるいはつまみが酒のイメージを固定してしまうからかもしれない。あるいはそのポスターを見る人間の注意がつまみの方にそれてしまうからかもしれない。それはなんとなくわかるような気がした。ものごとにはすべからく理由というものがあるのだ。
ポスターを眺めているうちに六時になった。が、太った娘はまだ現われなかった。|何《な》|故《ぜ》彼女がこんなに遅れているのか、私にはわからなかった。彼女はできるだけ早く来てくれと私に言ったのだ。しかし考えてどうなるという問題ではなかった。私はできるだけ早くやってきたのだ。あとは彼女自身の問題である。だいたいがそもそもこれは私にはかかわりあいのない問題なのだ。
私は熱いコーヒーを注文し、砂糖もミルクも入れずにゆっくりと飲んだ。
時計が六時をまわると少しずつ客の数も増えはじめた。朝食のパンや牛乳を買いに主婦がやってきたり、夜遊び帰りの学生が軽食を求めてやってきたりした。トイレット・ペーパーを買いにきた若い女もいれば、新聞を三種類買っていったサラリーマンもいた。ゴルフバッグをかついだ中年の男が二人でやってきて、ウィスキーのポケット瓶を買っていったりもした。中年といっても三十代半ばで、私と同じくらいの年だ。考えてみれば私だってやはり中年なのだ。ゴルフバッグをかついだり、道化服のようなゴルフウェアを着たりしないで済むぶん、多少若く見えるだけのことなのだ。
私はスーパーマーケットで彼女と待ちあわせたことを喜んだ。他の場所だと、こううまくは暇がつぶせない。私はスーパーマーケットという場所が大好きなのだ。
そこで六時半まで待ってから、私はあきらめて外に出て車に乗り、新宿駅まで行った。私は車を駐車場に入れ、バッグを抱えて荷物の一時預けのカウンターに行ってそれを預ってもらった。割れものが入ってるから丁寧に扱って下さいと言うと、係の男が〈割れもの注意〉というカクテル・グラスの絵入りの赤いカードを握りのところにつけてくれた。私はそのブルーのナイキのスポーツバッグがきちんとしかるべき|棚《たな》に収まるのを確かめてから、受けとりをもらった。次に私はキオスクに行って封筒と切手を260円ぶん買い求め、封筒に受けとりを放り込んで封をし、切手を|貼《は》り、架空の会社名義で作っておいた秘密の私書箱あてに速達で|投《とう》|函《かん》した。こうしておけば余程のことがない限り品物はみつからない。ときどき私は用心のためにこの手を使う。
封筒をポストに入れてしまうと、私は車を駐車場から出して、アパートに|戻《もど》った。これでもう盗まれて困るものは何もないと思うと、気は楽になった。アパートの駐車場に車を入れ、階段を上って部屋に戻り、シャワーを浴びてからベッドにもぐりこみ、何ごともなかったようにぐっすりと眠った。
十一時に誰かがやってきた。事のなりゆきからいって誰かがやってくる|頃《ころ》だと思っていたので、私はあまり驚かなかった。しかしその誰かは|呼《よ》び|鈴《りん》も押さずに、私の部屋の|扉《とびら》に体あたりしていた。それもただ単に体あたりと言ってすませられるような生やさしい|代《しろ》|物《もの》ではなく、ビルディング破砕用の鉄球を思いきりドアにぶっつけられたみたいに床がぐらぐらと揺れた。ひどい話だった。そんな力があるのなら、管理人をしめあげてマスター・キイを手に入れればいいのだ。私としてはマスター・キイであっさりと開けてもらった方がドアの修理代もかからないし、とてもたすかるのだ。それにこんなに大暴れされたら、このあとアパートだって追い出されかねない。
その誰かがドアに体あたりしているあいだに私はズボンをはき、トレーナーを頭からかぶり、ベルトの裏にナイフをかくし、便所に行って小便をした。そして念のために金庫を開けてテープレコーダーの非常スウィッチを押して、中のカセット・テープを消去してから、冷蔵庫をあけて缶ビールとポテト・サラダを出して昼食がわりに食べた。ヴェランダには非常用の|梯《はし》|子《ご》が置いてあるから脱出しようとすればできたのだけれど、私はとても疲れていたので、逃げまわるのが面倒になったのだ。それに逃げまわったところで、私の直面した問題は何ひとつとして解決しない。私はある種のきわめて|厄《やっ》|介《かい》な問題に直面しており——あるいは巻きこまれており——自分一人の力ではどうにもならなくなってしまっているのだ。その問題について、誰かと真剣に話しあう必要があった。
私は依頼を受けた科学者の地下実験室に行って、データ処理をした。その際に一角獣の頭骨らしきものを受けとり、家に持ちかえった。しばらくすると記号士に買収されたらしいガスの点検員がやってきて、その頭骨を盗もうとした。翌朝、依頼主の孫娘から電話があり、祖父がやみくろに襲われたのでたすけて欲しいと言ってきた。待ちあわせの場所にかけつけたが、彼女はあらわれなかった。私はふたつの重要な品物を持っているらしかった。ひとつは頭骨であり、もうひとつはシャッフル済みのデータである。私はそのふたつを新宿駅の荷物一時預り所に預けた。
