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世界尽头与冷酷仙境37

时间: 2017-02-16    进入日语论坛
核心提示: どれほどの時間眠ったのか私にはわからなかった。|誰《だれ》かが私の肩をゆすっていた。私が最初に感じたのはソファーの|匂
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 どれほどの時間眠ったのか私にはわからなかった。|誰《だれ》かが私の肩をゆすっていた。私が最初に感じたのはソファーの|匂《にお》いだった。それから誰かが私を起していることに対する|苛《いら》|立《だ》ちがやってきた。誰も彼もが秋のいなごのように私の豊潤な眠りを奪っていくのだ。
 しかしそれにもかかわらず、私の中の何かが私に対して起きあがることを強要していた。眠っている暇はないのだ、と。私の中の何かが大きな鉄の|花《か》|瓶《びん》で私の頭を打っていた。
「起きて、お願い」と彼女は言った。
 私はソファーの上に起きあがって目を開けた。私はオレンジ色のバスローブを着ていた。彼女は白い男もののTシャツを着て、私にのしかかるようにして私の肩を揺すっていた。白いTシャツと小さな白いパンティーだけをまとった彼女の細い体はまるで小さな不確かな子供のように見えた。ちょっと強い風が吹いただけでそのままちり[#「ちり」に丸傍点]になって崩れてしまいそうだ。我々の食べた大量のイタリア料理はいったいどこに消えてしまったのだろう?そして私の腕時計はどこに行ってしまったのだ。まだあたりは暗い。私の目がどうかしてしまったのでなければ、夜はまだ明けていないはずだ。
「テーブルの上を見て」と彼女は言った。
 私はテーブルの上を見た。テーブルの上には小型のクリスマス・ツリーのようなものが載っていた。しかしそれはクリスマス・ツリーではなかった。クリスマス・ツリーにしてはあまりにも小さすぎるし、それに今はまだ十月のはじめだ。クリスマス・ツリーであるわけはない。私はバスローブの|襟《えり》を両手であわせたままそのテーブルの上にある物にじっと目をこらした。それは私が置いた頭骨だった。いや、そこに頭骨を置いたのは彼女だったかもしれない。私にはどちらがテーブルの上にそれを置いたのかは思いだせなかった。どちらでもいい。とにかくテーブルの上でクリスマス・ツリーのように光っているのは私が持ってきた一角獣の頭骨だった。光が頭骨の上に点在しているのだ。
 ひとつひとつの点は微小なものだったし、光自体もそれほど強いものではなかった。ただその小さな光が頭骨の上にまるで満天の星のように浮かんでいるのだ。光は白く、ほんのりとしてやわらかだった。ひとつの光のまわりにもうひとつべつのぼんやりとした光の膜がかぶさっているように、その輪郭はやわらかくかすんでいた。そのせいか光は頭骨の表面で光っているというよりは、頭骨の上にぽっかりと浮かびあがっているように見えた。我々はソファーの上に並んで、長いあいだ無言でその光の小さな海を見つめていた。彼女は私の腕を両手でそっと握り、私は両手をバスローブの襟に置いたままだった。夜は深く、あたりには物音ひとつ聞こえなかった。
「これには何か、そういう仕掛けがあるの?」
 私は首を振った。私は頭骨と一晩を過したが、そのときは頭骨は光ったりはしなかった。もしその光がある種の夜光塗料か|光苔《ひかりごけ》といったものに起因しているのであるなら、そのときどきによって光ったり光らなかったりするようなことはない。暗くなれば必ず光る。それに我々二人が眠りにつく前には頭骨は光ってはいなかったのだ。仕掛けであるわけはない。何か人為を超えたとくべつなものなのだ。どのような人為的な力もこれほどのやわらかくおだやかな光を作りだすことはできない。
 私は右腕を握りしめていた彼女の手をそっとほどいてからテーブルの上の頭骨に手をのばし、それを静かに持ちあげて|膝《ひざ》の上に載せた。
