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1Q84 (3-26)

时间: 2018-10-13    进入日语论坛
核心提示:第26章 青豆      とてもロマンチックだ 火曜日の正午過ぎに電話のベルが鳴る。青豆はヨーガマットに座って脚を大きく開
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 第26章 青豆
      とてもロマンチックだ
 
 
 火曜日の正午過ぎに電話のベルが鳴る。青豆はヨーガマットに座って脚を大きく開き、腸腰筋《ちょうようきん》のストレッチングをしていた。見かけの割りに過酷な運動だ。着ているシャツに汗がうっすらと滲んでいる。青豆は運動を中止し、顔をタオルで拭きながら受話器を取る。
「福助頭はもうあのアパートにはいない」、タマルはいつものように前置き抜きでそう切り出す。[#傍点]もしもし[#傍点終わり]も何もない。
「もういない?」
「いなくなった。説得されて」
「説得された」と青豆は反復する。福助頭はタマルによって、何らかのかたちで強制的に排除されたということなのだろう。
「そしてあのアパートに住む川奈という人物は、あんたの探している川奈天吾だ」
 青豆のまわりで世界が膨らんだり縮まったりする。彼女の心臓そのもののように。
「聞いているか?」とタマルが尋ねる。
「聞いている」
「ただし川奈天吾は今、あのアパートにはいない。何日か留守をしている」
「彼は無事なの?」
「今東京にはいないが、無事であることは間違いなかろう。福助頭は川奈天吾の住んでいるアパートの一階の部屋を借りて、あんたが彼に会いにそこにやってくるのを待ち受けていた。隠しカメラを設置して玄関を見張っていた」
「私の写真を撮ったの?」
「三枚撮っていた。夜だったし、帽子を深くかぶって、眼鏡をかけて、スカーフで顔を隠していたから細かい顔立ちまではわからん。しかし間違いなくあんただ。もう一度あそこに行っていたら、おそらく面倒なことになっていただろう」
「あなたにまかせて正解だったのね?」
「もしそこに正解というものがあるなら」
 青豆は言う。「でもとにかく、彼はもう心配ない存在になった」
「もうあの男があんたに害を及ぼすことはない」
「あなたに[#傍点]説得された[#傍点終わり]から」
「調整の必要な局面はあったが、最終的には」とタマルは言う。「写真もすべて取り上げた。福助頭の目的はあんたが姿を見せるのを待つことで、川奈天吾はそのための生き餌に過ぎなかった。だから彼らが川奈天吾に危害を加える理由は今のところ見当たらない。無事であるはずだ」
「よかった」と青豆は言う。
「川奈天吾は代々木の進学予備校で数学を教えている。教師としては有能なようだが、週に数日しか働かないから、多くの収入を得ているわけではなさそうだ。まだ独身で、あの謙虚な見かけのアパートで、一人つつましい生活を送っている」
 目を閉じると耳の中で心臓の鼓動が聞こえる。世界と自分とのあいだの境目がうまく見えない。
「予備校の数学講師をつとめるかたわら、自分の小説を書いている。長い小説だ。『空気さなぎ』のゴーストライターはただのアルバイトで、自前の文学的野心がある。良いことだ。適度な野心は人を成長させる」
「それをどうやって調べたの?」
「留守だったので、勝手に部屋に入らせてもらった。鍵はかかっていたが、鍵のうちには入らないようなものだった。プライバシーを侵害して悪いとは思ったが、いちおう基礎的な調査をしておく必要があった。男の一人暮らしにしては、部屋はきれいに片付いていた。ガスレンジも磨いてあった。冷蔵庫の中も清潔に整理され、奥の方でキャベツが腐っていたりはしなかった。アイロンをかけている形跡もある。伴侶として悪くない相手だ。もしゲイじゃなければということだが」
「ほかにどんなことがわかったの?」
「予備校に電話をかけて、彼の講義の予定を尋ねた。電話に出た女性によれば、川奈天吾の父親が日曜日の深夜に、千葉県のどこかの病院で亡くなった。それで彼は葬儀のために東京を離れなくてはならなかった。だから月曜日の講義はキャンセルになっている。どこでいつ葬儀が行われるのか、彼女は知らなかった。とにかく次の講義は木曜日で、どうやらそれまでには東京に戻るらしい」
