冷たくても、冷たくなくても、
神はここにいる
「それほど簡単には死なない」と男の声が背後で言った。まるで牛河の気持ちを読み取ったみたいに。「意識をいったん[#傍点]落とした[#傍点終わり]だけだ。あとほんの少しというところまでは行ったが」
聞き覚えのない声だった。表情を欠いた中立的な声だ。高くもなく低くもない。硬すぎもせず柔らかすぎもしない。飛行機の発着時刻や株式市況を告げる声だ。
今日は何曜日だったっけと、脈絡なく牛河は考えた。たしか月曜日の夜だ。いや、正確に言えば日付はもう火曜日に変わっているかもしれない。
「牛河さん」と男は言った。「牛河さんでいいんだね?」
牛河は黙っていた。二十秒ばかり沈黙の時間があった。それから男は予告もなく、振幅の短い一撃を、牛河の左側の腎臓に送り込んだ。音のない、しかしおそろしく強烈な背後からの一撃だった。激痛が全身を貫いた。すべての臓器が縮み上がり、痛みが一段落するまでまともに息ができなかった。やがて牛河の口から乾いたあえぎが漏れた。
「いちおう丁寧にものを尋ねたんだ。返事をしてもらいたい。口がまだうまくきけないのなら、肯くか、首を振るか、それだけでもいい。それが礼儀というものだ」と男は言った。「牛河さんでいいんだね?」
牛河は何度か肯いた。
「牛河さん。覚えやすい名前だ。ズボンにあった財布を調べさせてもらった。運転免許証と名刺が入っていた。『新日本学術芸術振興会専任理事』。ずいぶん立派な肩書きじゃないか、牛河さん。しかし『新日本学術芸術振興会』の理事さんが、こんなところで隠しカメラを使って、いったい何をやっているんだろう?」
牛河は黙っていた。言葉がまだうまく出てこなかった。
「返事をした方がいい」と男は言った。「これは忠告だよ。腎臓を潰されると一生痛みを引きずることになる」
「ここに住む人物を監視していた」と牛河はようやく言った。声の高さが安定せず、ところどころでひび割れた。目隠しされていると、それは自分の声には聞こえなかった。
「それは川奈天吾のことだね」
牛河は肯いた。
「小説『空気さなぎ』のゴーストライターを務めた川奈天吾だ」
牛河はもう一度肯き、それから少し咳き込んだ。この男はそのことを知っている。
「誰に頼まれた?」と男は尋ねた。
「『さきがけ』だ」
「それくらいの予想はこちらにもつくよ、牛河さん」と男は言った。「しかしなぜ教団が今さら川奈天吾の動向を監視しなくてはならないのだろう? 彼らにとって、川奈天吾はそれほどの重要人物でもないはずなのに」
この男がどういう立場にいるのか、どこまで状況を把握しているのか、牛河は素速く頭を働かせた。誰だかはわからないが、少なくとも教団の送り込んだ人間ではない。しかしそれが歓迎すべき事実なのか、あるいはその逆なのか、そこまでは牛河にもわからない。
「質問しているんだ」と男は言った。そして指先で左側の腎臓を押した。強い力だ。
「彼はひとりの女に繋がっている」と牛河はうめくように言った。
「その女に名前はあるのか?」
「青豆」
「なぜ青豆を追っている?」と男は尋ねた。
「彼女が教団のリーダーに害をなしたからだ」
「害をなした」と男は検証するように言った。「殺したということだな? もっとシンプルに言えば」
「そうだ」と牛河は言った。この男を相手にものごとを隠しきることはできないと彼は思った。遅かれ早かれしゃべらされることになる。
「しかしそのことは世間には知られていない」
「内部の秘密になっている」
「教団内でどれくらいの数の人間がその秘密を知っているのだろう?」
「一握りだ」
「そしてあんたもその中に含まれている」
牛河は肯いた。
男は言った。「つまりあんたは教団内でかなり重要な位置にいるということになる」
「いや」と言って牛河は首を振った。首を横に振ると殴られた腎臓が痛んだ。「私はただの使い走りだ。たまたまそれを知る状況にいただけだ」
「まずいときに、まずい場所にいた。そういうことだろうか?」
「そうなると思う」
「ところで牛河さん、あんたは今回、単独で行動しているのか?」
牛河は肯いた。
「しかし妙な話だな。こういう監視や尾行の作業はチームを組んであたるのが常道だ。念入りにやるには補給係も入れて、少なくとも三人が必要だ。そしてあんたたちは常に組織の結束で動いているはずだ。単独行動はいかにも不自然だ。というわけで、あんたの答えは俺にはもうひとつ気に入らない」