「怖くはない?」と彼女が小さな声で|訊《き》いた。
「怖くはないよ」と私は言った。怖くはない。それはおそらくどこかで私自身と結びついているものなのだ。誰も自分自身を怖がったりはしない。
 頭骨を手のひらで|覆《おお》うと、そこにはかすかな残り火のようなあたたかみが感じられた。そして私の指さえもが淡い光の膜に包まれたように見えた。目を閉じてそのほのかなぬくもりの中に十本の指を浸すと、様々な古い思い出が遠い雲のように私の心の中に浮かんでくるのを感じることができた。
「それはレプリカのようには見えないわ」と彼女は言った。「きっと本物の頭骨じゃないかしら? 遠い昔から遠い記憶を持ってやってきた……」
 私は黙って|肯《うなず》いた。しかし私に何を知ることができるだろう? たとえそれが何であれ、それは今光を放ち、その光は私の手の中にあるのだ。私にわかっているのは、その光が私に向って何かを語りかけているということだけだった。私にはそれを直感することができるのだ。おそらく彼らは私に何かを|示《し》|唆《さ》しているのだ。それは新しい|来《きた》るべき世界のようでもあり、私があとに残してきた古い世界のようでもあった。私にはそれを十全に理解することはできなかった。
 私は目を開けて、私の指を白く染めた光をもう一度|眺《なが》めてみた。私にはその光の意味するものを|把《は》|握《あく》することはできなかったが、そこに悪意や敵対する要素がまるで見受けられないことだけははっきりと感じることができた。それは私の手の中にすっぽりと収まり、私の手の中にあることに|充《み》ち足りているように見えた。私は指先でそこに浮かんだ光の筋をそっと|辿《たど》ってみた。|怖《おそ》れることは何もないのだ、と私は思った。自分自身を怖れるべき理由は何もないのだ。
 私はテーブルの上に頭骨を|戻《もど》し、その指先を彼女の|頬《ほお》にあてた。
「とてもあたたかいわ」と彼女は言った。
「光があたたかいんだ」と私は言った。
「私もさわってみてかまわない?」
「もちろんさ」
 彼女はしばらく頭骨の上に両手を置いて目を閉じていた。彼女の指もやはり私と同じように白い光の膜に覆われた。
「何かを感じるわ」と彼女は言った。「それが何かはわからないけれど、どこかで昔感じたことのあるもの。空気とか光とか音とか、そういうものよ。説明できないけれど」
「僕にも説明できない」と私は言った。「|喉《のど》が乾いたな」
「ビールがいいのかしら、それとも水?」
「ビールがいい」と私は言った。
 彼女が冷蔵庫からビールを出してグラスと一緒に居間にはこんでくるあいだ、私はソファーのうしろに転がっていた腕時計を拾って時刻を見た。四時十六分だった。あと一時間と少しで夜が明けはじめる。私は電話機をとって自分の部屋の番号をまわしてみた。自分の部屋に電話をかけたことなんて一度もなかったので、番号を思いだすのに少し時間がかかった。誰も出なかった。私はベルを十五回鳴らしてから受話器を置き、またダイヤルをまわしてベルを十五回鳴らしてみた。結果は同じだった。誰も出ない。
 あの太った娘はもう地底で待つ祖父のもとへ帰っていったのだろうか? それとも彼女は私の部屋にやってきた記号士か『|組織《システム》』の人間につかまってどこかにつれさられてしまったのだろうか? しかしいずれにせよ彼女はきっとうまくやっているに違いない、と私は思った。彼女は何があってもおそらく私の十倍くらいうまくそれに対処していけるはずだった。それも私の半分の|歳《とし》でだ。たいしたものだ。私は受話器を置いてから、もう二度とあの娘に会えないことを思って少し|淋《さび》しい気持になった。まるで閉館するホテルからソファーやシャンデリアがひとつひとつ運びだされているのを眺めているような気分だった。ひとつずつ窓が閉められ、カーテンが下ろされていくのだ。
 我々は頭骨にちりばめられた白い光を眺めながら、ソファーに並んで二人でビールを飲んだ。