 天吾の父親がNHKの集金人をしていたことをもちろん青豆は記憶している。日曜日に天吾は父親と一緒に集金ルートを回っていた。市川市内の路上で何度か顔を合わせたことがある。父親の顔はよく思い出せない。痩せた小柄な男で、集金人の制服を着ていた。そして天吾にはまったく似ていなかった。
「もう福助頭がいないのなら、私は天吾くんに会いに行っていいのかしら?」
「それはよした方がいい」とタマルは即座に言う。「福助頭はうまく[#傍点]説得された[#傍点終わり]。しかし実を言うと、俺は用件をひとつ片付けてもらうために教団に連絡を入れなくてはならなかった。できることなら法務関係者の手には渡したくない品物がひとつあった。もしそれが見つかれば、アパートの住人はしらみつぶしに調べ上げられるだろう。君の友人も巻き添えをくうことになるかもしれない。そして俺一人でそいつを始末するのはかなり骨だった。真夜中に一人でえっちらおっちら品物を運んでいるところを法務関係者に職務質問でもされたら、いくらなんでも言い抜けられない。教団には人手も機動力もあるし、その手の作業には手慣れている。ホテル・オークラから別の品物を運び出したときのようにな。言いたいことはわかるな?」
 青豆はタマルの使った用語を、頭の中で現実的な言葉に翻訳する。「[#傍点]説得[#傍点終わり]はずいぶん荒っぽいかたちをとったみたいね」
 タマルは小さくうなる。「気の毒だが、その男はあまりに多くを知りすぎていた」
 青豆は言う。「福助頭があのアパートで何をしていたか、教団は承知しているの?」
「福助頭は教団のために働いてはいたが、これまでのところ単独行動をとっていた。自分が今どんなことをしているか上にはまだ報告していなかった。こちらにとっては好都合なことに」
「しかし彼がそこで[#傍点]何かをしていた[#傍点終わり]ことは、今では彼らにもわかっている」
「そのとおりだ。あんたはしばらくあそこに近寄らない方がいい。川奈天吾の名前と住所は『空気さなぎ』の執筆者として彼らのチェックリストに載っているはずだ。連中はおそらくまだ、川奈天吾とあんたとの個人的な繋がりを掴んではいない。しかしあのアパートの一室に福助頭がいた理由を追求していけば、やがては川奈天吾の存在が浮かび上がってくる。時間の問題だ」
「しかしうまくいけば、それが判明するまでに時間はけっこうかかるかもしれない。福助頭の死と天吾くんの存在はすぐには結びあわされないかもしれない」
「うまくいけば」とタマルは言う。「もし連中が、俺の予想しているほど注意深くなければな。しかし俺は[#傍点]うまくいけば[#傍点終わり]という仮定をあてにしないことにしている。だからこそ今までいちおう大過なく生き延びてきた」
「だから私はあのアパートには近づかない方がいい」
「もちろん」とタマルは言う。「俺たちは紙一重のところで生きているんだ。注意深くなりすぎるということはない」
「福助頭は、私がこのマンションに隠れていることを掴んでいたのかしら」
「もし掴んでいたら、あんたは今ごろどこか俺の手の届かないところにいる」
「でも彼はすぐ私の足もとまで近寄っていた」
「そのとおりだ。しかし俺が思うに、おそらく何かの偶然がやつをそこに導いたのだろう。それ以上のものではないはずだ」
「だから無防備に自分の姿を滑り台の上に晒していた」
「そうだ。そこにいる自分があんたに目撃されていることをやつはまったく知らなかった。予測もしなかった。それが結局は命取りになった」とタマルは言う。「言っただろう。人の生き死になんて、すべて紙一重なんだよ」
 数秒の沈黙が降りる。人の死が——たとえ誰の死であれ——もたらす重い沈黙だ。
「福助頭はいなくなったけれど、教団はまだ私を追い続けている」
「そこが俺にも、もうひとつわかりづらいところだ」とタマルは言う。「やつらは最初のうちはあんたを捕まえ、リーダーの殺害計画の裏にどんな組織がついているのか突き止めようとしていた。あんた一人だけではあそこまでのお膳立てはできない。なんらかのバックがついていることは誰の目にも明らかだ。捕らえられたらきっときつい尋問が待っていただろう」