「私は教団の信者じゃない」と牛河は言った。呼吸が落ち着いて、やっとなんとかまともに口がきけるようになった。「教団に個人的に雇われているだけだ。外部の人間を使った方が便利なときに呼ばれる」
「『新日本学術芸術振興会』専任理事として?」
「それはダミーだ。その団体に実体はない。主に教団の税金対策のためにつくられたものだ。私は教団と繋がりのない個人業者として、教団のために用をこなしている」
「傭兵のようなものだな」
「いや、傭兵とは違う。ただ依頼を受けて情報収集みたいなことをするだけだ。もしその必要があれば、荒っぽいことは教団内の別の人間が担当する」
「ここで川奈天吾を監視して、青豆との繋がりを探れと教団から指示されたのか、牛河さん?」
「そうだ」
「違うね」と男は言った。「そいつは正しくない答えだ。もし教団がその事実を掴んでいれば、つまりもし青豆と川奈天吾との繋がりを掴んでいればということだが、連中はあんた一人に監視を任せたりはしないよ。自分たちのところの人間を使って、チームを組んでやらせている。その方がミスも少ないし、武力も効果的に使える」
「でも本当にそうなんだ。こちらは上の指示に従っているだけだ。どうして私一人にやらせているのか、それは私にもわからん」、牛河の声はまたピッチが不安定になり、ところどころでひび割れた。
もし「さきがけ」が青豆と天吾の繋がりをまだ把握していないとわかったら、俺はこのまま消されるかもしれないと牛河は思った。俺がいなくなれば、それは誰に知られることもなく終わるわけだから。
「正しくない答えが、俺は好きになれない」と男は冷ややかな声で言った。「牛河さん、あんたはそのことを[#傍点]身にしみて[#傍点終わり]知るべきだ。もう一度同じ腎臓を殴ってもいい。しかし思い切り殴れば、俺の手だってけっこう痛むし、それにあんたの腎臓に深刻なダメージを与えることが俺の目的でもない。あんた個人に恨みがあるわけではないからな。俺の目的はただひとつ、正しい答えを得ることだ。だから今回は新しい趣向でやってみよう。海の底に行ってもらうことにする」
海の底? と牛河は思った。この男はいったい何を言おうとしているのだろう。
男はポケットから何かを取り出しているようだった。かさかさというビニールの擦れる音が耳に届いた。そして牛河の頭の上から何かがすっぽりかぶせられた。ビニール袋だ。食品冷凍用の厚手のビニール袋のようだ。それから大きな太い輪ゴムが首のまわりに巻きつけられた。この男は俺を窒息させるつもりなのだ、と牛河は悟った。空気を吸い込もうとすると口の中がビニールでいっぱいになった。鼻の穴も塞がれた。両方の肺が必死に新鮮な空気を求めていた。しかしそんなものはどこにもない。ビニールが顔全体にぴたりと張りついて、文字どおり死の仮面となった。ほどなく身体中の筋肉が激しく痙攣を始めた。牛河は手を伸ばしてその袋をむしり取ろうとしたが、手はもちろん動かなかった。背中でしっかり縛られているのだ。頭の中で脳が風船のように膨張し、そのままはちきれそうになった。牛河は叫ぼうと思った。新鮮な空気がどうしても必要なのだ。何があっても。しかしもちろん声は出てこなかった。舌が口いっぱいに広がった。意識が頭からこぼれ落ちていった。
やがて首の輪ゴムが外され、ビニール袋が頭からむしり取られた。牛河は目の前にある空気を必死に肺の中に送り込んだ。それから何分ものあいだ牛河は、まるで届かないところにある何かに噛みつこうとする動物のように、身体を反らせながら激しい呼吸を繰り返していた。
「海の底はどうだった?」と男は牛河の呼吸が落ち着くのを待って尋ねた。その声にはやはり表情はなかった。「ずいぶん深くまで行った。これまでに見たこともないものをいろいろ目にしただろう。貴重な体験だ」
牛河は何も言えなかった。声は出てこなかった。
「牛河さん、何度も繰り返すことになるが、俺は正しい答えを求めている。だからもう一度だけ質問する。ここで川奈天吾の動向を見張って、青豆との繋がりを探るように教団から指示されたのか? とても大事なことなんだ。人の命がかかっていることだ。よくよく考えて、正しく答えてくれ。あんたが嘘をつけば、それはわかるんだよ」
「教団はこのことを知らない」、牛河はようやくそれだけを口にした。
「そう、そいつが正しい答えだ。教団は青豆と川奈天吾のあいだに繋がりがあることをまだ掴んでいない。あんたはまだその事実を連中に伝えていない。そういうことだね?」