「あの頭骨はあなたに感応して光っているの?」と彼女が訊いた。
「わからないな」と私は言った。「でも、そんな気がするな。|僕《ぼく》ではないかもしれないけれど、何かに感応してるんだ」
 私はビールののこりをグラスにあけて、ゆっくりと時間をかけて飲み干した。夜明け前の世界は森の中のように静かでひっそりとしていた。床のカーペットの上には私の服や彼女の服が脱ぎ捨てられてちらばっていた。私のブレザーコートやシャツやネクタイやズボン、彼女のワンピースやストッキングやスリップなんかだ。床に脱ぎ捨てられた服のかたまりは私の三十五年間の人生の帰結のひとつのかたちであるように感じられた。
「何を見てるの?」と彼女が訊いた。
「服」と私は言った。
「どうして服なんか見るの?」
「少し前までは僕の一部だった。君の服も君の一部だった。でも今はそうじゃない。違う人間の違う服みたいだ。自分の服のように見えない」
「セックスのせいじゃないかしら」と彼女は言った。「セックスをしたあとって人間はだいたい内省的になりがちなものだから」
「いや、そんなんじゃないんだ」と私は空のグラスを手に持ったまま言った。「内省的になってるわけじゃない。ただ世界を構成しているいろんな細かいことが目につくだけなんだ。かたつむりとか雨だれとか金物店のディスプレイとかさ、そんなものがすごく気になる」
「服をかたづける?」
「いや、あのままでいい。あの方が落ちつくんだ。かたづけなくていい」
「かたつむりのこと話して」
「|洗《せん》|濯《たく》|屋《や》の前でかたつむりを見たんだ」と私は言った。「秋にかたつむりがいるなんて知らなかった」
「かたつむりは一年じゅういるわよ」
「そうだろうね」
「ヨーロッパではかたつむりは神話的な意味を持っているのよ」と彼女は言った。「|殻《から》は暗黒世界を意味し、かたつむりが殻から出ることは陽光の到来を意味するの。だから人々はかたつむりを見ると本能的に殻をたたいてかたつむりを外に出そうとするのね。やったことある?」
「ない」と私は言った。「君はいろんなことを知ってるんだね」
「図書館で働いているといろいろともの知りになるのよ」
 私はテーブルの上からセブンスターの箱をとって、ビヤホールのマッチで火をつけた。そしてまた床の上の服を眺めた。彼女の淡いブルーのストッキングの上に私のシャツの|袖《そで》が載っていた。ヴェルヴェットのワンピースはウェストの部分で身をくねらせるように折れまがり、薄い|生《き》|地《じ》のスリップが垂れた旗のようにそのわきに置かれていた。ネックレスと腕時計はソファーの上に|放《ほう》りだされ、黒い皮のショルダーバッグは部屋の|隅《すみ》のコーヒーテーブルの上に横向けになっている。
 脱ぎ捨てられた彼女の服は彼女自身より彼女らしく見えた。あるいは私の服だって私自身より私らしく見えるのかもしれない。
「どうして図書館につとめたの?」と私は訊いてみた。
「図書館が好きだったからよ」と彼女は言った。「静かで、本がいっぱいあって、知識が詰まってるわ。銀行や貿易会社には勤めたくなかったし、先生になるのも|嫌《いや》だったし」
 私は|煙草《た ば こ》の煙を天井に向けて吐き、その行方をしばらく眺めていた。
「私のことを知りたいの?」と彼女が訊いた。「どこで生まれたとかどんな少女時代だったとかどこの大学に行ったとかいつ処女を失っただとか好きな色だとか、そういうことを」
「いや」と私は言った。「今はいい。少しずつ知りたい」
「あなたのことも少しずつ知りたいわ」
「海の近くで生まれたんだ」と私は言った。「台風が去った次の朝に海岸に行くと、浜辺にいろんなものが落ちていた。波で打ちあげられたんだ。想像もつかないようなものが、いっぱい見つかる。瓶やら|下《げ》|駄《た》やら帽子やら眼鏡ケースから|椅《い》|子《す》・机に至るまでなんだって落ちているんだ。どうしてそんなものが浜辺に打ちあげられるのか、僕には見当もつかない。でもそういうのを探すのがとても好きで、台風が来るのが楽しみだった。たぶんどこかの浜に捨てられていたものが波でさらわれて、それがまた打ちあげられるんだろうね」