「そのために私は拳銃を必要としていた」と青豆は言う。
「福助頭もまた当然そのように理解していた」とタマルは続ける。「教団があんたを追っているのは尋問し処罰するためだと思いこんでいた。しかしどうやら途中から事情が大きく変わったようだ。福助頭が舞台から消えたあと、俺は連中の一人と電話で話をした。もうあんたに危害を加えるつもりはないとその相手は言った。そのことをあんたに伝えてほしいと。もちろん罠かもしれない。しかし俺の耳にはそれは本音のように聞こえた。リーダーの死はある意味では本人が進んで求めていたものだと、その男は俺に説明した。それはいわば自死のようなものであり、だからそのことで今さらあんたを罰する必要はないんだと」
「そのとおりよ」と青豆は乾いた声で言う。「リーダーは私が自分を殺しに来ることを最初から承知していた。そして私に殺されることを求めてもいた。あの夜、ホテル・オークラのスイートルームで」
「警備の連中はあんたの正体を見抜けなかった。でもリーダーは知っていた」
「そう、どうしてかはわからないけれど、彼はすべてを前もって知っていた」と青豆は言う。
「彼はそこで[#傍点]私を待っていた[#傍点終わり]のよ」
 タマルは少し間をおき、それから言う。「そこで何があったんだ?」
「私たちは取り引きをした」
「その話を俺は聞いていない」とタマルはこわばった声で言う。
「話す機会がなかった」
「どんな取り引きだったか今、説明してくれ」
「私は彼に一時間ばかり筋肉ストレッチングをして、そのあいだ彼は話をした。彼は天吾くんのことを知っていた。私と天吾くんの繋がりのこともなぜか知っていた。そして彼は私に自分を殺してほしいと言った。限りなく続く激しい肉体の苦痛から一刻も早く解放してもらいたいと。自分に死を与えてくれれば、かわりに天吾くんの命を助けてあげられるとも言った。だから私は心を決めて彼の命を奪った。あえて私が手を下さなくても、彼は確実に死に向かっていたし、その男がそれまでやってきた行いを思えば、そのまま苦しみの中に置き去りにしたかったのだけれど」
「そしてその取り引きのことを、あんたはマダムに報告しなかった」
「私はリーダーを殺害するためにあそこに出向き、その使命を果たした」と青豆は言う。「そして天吾くんのことは、どちらかといえば私個人の問題だった」
「よかろう」とタマルは半ばあきらめたように言う。「たしかにあんたは使命を十分果たした。それは認めよう。そして川奈天吾の問題はあんたの個人的な範疇《はんちゅう》にあることだ。ただしその前後にあんたはなぜか妊娠している。そいつは簡単には見過ごせない問題になる」
「[#傍点]前後[#傍点終わり]じゃない。激しい落雷があって、都心に大雨が降ったあの夜に、私は受胎したの。私がリーダーを[#傍点]処理した[#傍点終わり]まさにその夜に。前にも言ったように、性的な交渉はいっさい抜きで」
 タマルはため息をつく。「問題の性格からして、俺としてはあんたの言い分をすべて信用するか、まったく信用しないか、どちらかしかない。俺はこれまであんたを信用するに足る人間だと考えてきたし、今もあんたの言い分を信用したいと思っている。しかしこの件に関しては、どうしても話の筋道が見えてこない。俺はどちらかと言えば、演繹的な考え方しかできない人間だからな」
 青豆は沈黙を続ける。
 タマルは尋ねる。「リーダーの殺害とその謎の受胎とのあいだに、何か因果関係はあるのだろうか?」
「私には何とも言えない」
「ひょっとして、あんたのお腹の中にいる胎児がリーダーの子供だという可能性は考えられないか? どんな方法だかはわからんが、なんらかの方法をとって、リーダーがそのときにあんたを妊娠させたと。もしそうであれば、連中があんたの身柄をなんとか手に入れようとしているわけはわかる。彼らはリーダーの後継を必要としている」
 青豆は受話器を握りしめ、首を振る。「そんなことはあり得ない。これは天吾くんの子供なの。私にはそれがわかる」
「それについても、俺としてはあんたを信じるか信じないか、どちらかしかない」
「私にもそれ以上の説明はできない」