牛河は肯いた。
「最初から正直に答えていれば、海の底なんか見ないで済んだんだ。苦しかっただろう?」
牛河は肯いた。
「わかるよ。俺も以前、同じ目にあわされたことがある」と男は他愛ない世間話でもするように言った。「どれくらい苦しいものか、こればかりは経験したことのない人間にはわからない。苦痛というのは簡単に一般化できるものじゃないんだ。個々の苦痛には個々の特性がある。トルストイの有名な一節を少し言い換えさせてもらえば、快楽というのはだいたいどれも似たようなものだが、苦痛にはひとつひとつ微妙な差違がある。[#傍点]味わい[#傍点終わり]とまでは言えないだろうがね。そう思わないか?」
牛河は肯いた。彼はまだいくらかあえいでいた。
男は続けた。「だからここはお互い腹を割って、包み隠すところなく、正直に話をしようじゃないか。いいな、牛河さん?」
牛河は肯いた。
「もし正しくない答えがまた返ってきたら、また海の底を歩いてもらうことになる。今度はさっきよりもう少し長く、もう少しゆっくり歩いてもらう。もっとぎりぎりのところまで。下手をしたらもう戻って来れないかもしれない。そんな目にあいたくないだろう。どうだ、牛河さん?」
牛河は首を振った。
「どうやら俺たちには共通点があるようだ」と男は言った。「見たところお互いに一匹狼だ。あるいははぐれ犬だ。はっきり言えば、社会のはみ出しものだ。生まれつき組織には馴染まない。というか、そもそも組織みたいなところには受け入れてもらえない。すべて自分一人でやる。一人で決め一人で行動し、一人で責任を取る。上から命令は受けるが、同僚も部下もいない。自分に与えられた頭と腕だけが頼りだ。そんなところだね?」
牛河は肯いた。
男は言った。「それが俺たちの強みであり、また時には弱点でもある。たとえば今回について言えば、あんたはいささか功を焦りすぎた。途中経過を教団に報告することなく、自分一人でかたをつけようとした。できるだけきれいなかたちで、個人的に手柄をあげたかった。そのぶんガードが甘くなった。違うか?」
牛河はもう一度肯いた。
「そこまでしなくてはならない理由が何かあったのか?」
「リーダーの死に関して私に落ち度があった」
「どんな具合に?」
「私が青豆の身辺調査をした。リーダーに会わせる前に厳しいチェックを入れる。まずい点は何も見つけられなかった」
「しかし彼女は殺害する意志をもってリーダーに接近し、実際にとどめを刺した。あんたは与えられた仕事をしくじったし、いずれその責任を取らされることになるだろう。所詮は外部の使い捨ての人間だ。また今となっては内情を知りすぎた男になっている。生き延びるためには、連中に青豆の首を差し出さなくてはならない。そういうことかな?」
牛河は肯いた。
「気の毒なことをしたな」と男は言った。
気の毒なことをした? 牛河はその言葉の意味について、いびつな頭の中で考えを巡らせた。それから思い当たった。
「リーダー殺害の一件はおたくが仕組んだのか?」と牛河は言った。
男はそれには答えなかった。しかしその無言の回答が決して否定的なものではないことを、牛河は理解した。
「私をどうするつもりだ?」と牛河は言った。
「どうしたものかな。実を言うとまだ決めてないんだ。これからゆっくり考える。すべてはあんたの出方次第だ」とタマルは言った。「ほかにいくつかあんたに尋ねたいことがある」
牛河は肯いた。
「『さきがけ』の連絡係の電話番号を教えてもらいたい。あんたの直属の担当みたいなのがいるはずだ」
牛河は少し躊躇したが、結局その番号を教えた。今さら命をかけて隠しとおすほどのことでもない。タマルはそれを書き留めた。
「名前は?」
「名前は知らない」と牛河は嘘をついた。しかし相手はとくに気にしなかった。
「[#傍点]きつい[#傍点終わり]やつらか?」
「かなりきつい」
「でもプロとは言えない」
「腕は立つ。上から命令されたことは迷わずなんでもやる。でもプロじゃない」
「青豆のことをどこまで突き止めた?」とタマルは言った。「身を隠している場所はわかったのか?」
牛河は首を振った。「そこまではわからない。だからまだここにへばりついて川奈天吾の監視を続けている。青豆の行方がわかったら、とっくにそちらに移動している」