 私は煙草の火を|灰《はい》|皿《ざら》の中で消して、空のグラスをテーブルの上に置いた。
「海から打ちあげられたものはどんなものでも不思議に浄化されているんだ。使いようのないがらくたばかりだけれど、みんな清潔なんだ。汚なくて触ることのできないようなものは何ひとつとしてない。海というのは特殊なものなんだ。僕は自分のこれまでの生活を振りかえるとき、いつもそんな浜辺のがらくたのことを思いだす。僕の生活というのはいつもそんな具合だった。がらくたを集めて自分なりに清潔にして別の場所に放りだす——しかし使いみちはない。そこで朽ちはてるだけだ」
「でもそうするにはスタイルというものが必要でしょ? 清潔にするためには」
「しかしそんなスタイルにいったい何の必要があるんだろう? スタイルならかたつむりにだってある。僕はただあっちの浜に行ったりこっちの浜に行ったりしているだけだ。そのあいだに起ったいろんなことはよく覚えているけれど、それはただ覚えているというだけのことで、今の僕には何ひとつとして結びついてはいない。ただ覚えているというだけのことなんだ。清潔ではあるけれど使いみちがない」
 彼女は私の肩に手を置き、ソファーから立ちあがって台所に行った。そして冷蔵庫を開けてワインを出してグラスに|注《つ》ぎ、私の新しいビールと一緒に盆に載せて持ってきた。
「夜明け前の暗い時間って好きよ」と彼女は言った。「清潔で使いみちがないからね、きっと」
「でもそんな時間はすぐに終ってしまう。夜が明けて新聞配達やら牛乳配達やらがやってくるし、電車も走り出す」
 彼女は私のわきにするりともぐりこんで毛布を胸までひっぱりあげ、ワインを飲んだ。私は新しいビールをグラスに注ぎ、それを手にしたまままだ輝きを失わないテーブルの上の頭骨を眺めた。頭骨はテーブルの上のビールの瓶や灰皿やマッチにその淡い光を投げかけていた。彼女の頭は私の肩に置かれていた。
「さっき台所から君がこっちにやってくるのを見てたんだ」と私は言った。
「どうだった?」
「脚がとても|綺《き》|麗《れい》だった」
「気に入った?」
「すごくね」
 彼女はグラスをテーブルの上に置き、私の耳のすぐ下に|唇《くちびる》をつけた。
「ねえ、知ってる?」と彼女は言った。「私、ほめられるのって大好きなの」
 
 夜が明けるにつれて頭骨の光は陽光に洗われるようにその輝きを徐々に失い、やがてはもとの何の変哲もないのっぺりとした白い骨へと戻っていった。我々はソファーの上で抱きあいながら、カーテンの外の世界がその|暗《くら》|闇《やみ》を朝の光に奪い去られていく様子を眺めていた。彼女の熱い息が私の肩に湿り気を与え、乳房は小さくやわらかかった。
 ワインを飲みほしてしまうと、彼女はその小さな時間の中に身を折り畳むように静かに眠った。太陽の光がくっきりと隣家の屋根を染め、鳥が庭にやってきて、去っていった。TVのニュースのアナウンスが聞こえ、どこかで|誰《だれ》かが車のエンジンをかける音が聞こえた。私はもう眠くはなかった。いったい何時間眠ったのかうまく思いだせなかったが、いずれにせよ眠気は完全に消滅していたし、酒の酔いも残ってはいなかった。私は肩の上に置かれた彼女の頭をそっとわきにどかせ、ソファーを離れて台所に行き、水を何杯か飲んで煙草を吸った。そして台所と居間のあいだのドアを閉め、テーブルの上のラジオ・カセットをつけて小さな音でFM放送を聴いた。ボブ・ディランの曲が聴きたかったが、ディランの曲は残念ながらかかっていず、そのかわりにロジャー・ウィリアムズが『枯葉』を弾いていた。秋なのだ。