 タマルはもう一度ため息をつく。「よかろう。ここはあんたの言うことをひとまず受け入れよう。それはあんたと川奈天吾との間の子供だ。あんたにはそれがわかる。しかしそれにしてもものごとの筋道がまだ見えてこない。彼らは最初のうちはあんたを捕まえて厳しく罰しようとしていた。しかしある時点で何かが起こった。あるいは何かが判明した。そして彼らは今ではあんたを[#傍点]必要としている[#傍点終わり]。あんたの安全を保障するし、彼らの側にもあんたに対して与えられるものがあると言う。そしてそのことについてじかに話し合いたいと望んでいる。いったい何があったのだろう?」
「彼らは私を必要としているんじゃない」と青豆は言う。「必要としているのは、私のお腹の中にいるものだと思う。彼らはどこかの時点でそれを知ったのよ」
「ほうほう」とはやし役のリトル・ピープルがどこかで声を上げる。
「話の展開が俺にはいささか速すぎる」、タマルはそう言う。そしてもう一度喉の奥で小さくうなる。「脈絡がまだ見えてこない」
 脈絡が通らないのは月が二個あるからよ、と青豆は思う。それがすべてのものごとから脈絡を奪っているのよ。しかし口には出さない。
「ほうほう」と残りの六人のリトル・ピープルがどこかで声を合わせる。
 タマルは言う。「彼らは[#傍点]声を聴くもの[#傍点終わり]を必要としている。俺が電話で話をした相手はそう言った。その声を失ってしまえば、教団はこのまま消滅するかもしれないと言う。声を聴くというのが具体的に何を意味するのか、俺にはわからん。しかしとにかくそれが、その男の口にしたことだ。つまりあんたのお腹の中にいる子供が、その〈声を聴くもの〉ということになるのか?」
 彼女は自分の下腹部にそっと手をやる。マザとドウタ、と青豆は思う。声には出さない。月たちに[#傍点]それ[#傍点終わり]を聞かせてはならない。
「私にはわからない」と青豆は用心深く言葉を選んで言う。「でもそのほかに彼らが私を必要とする理由が思いつけない」
「しかしいったいどのような理由で、川奈天吾とあんたとのあいだにできる子供が、そんな特別な能力を身につけることになるのだろう?」
「わからない」と青豆は言う。
 あるいはリーダーは自分の生命と引き替えに、自分を後継するものを私に託そうとしたのかもしれない。そんな考えが青豆の頭に浮かぶ。リーダーはそのためにあの雷雨の夜、異なった世界を交差させる回路を一時的に開いて、私と天吾くんとをひとつに結び合わせたのかもしれない。
 タマルは言う。「それが誰との間の子供であるにせよ、その子供がどんな能力を持って生まれてくるにせよ、教団と取り引きをするつもりはあんたにはない。そういうことだな? たとえ引き替えに何を得られるとしても。たとえそこにあるいろんな謎を彼らが進んで解き明かしてくれるとしても」
「どんなことがあろうと」と青豆は言う。
「しかしあんたの思惑には関係なく、彼らは力ずくでも[#傍点]それ[#傍点終わり]を手に入れようとするだろう。あらゆる手を尽くして」とタマルは言う。「そしてあんたには川奈天吾という弱点がある。ほとんど唯一の弱点と言ってもいいかもしれない。しかし大きな弱点だ。そのことを知ったら、連中は間違いなくそこを集中して突いてくるに違いない」
 タマルの言うことは正しい。川奈天吾は青豆にとって生きるための意味であると同時に、致命的な弱点でもある。
 タマルは言う。「その場所にこれ以上留まるのは危険すぎる。やつらが川奈天吾とあんたとの繋がりを知る前に、もっと安全なところに移るべきだ」
「今となっては、[#傍点]この世界[#傍点終わり]のどこにも安全な場所なんてない」と青豆は言う。
 タマルは彼女の意見を玩味《がんみ》する。そして静かに口を開く。「そちらの考えを聞かせてもらおう」
「私はまず天吾くんに会わなくてはならない。それまではここを離れるわけにはいかない。たとえそれがどれほどの危険を意味するとしても」
「彼に会って何をする?」
「何をすればいいのか私にはわかっている」
 タマルは短く沈黙する。「一点の曇りもなく?」
「それがうまく行くかどうかはわからない。でもやるべきことはわかっている。一点の曇りもなく」