「筋は通っている」とタマルは言った。「ところであんたはどうやって、青豆と川奈天吾のあいだに繋がりがあることを探り当てたのだろう?」
「足を使った」
「どんな具合に?」
「青豆の経歴を片端から洗ってみた。子供時代にまで遡って。彼女は市川市の公立小学校に通っていた。川奈天吾も市川の出身だ。それでひょっとしてと思った。小学校まで行って調べてみると案の定、二人は二年間同じクラスだった」
タマルは喉の奥で猫のように小さくうなった。「なるほどね。実に粘り強い調査をするんだな、牛河さん。ずいぶん時間と手間がかかっただろう。感服するよ」
牛河は黙っていた。今のところ何も質問されていない。
「繰り返して尋ねるが」とタマルは言った。「今のところ、青豆と川奈天吾の繋がりを知っている人間はあんた一人しかいない」
「おたくが知っている」
「俺は別にして、あんたのまわりで、ということだよ」
牛河は肯いた。「こちらの関係者でそのことを知っているのは私しかいない」
「嘘じゃないよな?」
「嘘じゃない」
「ところであんたは青豆が妊娠していることを知っているか?」
「妊娠?」と牛河は言った。その声には驚愕の響きが聞き取れた。「誰の子供を?」
タマルはその質問には答えなかった。「本当にそのことを知らなかったのか?」
「知らなかった。嘘じゃない」
タマルは牛河の反応が本物かどうかを、しばらく無言のうちに探っていた。それから言った。
「わかった。知らなかったというのは本当のようだな。信じよう。ところで麻布の柳屋敷のことをあんたはしばらく嗅ぎ回っていた。それに間違いないな?」
牛河は肯いた。
「なぜだ?」
「その屋敷の女主人は近所の高級スポーツ・クラブに通っていて、その個人インストラクターを青豆がつとめていた。二人は個人的に親しい関係を結んでいるように見えた。そしてその女性は、家庭内暴力をふるわれた女たちのためのセーフハウスを、敷地の隣地に設けていた。警備はとても厳重だった。私の目から見ればいささか厳重すぎた。当然ながらそのセーフハウスに青豆が匿われているんじゃないかと推測した」
「それで?」
「しかし考えた末に、そうではないと思った。その女性には金と力がたっぷりある。そういう人間は、もし仮に青豆を匿うとしても自分の膝元に置いたりしない。できるだけ遠くにやろうとするはずだ。だから麻布の屋敷をそれ以上探るのはやめて、川奈天吾の線を押すことにした」
タマルは再び小さくうなった。「あんたはなかなか勘が良いし、論理的に頭を働かせることもできる。辛抱強くもある。ただの使い走りにしておくのは惜しいな。ずっとこの仕事をしているのか?」
「以前は弁護士を開業していた」と牛河は言った。
「なるほど。さぞかし腕はよかったんだろうな。しかしいささか調子に乗ってやりすぎて、途中で滑ってすてんと転んだ。今では落ちぶれて、小遣い銭目当てに新興宗教教団の使い走りをしている。そんなところだろう」
牛河は肯いた。「そんなところだ」
「仕方ないさ」とタマルは言った。「俺たちみたいなはぐれものが腕一本で、世間の表側に出て生きていくのは生やさしいことじゃない。うまく行きかけたように見えても必ずどこかで転ぶ。世の中はそういう風にできているんだ」、彼は拳を固めて関節の音を立てた。鋭い不吉な音だった。「それで、柳屋敷のことは教団に話したのか?」
「誰にも言っていない」と牛河は正直に言った。「柳屋敷が匂うというのはあくまで個人的推測に過ぎない。警備が厳しすぎたし確証までは得られなかった」
「それはよかった」とタマルは言った。
「きっとおたくが仕切っていたんだろう?」
タマルは答えなかった。彼は質問をする側の人間であり、相手の質問に答える必要はない。
「あんたは今までのところ、こちらの質問に対して嘘をついていない」とタマルは言った。「少なくとも大筋ではな。一度海の底を潜らされると、嘘をつく気力が失われてしまう。無理に嘘をついてもすぐに声に出るからな。恐怖がそうさせるんだ」
「嘘はついてない」と牛河は言った。
「そいつはよかった」とタマルは言った。「好んで余計な苦痛を味わうことはない。ところでカール・ユングのことは知っているか?」
牛河は目隠しの下で思わず眉をひそめた。カール・ユング? この男はいったい何の話をしようとしているのだ。「心理学者のユング?」
「そのとおり」
「いちおうのことは」と牛河は用心深く言った。「十九世紀末、スイス生まれ。フロイトの弟子だったがあとになって袂を分かった。集合的無意識。知っているのはそれくらいだ」