わからないことだらけだった。私としては誰かから何かしらのヒントを与えてほしかった。そうしないと何が何だかわけのわからないまま、頭骨を抱えて永遠に逃げまわるということにもなりかねないのだ。
私がビールを飲み終え、ポテト・サラダを食べ終えて、ほっと一息ついた頃に、スティールのドアが爆発するような音を立てて、ばたんと内側に開き、見たこともないような巨大な男が部屋の中に入ってきた。男は派手な柄のアロハ・シャツに、ところどころに油のしみのついたカーキ色の軍隊用のズボンをはき、スキン・ダイヴィング用の足ひれくらいの大きさのある白いテニス・シューズをはいていた。頭は|坊《ぼう》|主《ず》|刈《が》りで、鼻はずんぐりとしていて、首は普通の人間の胴まわりくらいあった。|瞼《まぶた》は|鈍《にび》|色《いろ》の金属のようにぶ厚く、目は白い部分がいやに目立って、とろりとしていた。それはまるで義眼のように見えたが、よく見るとときどき黒目がちらりと動いて、それで自前の目であることがわかった。身長は一九五センチはあるだろう。肩幅は広く、シーツをふたつに折ってそのまま身にまとったような巨大なアロハ・シャツも、胸のあたりでボタンがはじけとびそうなほど窮屈にはりつめていた。
大男は自分の破壊したドアを、ちょうど私が抜いたワインのコルク|栓《せん》を眺めるのと同じような目つきでちらりと眺め、それから私の方を向いた。彼は私という人間に対してそれほどこみいった種類の感情は抱いていないように見えた。彼は私のことを部屋の備品か何かのように眺めていた。私だってできることならほんとうに部屋の備品になってしまいたいくらいだった。
大男が体をわきに寄せると、うしろに小さな男の姿が見えた。男の身長は一五〇センチ足らずで、やせていて、整った顔だちをしていた。ライト・ブルーのラコステのポロシャツにベージュのチノ・パンツをはき、淡い茶色の|皮《かわ》|靴《ぐつ》をはいていた。おおかたどこかの高級子供服店で買ってきたのだろう。腕には金色のローレックスの時計が光っていたが、もちろん子供用のローレックスというのはないので、それは必要以上に大きく見えた。『スタートレック』か何かそういうのに出てくる通信装置みたいだ。年は三十代後半か四十代のはじめといったところだった。身長があと二十センチもあれば二枚目のTV俳優として十分通用しそうに思えた。
大男は土足のままキッチンに上ってきて、テーブルの私の向い側にまわり、|椅《い》|子《す》を引いた。ちびがあとからゆっくりとやってきて、そこに座った。大男は流しに腰をかけて胸の前で普通の人間のふとももくらいはある腕をしっかりと組み、光の乏しい目を私の背中の|腎《じん》|臓《ぞう》の少し上あたりに|据《す》えた。私はやはり非常梯子を使ってヴェランダから逃げるべきだったのだ。ここのところ、私の判断力にはかなりのミスが目立っていた。一度ガソリン・スタンドにいってボンネットをあけて見てもらった方がいいかもしれない。
ちびは私の顔もろくに見ず、あいさつもしなかった。彼はポケットから煙草の箱とライターをとりだして、テーブルの上に並べた。煙草はベンソン&ヘッジスで、ライターは金色のデュポンだった。そういうのを見ていると、貿易不均衡というのはおそらく外国政府がでっちあげたデマに違いないと私には思えた。彼はライターを二本の指にはさんでくるくると器用にまわした。自宅訪問サーカスみたいだったが、そんなものを注文した覚えはもちろん私にはない。
私は冷蔵庫の上を探してずっと前に酒屋でもらったバドワイザーのマーク入りの|灰《はい》|皿《ざら》をみつけ、ほこりを指で|拭《ふ》いて男の前に置いた。男は短かく歯切れの良い音を立てて煙草に火をつけ、目を細めて煙を宙に吐きだした。彼の体の小ささにはどことなく奇妙なところがあった。顔も手も脚もまんべんなく小さいのだ。それはまるで普通の人間の体をそのまま縮小コピーしたような体型だった。おかげでベンソン&ヘッジスは新品の色鉛筆くらいの大きさに見えた。
ちびは一言も口をきかずに、煙草の先端が燃えていくのをじっと見つめていた。ジャン・リュック・ゴダールの映画ならここで「彼は煙草が燃えていくのを眺める」という字幕が入るところだが、幸か不幸かジャン・リュック・ゴダールの映画はすっかり時代遅れになってしまっていた。煙草の先端が十分な量の灰と化してしまうと、彼は指でとんとんとそれを|叩《たた》いてテーブルの上に落とした。灰皿には見向きもしなかった。
「ドアのことだけど」とよくとおるピッチの高い声でちびは言った。「あれは壊す必要があったんだ。だから壊した。おとなしく鍵をあけようとすればあけることもできたんだけれど、そういうわけだからまあ悪く思わんでほしい」