「でもその内容を俺に教えるつもりはない」
「悪いけれど今はまだ教えることはできない。あなただけではなくほかの誰にも。もし私がそれを口にしたら、きっとそのとたんに世界中に露見してしまうだろうから」
 月たちが耳を澄ましている。リトル・ピープルが耳を澄ましている。部屋が耳を澄ましている。それは彼女の心から一歩たりとも外に出してはならない。厚い壁でしっかりと心を囲まなくてはならない。
 タマルは電話の向こうでボールペンの頭を机に打ち付けている。こつこつという規則的な乾いた音が青豆の耳に届く。響きを欠いた孤独な音だ。
「よかろう。川奈天吾に連絡をつけるようにしよう。ただしその前にマダムの同意を得る必要がある。俺が与えられた命令は、一刻も早くあんたをそこからよその場所に移すことだった。しかしあんたは川奈天吾に会うまではどうしてもそこを離れられないと言う。その理由を彼女に説明するのは簡単じゃなさそうだ。それはわかるな?」
「論理の通らないことを論理的に説明するのはとてもむずかしい」
「そういうことだ。六本木のオイスター・バーで本物の真珠に巡り合うくらいむずかしいかもしれない。でもなんとか努力してみよう」
「ありがとう」と青豆は言う。
「あんたの主張することは、どれをとってもまったく脈絡がとおってないように俺には思える。原因と結果のあいだに論理的な繋がりが見当たらない。それでもこうして話しているうちにだんだん、あんたの言い分をとりあえずそのまま受け入れてもいいような気がしてくる。それはどうしてだろう」
 青豆は沈黙を守る。
「そして彼女はあんたを個人的に信頼し、信用している」とタマルは言う。「だからあんたがそれだけ強く主張するとなれば、あんたと川奈天吾を引き会わせないための理由は、マダムにもおそらく思いつけないのではないかと思う。どうやらあんたと川奈天吾とは、揺るぎがたく結びついているらしい」
「世界中の何よりも」と青豆は言う。
 [#傍点]どの世界にある何よりも[#傍点終わり]、と青豆は心の中で言い直す。
「そしてもし」タマルは言う、「そいつは危険すぎると俺が言って、川奈天吾に連絡をつけることを拒んだとしても、あんたはきっと彼に会うためにあのアパートに出向くのだろうな」。
「間違いなくそうすると思う」
「それを阻止することは誰にもできない」
「無理だと思う」
 タマルは少し間を置く。「それで俺は、どのような伝言を川奈天吾に伝えればいいのだろう?」
「暗くなってから、滑り台の上に来てほしい。暗くなってからであればいつでもいい。私は待っている。青豆がそう言っていると伝えてくれればわかる」
「わかった。そのように彼に伝える。[#傍点]暗くなってから滑り台の上に来るように[#傍点終わり]」
「それから、もしあとに残していきたくない大事なものがあったら、持ってきてほしい。そう伝えてほしい。ただし両手を自由に使えるようにしておいてほしい」
「どこまでその荷物を運んでいくんだろう?」
「遠くまで」と青豆は言う。
「どれくらい遠くだ?」
「わからない」と青豆は言う。
「いいだろう。マダムの許可が下りればということだが、川奈天吾にそのメッセージを伝えよう。そしてあんたのためにできる限りの安全を確保するように努める。俺なりに。しかしそれでもなお、危険はつきまとうだろう。連中も必死になっているようだ。自分の身はつまるところ自分で護るしかない」
「わかっている」と青豆は静かな声で言う。彼女の手のひらはまだ下腹部にそっと当てられている。[#傍点]自分の身だけじゃない[#傍点終わり]、と彼女は思う。
 
 電話を切ったあと、青豆は倒れ込むようにソファに座る。そして目を閉じ、天吾のことを思う。それ以外にはもう何を考えることもできない。胸はしめつけられるように苦しくなる。でもそれは心地の良い苦しさだ。いくらでも耐えられる苦しさだ。彼はやはり[#傍点]すぐそこ[#傍点終わり]に暮らしていたのだ。歩いて十分とかからないところに。そう思っただけで、身体が芯から温かくなった。彼は独身で、予備校で数学を教えている。整頓されたつつましい部屋に住み、調理をし、アイロンをかけ、長い小説を書いている。青豆はタマルをうらやましく思う。できることなら同じように天吾の部屋に入り込んでみたい。天吾のいない天吾の部屋に。その無人の静けさの中で、そこにあるものひとつひとつに手を触れてみたい。彼の使っている鉛筆の尖り具合を確かめ、彼の飲んでいるコーヒーカップを手に取り、衣服に残っている匂いを嗅いでみたい。実際に彼と顔を合わせる前に、そういう段階をひととおり踏んでおきたい。