「けっこう」とタマルは言った。
牛河は話の続きを待った。
タマルは言った。「カール・ユングはスイスのチューリッヒ湖畔の静かな高級住宅地に瀟洒な家を持って、家族とともにそこで裕福な生活を送っていた。しかし彼は深い思索に耽るための、一人きりになれる場所を必要としていた。それで湖の端っこの方にあるボーリンゲンという辺鄙な場所に、湖に面したささやかな土地を見つけ、そこに小さな家屋を建てた。別荘というほど立派なものじゃない。自分で石をひとつひとつ積んで、丸くて天井が高い住居を築いた。すぐ近くにある石切場から切り出された石だ。当時スイスでは石を積むためには石切工の資格が必要だったので、ユングはわざわざその資格を取った。組合《ギルド》にも入った。その家屋を建てることは、それも自分の手で築くことは、彼にとってそれくらい重要な意味を持っていたんだ。母親が亡くなったことも、彼がその家屋を造るひとつの大きな要因になった」
タマルは少し間をおいた。
「その建物は『塔』と呼ばれた。彼はアフリカを旅行したときに目にした部落の小屋に似せて、それをデザインしたんだ。ひとつも仕切りのない空間に生活のすべてが収まるようにした。とても簡素な住居だ。それだけで生きていくには十分だと彼は考えた。電気もガスも水道もなし。水は近くの山から引いた。しかしあとになって判明したことだが、それはあくまでひとつの元型に過ぎなかった。やがて『塔』は必要に応じて仕切られ、分割され、二階がつくられ、その後いくつかの棟が付け足された。壁に彼は自らの手で絵を描いた。それはそのまま個人の意識の分割と、展開を示唆していた。その家屋はいわば立体的な曼荼羅《まんだら》として機能したわけだ。その家屋がいちおうの完成を見るまでに約十二年を要した。ユング研究者にとってはきわめて興味深い建物だ。その話は聞いたことがあるか?」
牛河は首を振った。
「その家はまだ今でもチューリッヒ湖畔に建っている。ユングの子孫によって管理されているが、残念ながら一般には公開されていないから、内部を目にすることはできない。話によればそのオリジナルの『塔』の入り口には、ユング自身の手によって文字を刻まれた石が、今でもはめ込まれているということだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』、それがその石にユングが自ら刻んだ言葉だ」
タマルはもう一度間をおいた。
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と彼はもう一度静かな声で繰り返した。
「意味はわかるか?」
牛河は首を振った。「いや、わからない」
「そうだよな。どういう意味だか俺にもよくわからん。あまりにも深い暗示がそこにはある。解釈がむずかしすぎる。でもカール・ユングは自分がデザインして、自分の手で石をひとつひとつ積んで建てた家の入り口に、何はともあれその文句を、自分の手で鑿を振るって刻まないではいられなかったんだ。そして俺はなぜかしら昔から、その言葉に強く惹かれるんだ。意味はよく理解できないが、理解できないなりに、その言葉はずいぶん深く俺の心に響く。神のことを俺はよく知らん。というか、カトリックの経営する孤児院でずいぶんひどい目にあわされたから、神についてあまり良い印象は持っちゃいない。そしてそこは常に寒いところだった。夏のさなかでさえもだ。かなり寒いか、とんでもなく寒いか、そのどちらかだった。神様はもしいたとしても、俺に対して親切だったとはとても言えない。しかし、にもかかわらず、その言葉は俺の魂の細かい襞《ひだ》のあいだに静かに浸みこんでいくんだよ。俺はときどき目を閉じて、その言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。すると気持ちが不思議に落ち着くんだ。『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』。悪いけど、ちょっと声に出して言ってみてくれないか?」
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と牛河はよくわからないまま小さな声で言った。
「よく聞こえなかったな」