「うちの中には何もないよ。探せばわかると思うけど」と私は言った。
「探す?」と小男はびっくりしたように言った。「探す?」彼は煙草を口にくわえたまま手のひらをぽりぽりと|掻《か》いた。「探すって、何を探すの?」
「さあ、何かわからないけど何かを探しにきたんじゃないの? ドアを打ち壊して」
「あんたの言ってることはどうもよくわからんな」と男は言った。「あんたきっと誤解してるよ、何か。べつに何もほしいものないよ。あんたと話をしにきたんだ。それだけさ。何も探さないし、何もほしくない。もしコカコーラがあれば、コカコーラが飲みたいけど」
私は冷蔵庫を開けて、ウィスキーを割るために買っておいたコーラの缶をふたつ出し、グラスと一緒にテーブルにおいた。それから自分のためにエビス・ビールの缶を出した。
「彼も飲むんじゃないのかな」と私はうしろの大男を指さして言った。
ちびが指を曲げて呼ぶと大男が音もなくやってきて、テーブルの上のコーラの缶をとった。大柄なわりには驚くほど身のこなしが軽い。
「飲み終ったらあれ[#「あれ」に丸傍点]をやって」とちびが大男に言った。それから私に向って「余興」と手短かに言った。
私はうしろを向いて大男がたったのひとくちでコーラを飲み干してしまうのを|眺《なが》めた。男は飲み終えると缶をさかさにして中身が一滴も残っていないことをたしかめてから、その手のひらのあいだにはさみ、顔色ひとつ変えずにぺしゃんこに押しつぶしてしまった。くしゃくしゃという新聞紙が風に吹かれたような音がして、コカコーラの赤い缶はただの一枚の金属片に変ってしまった。
「これはまあ誰にでもできる」とちびは言った。誰にでもできるのかもしれないが、私にはできない。
大男は次にそののっぺりとした金属片を両手の指でつまみ、|唇《くちびる》をほんのわずかに|歪《ゆが》めただけで、きれいに縦に裂いてしまった。電話帳をふたつに裂くのは一度見たことがあるけれど、ぺしゃんこになったコーラの缶を裂くのを目にするのははじめてだった。試してみたことはないからよくわからないけれど、たぶん大変なことなのだろう。
「百円硬貨だって曲げることができるんだ。そんなことができる人間はあまりいない」と小男は言った。
私は|肯《うなず》いて同意した。
「耳だってちぎりとれる」
私は肯いて同意した。
「三年前まではプロレスラーだったんだ」とちびは言った。「なかなか良い選手だったね。|膝《ひざ》を痛めなきゃチャンピオン・クラスまではいっただろうね。若いし、実力もあったし、見かけのわりに足も速かった。しかし膝を痛めちゃもうだめだ。レスリングはスピードがなくちゃやっていけないものな」
男がそこで私の顔を見たので、私は肯いて同意した。
「それ以来|俺《おれ》が面倒みてるんだ。なにしろ俺の|従弟《い と こ》なもんでね」
「あまり中間的な体型を産出しない家系なのかな?」と私は言った。
「もう一度言ってみろ」とちびが言って、私の目をじっとのぞきこんだ。
「なんでもないよ」と私は言った。
ちびはしばらくどうしようかと迷っているようだったが、やがてあきらめて|煙草《た ば こ》を床に捨て、靴の底で踏んで消した。それに対しては私は文句を言わないことにした。
「あんたもっとリラックスしなきゃだめだよ。心を開いて、ゆったりとした気分になるんだ。リラックスしなきゃ腹をわった話ができないよ」とちびは言った。「まだ肩に余分な力が入ってる」
「冷蔵庫から新しいビール出していいかな?」
「いいよ、もちろん。だってあんたの部屋であんたの冷蔵庫であんたのビールじゃない?」
「|僕《ぼく》のドア」と私は言った。
「ドアのことは忘れなよ。そんなこと考えるから肩に力が入るんだ。安っぽいちゃちなドアじゃないか。給料がいいんだからもう少しましなドアのついたところに引越せばいいのに」
私はドアのことはあきらめて冷蔵庫から缶ビールを出して飲んだ。ちびはグラスにコーラを注ぎ、|泡《あわ》がしずまるのを待ってから半分飲んだ。
「まああまりあんたを混乱させても申しわけないからはじめに説明するけれど、我々はあんたを助けるためにやってきたんだ」
「ドアを叩き壊して?」
私がそう言うと、ちびの顔が急激に赤くなり鼻孔が固く膨んだ。
「ドアのことはもう思いだすなって言ったよな?」と彼はとても静かに言った。それから大男に向って同じ質問を繰りかえした。大男はそうだというように肯いた。とても気の短かい男であるようだった。私は気の短かい人間を相手にするのはあまり好きではない。
「我々は好意でここに来たんだ」とちびは言った。「あんたが混乱しているから、いろいろと教えにきたんだ。まあ混乱しているという言い方が悪きゃとまどっていると言いなおしてもいい。違う?」