 彼女の家の台所は私の台所とよく似ていた。流し台があり換気扇があり冷凍冷蔵庫がありガス湯沸し器がある。広さも機能性も使いこみ方も調理器具の数もだいたい同じようなものだ。私の台所との違いはガス・オーヴンがなく、そのかわりに電子レンジがあることだった。電動式のコーヒーメーカーもある。包丁は用途にあわせて何種類か|揃《そろ》っていたが、研ぎ方にいささかむらがあった。包丁をうまく研げる女性は少ない。調理用のボウルはぜんぶ電子レンジで使いやすいパイレックスで、フライパンにはきれいに油が敷かれていた。流し台の中のごみ受けもちゃんと掃除されている。
 どうしてそんなに他人の台所の様子が気になるのか、自分でもよくわからなかった。べつに他人の生活の細部を|嗅《か》ぎまわるつもりはないのだが、ごく自然に台所の中のものが目についてしまうのだ。ロジャー・ウィリアムズの『枯葉』が終り、フランク・チャックスフィールド・オーケストラの『ニューヨークの秋』に変った。私は秋の朝の光の中で|棚《たな》に並んだ|鍋《なべ》や|鉢《はち》や調味料の|瓶《びん》の列をぼんやりと眺めていた。台所は世界そのもののようだった。まるでウィリアム・シェイクスピアの|科《せり》|白《ふ》みたいだ。世界は台所だ。
 曲が終るとディスク・ジョッキーの女性がでてきて「もう秋ですね」と言った。それから秋に最初に着るセーターの|匂《にお》いの話をした。そういう匂いについての良い描写がジョン・アップダイクの小説の中に出てくる、と言った。次の曲はウディー・ハーマンの『アーリー・オータム』だった。テーブルの上のキッチン・タイマーは七時二十五分を指していた。十月三日、午前七時二十五分だ。月曜日。空はまるで鋭利な刃物で奥の方をえぐりとったように深くくっきりと晴れわたっている。人生をひきはらうには悪くない一日になりそうだった。
 私は鍋に湯をわかして冷蔵庫の中にあったトマトを湯むきし、にんにくとありあわせの野菜を刻んでトマト・ソースを作り、トマト・ピューレを加え、そこにストラスブルグ・ソーセージを入れてぐつぐつと煮こんだ。そしてそのあいだにキャベツとピーマンを細かく刻んでサラダを作り、コーヒーメーカーでコーヒーを入れ、フランス・パンに軽く水をふってクッキング・フォイルにくるんでオーヴン・トースターで焼いた。食事ができあがると私は彼女を起し、居間のテーブルの上のグラスと空瓶をさげた。
「良い匂いね」と彼女は言った。
「もう服を着ていいかな?」と私は|訊《き》いた。女の子より先に服を着ないというのが私のジンクスなのだ。文明社会では礼儀というのかもしれない。
「もちろんよ、どうぞ」と言って、彼女は自分のTシャツを脱いだ。朝の光が彼女の乳房や腹に淡い影を作り、うぶ毛を光らせていた。彼女はその格好のままでしばらく自分の体を眺めていた。
「悪くないわね」と彼女は言った。
「悪くない」と私は言った。
「無駄な肉もないし、おなかにしわもないし、|肌《はだ》にもまだはり[#「はり」に丸傍点]はあるわ。まだしばらくはね」と彼女は言って両手をソファーの上につき、私の方を向いた。「でもそういうのって、ある日突然消えちゃうのね。そうじゃないかしら? 糸が切れるみたいに消えて、もうもとには戻らないの。そんな気がして仕方ないの」
「食事にしよう」と私は言った。
 彼女は隣りの部屋に行って黄色いトレーナー・シャツをかぶり、古くなって色の|褪《あ》せたブルージーンズをはいた。私はチノ・パンツとシャツを着た。そして我々は台所のテーブルに向いあって座り、パンとソーセージとサラダを食べ、コーヒーを飲んだ。
「あなたはどこの家の台所にもそんな風にすぐに慣れちゃうの?」と彼女が訊いた。
「台所の本質というのはどこの家でもだいたい同じなんだ」と私は言った。「ものを作ってものを食べる。どこだって大きな違いはないよ」
「一人暮しが嫌になることはない?」
「よくわからないな。そんな風に考えたことは一度もないからね。五年間結婚生活をつづけたけど、今となってはそれがどんな生活だったかまるで思いだせないんだ。ずっと一人で暮していたような気がするな」
「二度と結婚したくないと思う?」
「もうどちらでもいいんだ」と私は言った。「どちらでも変りはない。入口と出口がついている犬小屋のようなものさ。どっちから出てどっちから入ってもたいした変りはない」