「『冷たくても、冷たくなくても、神はここにいる』」と牛河は今度はできるだけはっきりとした声で言った。
タマルは目を閉じ、しばらくその言葉の余韻を味わっていた。それからようやく何かを決断したように大きく深く息を吸い込み、そして吐いた。目を開け、自分の両手を眺めた。指紋を残さないために、両手は手術用の薄い使い捨て手袋に包まれていた。
「悪いな」とタマルは静かに言った。そこには厳粛な響きが聞き取れた。彼はビニール袋をもう一度手に取り、それを牛河の頭からすっぽりとかぶせた。そして太い輪ゴムで首のまわりを締めた。有無を言わせぬ迅速な動きだった。牛河は抗議の言葉を口にしようとしたが、その言葉は結局口にされなかったし、当然ながら誰の耳にも届かなかった。何故だ、と牛河はそのビニール袋の中で思った。知っているすべてを正直に語った。どうして今さら俺を殺さなくてはならないのだ。
彼は張り裂けそうな頭で中央林間の小さな一軒家のことと、二人の小さな娘のことを考えた。そこで飼っていた犬のことも思った。彼はその胴の長い小型犬をただの一度も好きになったことがなかったし、犬の方もただの一度も牛河を好きになったことがなかった。頭の悪い、よく鳴く犬だった。しょっちゅう絨毯を噛み、新しい廊下で小便をした。彼が子供の頃に飼っていた賢い雑種犬とはまるで違う。にもかかわらず、牛河が人生の最後に思い浮かべたのは、芝生の庭を駆け回っているそのろくでもない小型犬の姿だった。
牛河の縛りあげられた丸い体躯《たいく》が、地上に放り出された巨大な魚のように畳の上で激しくのたうつのを、タマルは目の隅で見ていた。身体が後ろに反る形に縛っていたから、どれだけ暴れても音が隣室に届く心配はない。その死に方がどれほど苦痛に満ちたものか、彼にはよくわかっていた。しかし人を殺すには、それがいちばん手際よくクリーンな方法なのだ。悲鳴も聞こえないし、血も流れない。彼の目はタグ・ホイヤーのダイバーズ・ウォッチの秒針を追っていた。三分が経過し、牛河の手脚の激しいばたつきが止んだ。それは何かに共振するようにぶるぶると細かく痙攣し、やがてぴたりと静止した。そのあと更に三分間、タマルは秒針を見つめた。それから首筋に手をやって脈を取り、牛河が生命のすべての徴候を失っていることを確認した。微かな小便の匂いがした。牛河がもう一度失禁したのだ。膀胱が今度は完全に開いてしまった。責めることはできない。それだけ苦しかったのだ。
彼は輪ゴムを首からはずし、ビニール袋を顔からむしりとった。ビニール袋は口の中にしっかりと食い込んでいた。牛河は両目を大きく見開き、口を斜めに曲げて開けて死んでいた。汚れた乱杭歯がむきだしになり、緑色の苔のはえた舌も見えた。ムンクが絵に描きそうな表情だった。もともといびつな大きな頭がその異形性を更に強調していた。よほど苦しかったのだろう。
「悪かったな」とタマルは言った。「こっちも好きでやっているわけじゃないんだ」
タマルは両手の指で押して牛河の顔の筋肉をほぐし、顎の関節を調整し、その顔を少しでも見やすいものに変えてやった。台所にあったタオルで口のまわりからよだれを拭いた。時間はかかったが、それでいくらかはましな見かけになった。少なくとも思わず目を背けたくなるものではなくなった。しかし瞼だけはどうしても閉じることができなかった。
「シェイクスピアが書いているように」とタマルはそのいびつな重い頭に向かって静かな声で語りかけた。「今日死んでしまえば、明日は死なずにすむ。お互い、なるたけ良い面を見るようにしようじゃないか」
『ヘンリー四世』だったか『リチャード三世』だったか、その台詞の出典が思い出せなかった。しかしそれはタマルにとってさして重要な問題ではなかったし、牛河が正確な引用源を今更知りたがるとも思えなかった。タマルは牛河の手足を縛った紐を解いた。肌にあとがつかないように柔らかいタオルの紐を使って、特殊な縛り方をしていた。彼はその紐と、頭にかぶせたビニール袋と、首に巻いた輪ゴムを集め、用意してきたビニールのバッグに入れた。牛河の持ち物をざっと調べ、彼が撮影した写真を一枚残らず回収した。カメラも三脚もバッグに入れて持ち帰ることにした。彼がここで誰かを監視していたことがわかると何かと面倒だ。いったい誰を監視していたのかということになる。その結果、川奈天吾の名前が浮上してくる可能性は大きい。ぎっしりと細かい書き込みのある手帳も回収した。あとには大事なものは何ひとつ残っていない。寝袋と食品と着替え、財布と鍵、そして牛河の気の毒な死体が残っているだけだ。最後にタマルは牛河の財布の中に何枚か入っていた「新日本学術芸術振興会専任理事」の肩書きのある名刺を一枚取り、自分のコートのポケットに入れた。