「混乱し、とまどっている」と私は言った。「何の知識もなく、何のヒントもなく、ドアの一枚もない」
ちびはテーブルの上の金色のライターをつかむと椅子に腰を下ろしたままそれを冷蔵庫の|扉《とびら》に向って投げつけた。鈍い不吉な音がして、私の冷蔵庫の扉にはっきりとしたくぼみがついた。大男が床に落ちたライターを拾ってもとに戻した。すべてがもとの状態に復し、冷蔵庫の扉についた傷だけが残った。ちびは気持をしずめるようにコーラの残りを飲んだ。私は気の短かい人間を相手にすると、その気の短かさを少しずつ試してみたくなるのだ。
「だいたいあんな下らないドアの一枚や二枚なんだっていうんだ。事態の重要さを考えてみろ。このアパートごと爆破したっていいくらいなんだ。もう二度とドアのことなんか言うな」
僕のドア、と私は心の中で言った。ドアが安っぽいかどうかなんて問題じゃない。ドアというのはひとつの象徴なのだ。
「ドアのことはいいけどね、こういうことがあるとこのアパートを追い出されかねないんだ。なにしろまともな人ばかり住んでいる静かなアパートだからね」と私は言った。
「もし|誰《だれ》かがあんたに何か言って追い出そうとしたら俺のところに電話しなよ。そしたら俺が手をまわしてじっくりとそいつを締めあげてやるからさ。それでいいだろ。迷惑かけないよ」
そんなことをしたら余計に面倒なことになりそうな気がしたが、これ以上相手を刺激したくなかったので、私は黙って肯いて、またビールを飲んだ。
「余計な忠告かもしれんが、三十五を過ぎたらビールを飲む習慣はなくした方がいいぜ」とちびが言った。「ビールなんてものは学生か肉体労働者の飲むもんだ。腹も出るし、品性がない。ある程度の年になると、ワインとかブランディーとかが体に良いんだ。小便の出すぎるやつは体の代謝機能を損なう。よした方がいい。もっと高い酒を飲めよ。一本二万円くらいするワインを毎日飲んでるとさ、体が洗われるような気がするもんだぜ」
私は肯いてビールを飲んだ。余計なお世話だ。好きなだけビールを飲むために、私はプールに通ったりランニングをしたりして腹の肉をそぎおとしているのだ。
「でもまあ俺も人のことは言えない」とちびは言った。「誰にでも弱みというものはある。俺の場合は煙草と甘いものだな。とくに甘いものには目がなくてね、これは歯にも悪いし、糖尿病の原因にもなる」
私は肯いて同意した。
男は煙草をまた一本とりだして、ライターで火をつけた。
「俺はチョコレート工場の横で育ったんだよ。それでたぶん甘いもの好きになっちまったんだろうね。チョコレート工場といってもさ、森永とか明治とか、ああいう大きいのじゃなくてさ、小さな名もない町工場でさ、ほら|駄《だ》|菓《が》|子《し》|屋《や》とかスーパーマーケットのバーゲンとかで売っているような、ああいうゴツゴツした素気ないやつを造るところなんだ。それでなにしろ、毎日毎日チョコレートの|匂《にお》いがするんだな。いろんなものにチョコレートの匂いが|染《し》みついちまうんだ。カーテンとか|枕《まくら》とか|猫《ねこ》とか、そういうあらゆるものにさ。だからチョコレートは今でも好きだよ。チョコレートの匂いをかぐと子供の|頃《ころ》のこと思いだすんだ」
男はローレックスの文字盤にちらりと目をやった。私はもう一度ドアの話を持ちだしてみようかとも思ったが、話が長くなりそうだったのでやめた。
「さて」とちびは言った。「時間があまりないんで世間話はこれくらいにしよう。少しはリラックスした?」
「少し」と私は言った。
「さて、本題に入ろう」と小男が言った。「さっきも言ったように、俺がここに来た目的はあんたのとまどいを少しなりともときほぐすことにある。だからわからないことがあったら何なりと質問してみてくれ。答えられることは答える」
それからちびは私に向って〈さあさあ〉という風に手まねきした。「何でも|訊《き》いてみて」
「まず、あんたたちが何もので、どこまで事態を|把《は》|握《あく》しているかというところを知りたいね」と私は言った。
「良い質問」と彼は言って、同意を求めるように大男の方に目をやり、大男が肯くとまた私の方に目を戻した。「いざとなれば頭が切れる。無駄にしゃべらない」
ちびは煙草の灰を灰皿に落とした。
「こう考えてもらおう。私はあんたを助けるためにここに来ている。今のところどこの組織に属しているかは関係ない。それから、我々は事態のおおよそを把握している。博士のこと、頭骨のこと、シャフリング・データのこと、だいたいは知っている。あんたの知らないことも知っている。——次の質問は?」
「昨日の午後、ガスの点検員を買収して頭骨を盗みに来た?」
「それはさっき言ったよ」と男は言った。「我々は頭骨なんて欲しくない。我々は何も欲しくない」
「じゃあ、あれは誰なんだろう? ガス屋を買収したのは? それともあれはまぼろしだったのだろうか?」