 彼女は笑ってティッシュ・ペーパーで口の端についたトマト・ソースを|拭《ぬぐ》った。「結婚生活を犬小屋にたとえた人はあなたがはじめてだわ」
 食事が終ると私は残ったポットのコーヒーをあたためて一杯ずつカップに注いだ。
「トマト・ソースはなかなかおいしかったわ」と彼女は言った。
「ベイリーフとオレガノがあればもっとうまくできたよ」と私は言った。「煮込みもあと十分足りなかった」
「でもおいしかったわ。こんなに手のこんだ朝ごはんって久しぶり」と彼女は言った。「今日はこれからどうするつもりなの?」
 私は時計を見た。八時半だった。
「九時にここを出る」と私は言った。「どこかの公園に行って二人でひなたぼっこをしてビールを飲もう。十時半になったら僕は君を車でどこかに送って、それから出かける。君はどうする?」
「家に|戻《もど》って洗濯をして、掃除をして、それから一人でセックスの思い出にひたるわ。悪くないでしょ?」
「悪くない」と私は言った。悪くない。
「ねえ、私誰とでもすぐに寝ちゃうわけじゃないのよ」と彼女はつけ加えるように言った。
「知ってるよ」と私は言った。
 私が流しで食器を洗っているあいだ彼女はシャワーを浴びながら|唄《うた》を唄っていた。私は|泡《あわ》のほとんどたたない植物性の油脂で皿や鍋を洗い、|布《ふ》|巾《きん》で|拭《ふ》いてテーブルの上に並べた。そして手を洗い、台所にあった歯ブラシを借りて歯を|磨《みが》いた。それから浴室に行って|髭《ひげ》|剃《そ》りの道具がないかと彼女に訊いてみた。
「上の右側の棚を開けてみて。彼が昔使っていたのがあると思うわ」と彼女は言った。
 棚の中にはたしかにジレットのレモン・ライムのシェーヴィング・フォームとシックの
|剃刀《かみそり》が入っていた。シェーヴィング・フォームの|缶《かん》は半分ほどに減っていて、吹出し口には乾いた白い泡がこびりついていた。死とはシェーヴィング・クリームの缶を半分残していくことなのだ。
「あった?」と彼女が訊いた。
「あったよ」と私は言った。そして剃刀とシェーヴィング・フォームと新しいタオルを持って台所に戻り、湯をわかして髭を剃った。髭を剃りおえると私は剃刀とホルダーをきれいに洗った。私の髭と死者の髭が洗面器の中で混じりあい、底に沈んだ。
 私は彼女が服を着ているあいだ居間のソファーに座って朝刊を読んだ。タクシーの運転手が運転中に心臓発作を起して陸橋の|橋《はし》|桁《げた》につっこみ、死んでいた。客は三十二歳の女性と四歳の女の子で、どちらも重傷を負った。どこかの市議会の昼食に出た弁当のカキフライが腐っていて、二人が死んだ。外務大臣がアメリカの高金利政策に対して遺憾の意を表明し、アメリカの銀行家の会議は中南米への貸付け金の利子について検討し、ペルーの蔵相はアメリカの南米に対する経済侵略を非難し、西ドイツの外相は対日貿易収支の不均衡の是正を強く求めていた。シリアがイスラエルを非難し、イスラエルはシリアを非難していた。父親に暴力をふるう十八歳の息子についての相談が載っていた。新聞には私の最後の数時間にとって役に立ちそうなことは何ひとつとして書かれてはいなかった。
 彼女はベージュのコットン・パンツに茶色のチェックのオープン・シャツという格好で鏡の前に立ち、ブラシで髪をとかしていた。私はネクタイをしめ、上着を着た。
「その一角獣の骨はどうするの?」と彼女が訊いた。
「君にプレゼントするよ」と私は言った。「どこかに飾っておくといい」
「TVの上なんかどうかしら?」
 私はもう既に光を失った頭骨を持って居間の隅に行き、TVの上にそれを置いてみた。
「どう?」
「悪くない」と私は言った。
「また光ることあるかしら?」
「きっと光る」と私は言った。そしてもう一度彼女を抱いて、そのぬくもりを頭の中に刻みこんだ。
 
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