 そういう前置き抜きで急に彼と二人きりになって、何をどう切り出せばいいのか、青豆には見当がつかない。そのことを想像すると呼吸が荒く速くなり、頭がぼんやりしてくる。あまりにも多くの語るべきことがある。それと同時にいざとなってみれば、語る必要のあることなんて何ひとつないようにも思える。彼女の語りたい事柄は、いったん言葉にしてしまうと大事な意味あいが失われてしまうものばかりなのだ。
 いずれにせよ、今の青豆にできるのは待つことだけだ。落ち着いて注意深く待つこと。彼女は天吾の姿を見かけたらすぐに走って外に出られるように、荷物の準備をする。そのままこの部屋に戻らなくても済むように、大ぶりな黒い革のショルダーバッグに必要なものを残らず詰め込む。それほど多くではない。現金の束と、当座の着替えと、フルに弾丸を装填したヘックラー&コッホ。それくらいだ。そのバッグをすぐに手の届くところに置く。ハンガーにかかったままのジュンコ・シマダのスーツをクローゼットから出し、しわがないことを確かめてから、居間の壁にかける。それにあった白いブラウスとストッキングとシャルル・ジョルダンのハイヒールも揃えておく。ベージュのスプリング・コートも。最初に首都高速道路の非常階段を降りたときと同じ服装だ。コートは十二月の夜にはいささか薄すぎる。しかし選択の余地はない。
 それだけの用意を調えると、ベランダのガーデンチェアに座り、目隠し板の隙間から公園の滑り台を見つめる。日曜日の深夜に天吾の父親は亡くなった。人の死亡が確認されてから火葬に付されるまでに、たしか二十四時間の経過が必要とされる。そういう法律があったはずだ。それで計算すると、火葬が行われるのは火曜日以降になる。今日が火曜日だ。天吾が葬儀を終え、その[#傍点]どこか[#傍点終わり]から東京に戻ってくるのは、早くても今日の夕方になるだろう。タマルが彼に私からの伝言を伝えるのは、更にそのあとになる。それより前に天吾が公園に来ることはあるまい。そしてまだあたりは明るい。
 リーダーは死に際して、私の胎内に[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]をセットしていった。それが私の推測だ。あるいは直感だ。とすれば結局のところ、私はあの死んだ男の遺していった意思に操られ、彼の設定した目的地に向けて導かれているということになるのか。
 青豆は顔を歪める。なんとも判断がつかない。私はリーダーの企みの結果〈声を聴くもの〉を受胎しているのではないかとタマルは推測する。おそらくは「空気さなぎ」として。でもなぜそれが[#傍点]この[#傍点終わり]私でなくてはならないのだ? そしてなぜその相手が川奈天吾でなくてはならないのだ? それも説明のつかないことのひとつだ。
 とにかくこれまで、前後のつながりがわからないまま、私のまわりでいろんな物事は進行してきた。その原理も方向もろくに見定められなかった。私は結果的にそこに巻き込まれたような形になっていた。しかし[#傍点]そこまで[#傍点終わり]だ、と青豆は心を決める。
 彼女は唇を曲げ、更に大きく顔を歪める。
 [#傍点]これから[#傍点終わり]は[#傍点]これまで[#傍点終わり]とは違う。私はもうこれ以上誰の勝手な意思にも操られはしない。これから私は自分にとってのただひとつの原則、つまり私の意思に従って行動する。私は何があろうと[#傍点]この小さなもの[#傍点終わり]を護る。そのために私は死力を尽くして闘う。これは私の人生であり、ここにいるのは私の子供なのだ。誰がどのような目的のためにプログラムしたものであれ、疑いの余地なくこれは私と天吾くんとの間にもうけられた子供だ。誰の手にも渡しはしない。何が善なるものであれ、何が悪なるものであれ、これからは私が原理であり、私が方向なのだ。誰であろうとそれだけは覚えておいた方がいい。
 