「悪かったな」、タマルは帰り際にもう一度牛河に声をかけた。
タマルは駅の近くで公衆電話のボックスに入り、テレフォン・カードをスリットに入れ、牛河から教えられた電話番号を押した。都内の番号だった。おそらくは渋谷区だろう。六回目のコールで相手が出た。
タマルは前置き抜きで、高円寺のアパートの住所と部屋番号を告げた。
「書き留めたか?」と彼は言った。
「もう一度繰り返していただけますか」
タマルは繰り返した。相手はそれを書き取り、復唱した。
「そこに牛河さんがいる」とタマルは言った。「牛河さんのことは知っているね?」
「牛河さん?」と相手は言った。
タマルは相手の発言を無視して続けた。「牛河さんはここにいて、残念ながらもう呼吸はしていない。見たところ自然死じゃない。財布に『新日本学術芸術振興会専任理事』という肩書きの名刺が何枚か入っている。警察がそいつを発見すれば、おたくとの繋がりが遅かれ早かれわかるだろう。そうなると時節柄いささか面倒なことになるかもしれない。なるべく早く処理した方がいいんじゃないかな。そういうのはお得意なんだろう」
「あなたは?」と相手は言った。
「親切な通報者だよ」とタマルは言った。「こちらもあまり警察が好きじゃないんだ。おたくらと同じくらい」
「自然死じゃない?」
「少なくとも老衰ではないし、安らかな死でもなかった」
相手はしばらく沈黙した。「それで、その牛河さんはそんなところでいったい何をしていたんでしょう?」
「それはわからないな。詳しいことは牛河さんに訊いてみるしかないが、さっきも言ったように、彼は返事をかえせる状態にはない」
相手は少し間を置いた。「あなたはおそらくホテル・オークラにやって来た若い女性と関わりのある人なのでしょうね?」
「それは答えの返ってくるあてのない質問だ」
「私はその女性に会ったことのある人間です。そう言えばわかります。彼女に伝えていただきたいことがあります」
「聞こえているよ」
「我々は彼女に害をなすつもりはありません」と相手は言った。
「あんた方は彼女の行方を必死に追っていると理解しているが」
「そのとおりです。我々はずっと彼女の行方を探しています」
「しかし彼女に害をなすつもりはないと言う」とタマルは言った。「その根拠は?」
返事がかえってくる前に短い沈黙があった。
「簡単に言えばある時点で状況が変化したのです。もちろんリーダーの死はまわりの人々によって深く悼まれています。とはいえそれはもう終了し、完結した案件です。リーダーは身体を病み、ある意味では自らに終止符を打つことを求めていました。ですから我々としてはそのことに関して、青豆さんをこれ以上追及するつもりはありません。我々が今求めているのは彼女と語り合うことです」
「何について?」
「共通の利害についてです」
「しかしそれはあくまでそちらの都合に過ぎない。そちらにとって彼女と語り合うことが必要だとしても、彼女の方はそんなことを求めていないかもしれない」
「話し合いの余地はあるはずです。我々のほうからあなた方に差し出せるものはあります。たとえば自由と安全です。そして知識と情報です。どこか中立的な場所で話し合いを持つことはできませんか。どこでもいい、そちらが指定する場所に出向きます。安全は百パーセント保障します。彼女だけではなく、今回の件に関わった全員の安全を保障します。誰ももうこれ以上逃げまわる必要はありません。お互いにとって悪い話ではないはずです」
「とあんたは言う」とタマルは言った。「しかしその提案が信用できるという根拠はない」
「とにかく青豆さんに伝言をお伝えねがえませんか」と相手は辛抱強く言った。「事態は急を要していますし、我々にもまだいくらか譲れる余地はあります。信頼性についてのより具体的な根拠が必要であれば、それについても考えましょう。ここに電話をかけてもらえれば、いつでも連絡はつきます」
「もう少しわかりやすく事情を話してもらえないかな。なぜあんた方がそこまで彼女を必要とするのか。いったい何が持ち上がって状況がかくも変化したのか」