「そんなことは我々は知らんよ」とちびは言った。「我々の知らんことはまだ|他《ほか》にもある。博士が今進めている実験のことだ。彼がやっていることは逐一把握している。しかしそれがどこに向っているかがわからん。それを知りたい」
「僕にだってわからない」と私は言った。「わからないのに迷惑ばかりかけられている」
「それはよく知ってるよ。あんたは何も知らない。利用されているだけだ」
「じゃあ僕のところに来たって得るものは何もないよ」
「ただのあいさつさ」とちびは言って、ライターの角で机をコンコンと叩いた。「存在を知らせておいた方がいいと思ってね。それからお互いに知識や見解を一応|揃《そろ》えておいた方が今後なにかとやりやすい」
「想像していいかな?」
「いいとも。想像というのは鳥のように自由で、海のように広いものだ。誰にもそれをとめることはできない」
「君たちは『|組織《システム》』の人間でも『|工場《ファクトリー》』の人間でもない。やりくちがどちらとも違う。たぶん独立した小さな組織だ。そして新しいシェアを|狙《ねら》っている。たぶん『|工場《ファクトリー》』の方に食いこもうとしているんだと思うけれどね」
「ほら見ろ」とちびは従弟の大男に言った。「さっき言っただろ? 頭が切れるってさ」
大男は肯いた。
「こんな安っぽい部屋に住んでいるのが不思議なくらい頭が切れる。|女房《にょうぼう》に逃げられるのが不思議なくらい頭が切れる」とちびは言った。そんなに|賞《ほ》められたのは私としてもとても久しぶりのことだった。顔が赤くなる。
「あんたの推測はだいたいのところあっている」と男はつづけた。「俺たちは博士の開発した新しい方式を手に入れてこの情報戦争の中をのしあがる。それだけの準備もあるし、資金もある。そのためにはあんたという人間とそれから博士の研究を手に入れたいんだ。そうすれば俺たちは『|組織《システム》』と『|工場《ファクトリー》』の二極構造を根本からひっくりかえせるんだ。そこが情報戦争の良いところさ。とても平等なんだ。新しい優れたシステムを手に入れた側が勝つんだ。それも決定的に勝つ。実績も何も関係ない。それに今の状況は明らかに不自然だ。まるっきりの独占状態じゃないか。情報の|陽《ひ》のあたる部分を『|組織《システム》』が独占し、陰の部分を『|工場《ファクトリー》』が独占している。競争というものがない。これはどう考えても自由主義経済の法則にもとっている。どう、不自然だと思わない?」
「僕には関係ないな」と私は言った。「僕のような末端は|蟻《あり》のように働くだけだ。その他には何も考えない。だからもし君たちが僕を仲間に加えたいと思ってここに来たのなら——」
「あんたはわかってないようだな」とちびは舌打ちして言った。「俺たちはあんたを仲間に入れようなんて思ってない。ただあんたを手に入れたいって言っただけさ。次の質問は?」
「やみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]について知りたい」と私は言った。
「やみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]は地下に生きるものだ。地下鉄とか下水道とか、そういうところに住みついて、都市の残りものを食べ、汚水を飲んで生きている。人間とまじわることは|殆《ほと》んどない。だからやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]の存在を知るものは少ない。人間に危害を加えることはまずないが、たまには一人で地下にまぎれこんできた人間をつかまえて肉を食べることもある。地下鉄工事で、作業員がときどき行方不明になることがあるな」
「政府は知らないの?」
「政府はもちろん知ってるよ。国家というのはそれほど|馬《ば》|鹿《か》じゃない。連中はちゃんと知ってるよ——といってもほんのトップクラスに限られているけどね」
「じゃあどうしてみんなに注意するか、駆りたてるかしないんだろう?」
「まず第一に」と男は言った。「国民に知らせると大パニックが起きる。そうだろ? 足もとにそういうわけのわからない|輩《やから》がうようよしているとなると、みんな良い気はしないものな。第二に、退治するにもしようがないんだ。自衛隊だって東京じゅうの地下にもぐってやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]を一匹残らず殺すなんてことはまずできない。|暗《くら》|闇《やみ》は|奴《やつ》らのホーム・グラウンドなんだ。そんなことしたら大戦争になっちまうさ。