 翌日、水曜日の午後二時に電話のベルが鳴る。
「メッセージは伝えた」とタマルはやはり前置き抜きで言う。「彼は今、アパートの自分の部屋にいる。今朝、電話で話をした。彼は今夜七時きっかりに滑り台に行く」
「彼は私のことを覚えていた?」
「もちろんよく覚えていた。彼もあんたの行方をずいぶん探していたようだ」
 リーダーの言ったとおりだ。天吾もまた私を捜し求めていたのだ。それさえわかればもう十分だ。彼女の心は幸福に充たされる。この世界にあるほかのどんな言葉も、もはや青豆には意味を持たない。
「彼はそのときに大事なものを身につけて持っていくことになる。あんたに言われたように。俺の推測ではその中に書きかけの小説の原稿も含まれているはずだ」
「きっと」と青豆は言った。
「あのつつましいアパートのまわりをチェックしてみた。見たところクリーンだった。近辺に張りついている不審な人間は見あたらなかった。福助頭の部屋も無人だった。あたりは静かだったが、かといって静かすぎるというほどでもない。連中は夜中にこっそり品物を片づけて、そのまま立ち去ったようだ。長居をするとまずいと思ったのだろう。俺なりに綿密に見届けたから、おそらく見落としはないと思う」
「よかった」
「でもそれはあくまで[#傍点]おそらく[#傍点終わり]ということであり、[#傍点]今のところ[#傍点終わり]ということだ。事態は刻々変化する。俺だってもちろん完全じゃない。何か大事なポイントを見落としているかもしれない。ただ単に連中の方が俺より一枚上手だったという展開もあり得る」
「だからつまるところ自分の身は自分で護るしかない」
「前にも言ったように」とタマルは言う。
「いろいろありがとう。感謝している」
「あんたがこれからどこで何をしようとしているのかは知らない」とタマルは言う。「しかしあんたがこのままどこか遠くに行ってしまうとしたら、そしてこの先もう顔を合わすこともないのだとしたら、俺もいささか寂しく感じるだろう。あんたはごく控えめに表現して、なかなか得難いキャラクターだった。あんたのような人物にはそうお目にかかれない」
 青豆は電話口で微笑む。「私もそれとほぼ同じ感想をあなたに残したいと思う」
「マダムはあんたの存在を必要としていた。仕事抜きのいわば個人的な同伴者としてね。だからこういうかたちで離れなくてはならなかったことに深い悲しみを覚えている。今ここで彼女が電話に出ることはできない。理解してほしい」
「わかっている」と青豆は言う。「私もうまく話ができないかもしれない」
「遠くまで行くとあんたは言った」とタマルは言う。「どれほど遠くなのだろう?」
「それは数字では測ることのできない距離なの」
「人の心と人の心を隔てる距離のように」
 青豆は目を閉じ、深く息を吸う。もう少しで涙がこぼれそうになる。でもなんとかそれを押しとどめる。
 タマルは静かな声で言う。「ものごとがうまく運ぶことを祈っている」
「悪いけど、ヘックラー&コッホは返せないかもしれない」と青豆は言う。
「かまわない。個人的に進呈したものだ。持っているのが厄介になったら東京湾に捨てればいい。そのぶん世界はささやかだが非武装に一歩近づく」
「結局、最後まで拳銃は火を吹かないかもしれない。チェーホフの原則には背くようだけれど」
「それもかまわない。火を吹かないに越したことはない。今はもう二十世紀も終わりに近いんだ。チェーホフの生きていた時代とは何かと事情が違う。馬車も走っていないし、コルセットをつけたご婦人もいない。世界はナチズムと原爆と現代音楽を通過しつつも、なんとか生き延びてきた。そのあいだに小説作法だってずいぶん変化した。気にすることはない」とタマルは言う。「ひとつ質問がある。今夜の七時にあんたと川奈天吾は滑り台の上で会うことになっている」
「うまくいけば」と青豆は言う。
「もし彼に会えたとして、滑り台の上でいったい何をするんだ?」
「二人で月を見るの」
「とてもロマンチックだ」とタマルは感心したように言う。
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