相手は小さく一度呼吸をした。そして言った。「我々は声を聞き続けなくてはなりません。我々にとっては豊かな井戸のようなものです。それを失うわけにはいきません。ここで申し上げられるのはそれくらいです」
「そしてその井戸を維持するために、あんた方は青豆を必要としている」
「一口で説明できることではありません。それにかかわったことだ、と申し上げるしかありません」
「深田絵里子はどうなんだ、あんた方は彼女をもう必要とはしていないのか?」
「我々は深田絵里子を今の時点でとくに必要とはしていません。彼女がどこにいて何をしようとかまわない。彼女はその使命を終えました」
「どんな使命を?」
「微妙な経緯があります」と相手は少し間を置いて言った。「申し訳ないが、ここでこれ以上詳しい事情を明かすことはできません」
「置かれた立場をよく考えた方がいい」とタマルは言った。「今のところゲームのサーブ権はこちらにある。こちらからは自由に連絡が取れるが、そちらからは取れない。我々が誰かということすらあんた方にはわかっていない。そうじゃないか?」
「そのとおりです。主導権は今のところそちらにあります。あなたが誰かも知りません。しかしそれでもなお、これは電話で語り合えるような事柄ではないのです。これまでにお話ししただけでも、私は既に話し過ぎています。おそらく与えられた権限以上に」
タマルはひとしきり沈黙した。「いいだろう。提案について考えてみよう。こちらとしても相談をする必要がある。後日連絡することになるかもしれない」
「連絡を待っています」と相手は言った。「繰り返すようですが、これはどちらにとっても悪い話ではありません」
「もし我々がその提案を無視するか拒否すれば?」
「そうなれば、我々のやり方でやるしかありません。我々はいささかの力を持っています。ものごとは心ならずもいくぶん荒っぽくなるかもしれないし、まわりの人々にも迷惑が及ぶかもしれません。あなた方が誰であれ、無傷では切り抜けられないはずです。それはおそらくお互いにとって愉快とは言えない展開になるでしょう」
「そうかもしれない。しかし話がそこまで行くには時間がかかりそうだ。そしてあんたの言葉を借りれば、事態は急を要している」
相手の男は軽く咳払いをした。「時間はかかるかもしれません。あるいはまた、それほどかからないかもしれません」
「実際にやってみなくてはわからない」
「そのとおりです」と相手は言った。「それから、もうひとつ指摘しておかなくてはならない大事なポイントがあります。あなたの比喩をそのままお借りするなら、たしかにあなた方はゲームのサーブ権を持っておられる。しかしこのゲームの基本的なルールをまだよくご存じないようだ」
「それも実際にやってみなくてはわからないことだ」
「実際にやってみて、うまくいかなければ面白くないことになります」
「お互いに」とタマルは言う。
いくつかの暗示を含んだ短い沈黙があった。
「それで、牛河さんのことはどうする?」とタマルは尋ねた。
「早い機会にこちらで引きとりましょう。今夜中にでも」
「部屋の鍵はかかっていないよ」
「それはありがたい」と相手は言った。
「ところでそちらでは、牛河さんの死は深く悼まれることになるのだろうか?」
「誰であれ、人の死はここでは常に深く悼まれます」
「悼んでやった方がいい。それなりに有能な男だった」
「でも[#傍点]十分に[#傍点終わり]ではなかった。そういうことですね?」
「永遠に生きられるほど有能な人間はどこにもいない」
「あなたはそう考える」と相手は言った。
「もちろん」とタマルは言った。「俺はそう考える。あんたはそう考えないのか?」
「連絡をお待ちしています」、相手はその質問には答えずに冷ややかな声で言った。
タマルは黙って電話を切った。それ以上の会話は不要だった。必要があればまたこちらから電話をかければいい。電話ボックスを出ると、彼は車を停めておいた場所まで歩いた。くすんだ紺色の旧型トヨタ・カローラのバン、目立ちようのない車だ。十五分ばかり車を走らせ、人気のない公園の前で停まり、人目がないことを確認してから、ゴミ入れにビニール袋と紐と輪ゴムを捨てた。手術用の手袋も捨てた。
「人の死はそこでは常に深く悼まれる」とタマルはエンジンをかけ、シートベルトを締めながら小さくつぶやいた。そいつはなによりなことだ、と彼は思う。人の死はすべからく悼まれるべきなのだ。たとえほんの短い時間であったとしても。