それから、こういうこともあるんだ。奴らは皇居の下にすごい巣を持っていてね、ひとたび何かがあると、夜中に地面を掘って地上に|這《は》いあがってくるのさ。そして上にいる連中を地底にひきずりこむことだってできる。そんなことされたら日本は無茶苦茶になっちまう。そうだろ? だから政府はやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]と事を構えずに、そっと|放《ほう》っておいているんだ。それに、奴らと手を組めば逆に巨大な力を手中に収めることになる。クーデターが起きても戦争が起きても、やみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]と手を結んでいれば絶対に負けない。たとえ核戦争になっても、奴らは生き残れるからね。しかし今のところ、誰もやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]と手を結んではいない。なにしろ奴らはひどく疑ぐり深くて、地上の人間とは絶対に交わろうとはしないからな」
「でも記号士とやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]が手を結んだという話を耳にしたな」と私は言った。
「そういう|噂《うわさ》もあるにはある。しかしもしそういうことがあったとしても、それはごく一部のやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]が何かの理由で一時的に記号士にとりこまれただけで、それ以上の意味はないだろうな。恒久的に記号士とやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]が同盟を結ぶなんてことはまず考えられないな。気にするほどのこともなかろう」
「しかし博士がやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]に|誘《ゆう》|拐《かい》されたんだぜ」
「そういう話もたしかに耳にした。しかしくわしいことは我々にもわからない。博士が姿をくらますために一芝居打ったという可能性も考えられないではない。何しろ|三《み》つ|巴《どもえ》四つ巴という状況だからな、何が起っても不思議はないさ」
「博士は何をしようとしていたんだろう?」
「博士は特殊な研究をしていたんだよ」と男は言って、ライターをいろんな角度から|眺《なが》めた。「計算士の組織とも記号士の組織とも|拮《きっ》|抗《こう》する立場から、独自の研究を押しすすめてたんだ。記号士は計算士をだし抜こうとするし、計算士は記号士を排除しようとする。博士はその|間《かん》|隙《げき》を縫って世界の仕組そのものがひっくりかえるような研究をつづけていたのさ。そしてそれにはあんたが必要だったんだな。それも計算士としてのあんたの能力ではなくて、あんたという一人の人間がね」
「僕が?」と私は驚いて言った。「どうして僕が必要なんだ? 僕には何の特殊能力もないし、とても平凡な人間だよ。世界の転覆に加担できるとはどうしても思えないんだけれどね」
「我々もその答を探っている」とちびは手の中でライターをこねくりまわしながら言った。「察しはつけているが、明確な答ではない。とにかく彼はあんたに焦点をしぼりこんで研究を進めていた。長い期間にわたって最終ステップへの準備が整えられてきたんだ。あんた自身の知らないうちにね」
「そして君たちはその最終ステップが終ってから、僕とその研究を手に入れようとしていた」
「まあそうだ」とちびは言った。「ところがだんだん雲ゆきが怪しくなってきた。『|工場《ファクトリー》』が何かを|嗅《か》ぎつけて動きはじめた。それで我々としても動きはじめざるを得なくなった。困ったことさ」
「『|組織《システム》』はそのことを知っているのかい?」
「いや、まだ気づいてはいないだろう。もっとも博士の周辺にある程度目を光らせていることはたしかだがね」
「博士は何ものなんだろう?」
「博士は『|組織《システム》』の中で何年か働いていた。もちろん働いていたといってもあんたのような実務レベルではなくて、中央研究室にいたのさ。専門は——」
「『|組織《システム》』?」と私は言った。話がだんだん込みいってくる。話題の中心にいるにもかかわらず、私だけが何も知らないのだ。
「そう、だから博士はかつてのあんたの同僚ということになるね」と小男は言った。「顔をあわすようなことはまずなかっただろうけど、同じ組織の中にいたという点をとればね。もっとも組織とはいっても計算士の組織というのはあまりにも範囲が広くて複雑で、しかもおそろしいまでの秘密主義ときてるから、何がどこでどうなってるかなんて、ほんの一握りのトップにしかわからないんだ。要するに右手が何やってるのか左手にもわからないし、右目と左目が違うものを見てるって有様さ。ひとことでいえば情報が多すぎて、もう誰の手にも負いきれなくなっちまったってことだな。記号士がそれを盗みとろうとし、計算士がそれを守ろうとする。でもどちらの側が組織を|拡《ひろ》げたって、もうこの情報の|洪《こう》|水《ずい》を把握することなんて誰にもできやしないのさ。
それでとにかく、博士は思うところあって計算士の組織を辞めて、自分の研究に没頭することになった。彼の専門は多岐に及ぶ。大脳生理学・生物学・骨相学・心理学——と人間の意識を規定するものについての研究なら、彼はどの分野でもトップクラスで通用するだろうね。この時代には|稀《まれ》なルネッサンス的天才学者といってもよかろうな」
そういう人物に対して洗いだしやシャフリングの説明をしたのかと思うと、私はなんだか自分が情けなくなってきた。
「今ある計算士の計算システムを|創《つく》りあげたのは殆んど彼ひとりの功績と言っても言いすぎじゃないくらいなんだ。あんたたちは要するに、彼の創出したノウハウをつめこまれた働き|蜂《ばち》のようなものなのさ」と小男は言った。「こういう表現はまずいかな?」
「いや、べつに御遠慮なく」と私は言った。
「さて、博士は辞めた。博士が辞めると、もちろん記号士の組織がスカウトに来た。ドロップアウトした計算士はだいたいが記号士になるからね。しかし博士はその誘いを断った。自分には独自にやらなければならない研究があるからと言ってね。そんな具合に、博士は計算士にとっても記号士にとっても共通の敵となってしまった。というのは、計算士組織にとって彼は秘密を知りすぎた人物だし、記号士組織にとっては敵の一員ということになるからね。連中にとっては自分の側じゃないものは|即《すなわ》ち敵、ということになるんだな。博士の方もそれはよくわかっているから、やみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]の巣のすぐ近くに実験室を作った。実験室には行ったよな?」
私は|肯《うなず》いた。
「実にうまい考えだよ。誰もあの実験室には近づけない。なにしろあたりにはやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]がうようよしてるし、計算士組織も記号士組織もやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]には勝てないものな。本人が|往《ゆ》き|来《き》するときにはやみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]の|嫌《いや》がる音波を出すんだ。するとモーゼが紅海をわたった時みたいに、やみくろ[#「やみくろ」に丸傍点]がさっといなくなっちまうんだ。|完《かん》|璧《ぺき》な防御システムだね。あの娘をべつにすれば、実験室に入れてもらえたのはあんたがはじめてだよ、たぶん。つまりそれだけあんたの存在が重要だったということになるな。どう見ても、博士の研究はいよいよ大詰をむかえていて、それを完成させるためにあんたを呼びよせたってことになる」
「ふうん」と私はうなった。生まれてこのかた自分の存在がそんなに重要な意味を持ったことなんて一度としてなかった。自分が重要な存在であるというのは、どうも奇妙なものだった。うまくなじめない。「とすると」と私は言った。「私が処理したあの博士の実験データは私を呼び寄せるための|餌《えさ》であって、実質的には何の価値もないものだったということになるね。博士の目的が|僕《ぼく》を呼びよせることにあったとすると」
「いや、それがそうじゃないんだ」と小男は言った。それからまたちらりと腕時計に目をやった。「あのデータは綿密に作りあげられたプログラムなんだ。時限爆弾みたいなもんさ。時間がくればどかん[#「どかん」に丸傍点]と爆発する。もちろんこれも単なる想像であって、正確なところは我々にもわからん。博士に直接|訊《き》いてみないことにはわからんよ。えーと、だんだん時間が少なくなってきたんで、このあたりで話しあいをそろそろおひらきにしたいんだが、どんなものだろう? このあとにちょっと予定があるもんでね」
「博士の孫娘はどうなった?」
「あの子がどうかしたのかい?」とちびが不思議そうに言った。「俺たちは何も知らんよ。なかなか何もかもを見張ってるというわけにもいかなくてさ。あの子に気でもあるのか?」
「ない」と私は言った。たぶんないと思う。
ちびは私の顔から目をそらさずに|椅《い》|子《す》から立ちあがり、テーブルの上のライターと|煙草《た ば こ》をとってズボンのポケットに入れた。「だいたいのお互いの立場はあんたにもわかってもらえたと思う。もう少し補足するとだな、俺たちは今ひとつのプランを持っている。つまりだな、俺たちは今のところ記号士よりは状況の詳しい情報を握って、レースの一歩先を走っている。しかし俺たちの組織力は『|工場《ファクトリー》』に比べるとずっと弱い。彼らが本腰を入れれば、俺たちはたぶん追い抜かれ、|叩《たた》き|潰《つぶ》されるだろう。だからそうなる前に俺たちとしては記号士たちを|牽《けん》|制《せい》しなくちゃならん。このへんの話の筋はわかるな?」
「わかる」と私は言った。よくわかる。
「しかし俺たちの力ではそれができない。するとだ、|誰《だれ》かの力を借りなければならんことになる。あんたなら誰の力を借りるね?」
「『|組織《システム》』」と私は言った。
「ほら見ろ」とちびはまた大男に言った。「頭が切れるって言ったよな」それから彼はまた私の顔を見た。「しかしそれには餌がいる。餌がなきゃ誰も食いついてこない。あんたを餌にする」
「あまり気がすすまないな」と私は言った。
「気が進む進まないの問題じゃない」と男は言った。「俺たちだって必死なんだ。そこで今度はこちらからひとつ質問があるんだが——この部屋の中で、あんたがいちばん大事にしているものは何だろう?」
「何もないよ」と私は言った。「大事なものなんか何もない。みんな安物だしね」
「それはよくわかる。しかし何かひとつくらい壊してほしくないってものはあるだろう?いくら安物だといっても、あんたはここで生活しているわけだしさ」
「壊す?」と私はびっくりして訊いた。「壊すって、どういうこと?」
「壊すって……ただ単に壊すんだよ。あのドアみたいにさ」と言って小男はねじまがって|蝶番《ちょうつがい》の吹きとんだ入口のドアを指さした。「破壊のための破壊だよ。みんなぐしゃぐしゃに潰しちゃうんだ」
「何のために?」
「ひとくちでは説明できないし、それに説明したってしなくったって、壊すことには変りないさ。だからさ、壊してほしくないものをちゃんと言いなよ。悪いようにはしないからさ」
「ヴィデオ・デッキ」と私はあきらめて言った。「モニターTV、このふたつは高いし、それに買ったばかりだから。それから|戸《と》|棚《だな》に入ってるウィスキーのストック」
「|他《ほか》には?」
「皮ジャンパーと新しく作ったスリーピース・スーツ。ジャンパーはアメリカ空軍のボマー・タイプで|襟《えり》に毛のついたやつ」
「他には?」
私は他に何か大事なものはないかとしばらく考えてみた。何もなかった。私は家の中に大事なものを|貯《た》めこむというタイプではないのだ。
「それだけ」と私は言った。
小男は肯いた。大男も肯いた。
大男がまず戸棚と押入れをひとつひとつ開けてまわった。そして押入れの中から筋肉トレーニング用のブルワーカーをひっぱりだして、それを背中にまわし、背面押しをした。私はそれまで背面押しで完全にブルワーカーを押しきってしまう人物に出会ったことはなかったので、それがはじめての経験になった。たいしたものだ。
彼はそれから野球バットを持つような格好でブルワーカーのグリップを両手で握り、ベッドルームに行った。私は身をのりだして彼が何をするのか眺めていた。大男はモニターTVの前に立ち、ブルワーカーを肩の上にふりかざし、TVのブラウン管めがけてフル・スウィングした。ガラスの粉々になる音と、百個くらいのフラッシュが同時にたかれたような音がして、三カ月前に買ったばかりの二十七インチTVが|西瓜《す い か》みたいに叩きつぶされた。
「ちょっと待って……」と私は言って立ちあがろうとしたが、小男がテーブルを平手でばんと打って、それを止めた。
大男は次にヴィデオ・デッキを持ちあげ、TVのかどにパネルの部分を何度か思い切り叩きつけた。スウィッチがいくつかはじけとび、コードがショートして白い煙が一筋、救済された魂みたいに空中に浮かんだ。ヴィデオ・デッキが破壊しつくされたことをたしかめると、男はそのスクラップと化した器械を床に放りだし、今度はポケットからフラッシュ・ナイフをひっぱりだした。ぱちんという単純明快な音とともに、鋭い刃があらわれた。それから彼は洋服だんすの|扉《とびら》開け、ふたつあわせて二十万円近くもした私のジョンソンズ・ボマー・ジャケットとブルックス・ブラザーズのスーツを|綺《き》|麗《れい》に裂いてしまった。
「そんなのってないぜ」と私は小男にどなった。「大事なものは壊さないって言ったじゃないか」
「そんなこと言わないよ」と小男は平然として答えた。「俺はあんたに、何が大事か[#「何が大事か」に丸傍点]ってたずねたんだ。壊さないなんて言わない。大事なものから壊すんだよ。そんなの決まってるじゃないか」
「やれやれ」と言って私は冷蔵庫から|缶《かん》ビールを出して飲んだ。そして小男と二人で、大男が私の小ぢんまりとした趣味の良い2LDKを破壊しつくしていく様を眺めていた。