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《两个院子》后记

时间: 2021-07-23    进入日语论坛
核心提示:あとがき(『二つの庭』)宮本百合子「伸子」の続篇をかきたい希望は、久しい間作者の心のうちにたくわえられていた。 一九三〇
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あとがき(『二つの庭』)

宮本百合子


「伸子」の続篇をかきたい希望は、久しい間作者の心のうちにたくわえられていた。
 一九三〇年の暮にモスク※(濁点付き片仮名ワ、1-7-82)から帰って、三一年のはじめプロレタリア文学運動に参加した当時の作者の心理は、自分にとって古典である「伸子」を、過去の作品としてうしろへきつく蹴り去ることで、それを一つの跳躍台として、より急速な、うしろをふりかえることない前進をめざす状態だった。
 一九三二年の春から、うちつづく検挙と投獄がはじまった。その期間に作者はしばしば一人の人間、女としての自分の人生について考えずにいられなかった。人間の生活が現在にあるよりももっと条理にかなった運営の方法をもち、互に理解しあえる智慧とその発露を可能にする社会の方がより人間らしく幸福だという判断、あこがれに、何の邪悪な要素があるだろう。よりひろやかで、充実した人間性を求めるということのために、権力は自由を奪い、人間檻のなかにうちこんで、時間に関する観念や自分のいる位置(ロケーション)についての観念を全く失わさせ、番号でよんで、法律でさばくという状態は、野蛮であり、資本主義の権力の非理性さである。一人の人間が歴史に目ざめるということ、歴史の現実そのものが一人の人間を社会主義への展望に成長させてゆく過程はヒューマニティそのものの問題である。思想検事が「ここにおいて被告はマルクス主義思想を抱懐するにいたり」と法廷でよみあげる告発の文書の文句とは、まるでちがった本質と道ゆきとをもつことである。
「伸子」の続篇を書きたいと思いはじめたのは、この時分からのことである。しかし、この願いは一九四五年の八月十五日が来るまで実現しなかった。「伸子」以後の伸子がめぐり合った現実は、一家庭内の紛糾だけではなかったし、恋愛と結婚に主題をおいた事件の連続だけでもなかった。一九二七八年からあとの日本の社会は、戦争強行と人権剥奪へ向って人民生活が坂おとしにあった時期であり、そこに生じた激しい摩擦、抵抗、敗北と勝利の錯綜こそ、「伸子」続篇の主題であった。そういう主題の本質そのものが、当時の社会状態では表現不可能であった。
「おもかげ」「ひろば」そのほか一二篇の未完の小説は、作者が、伸子の続篇をかきたがって試みた、せつなくて短い羽ばたきである。
「二つの庭」で伸子は二十七歳になっている。伸子は、社会認識の黎明にたっている。その客観のうすら明りのなかに、何とたくさんの激情の浪費が彼女の周囲に渦巻き、矛盾や独断がてんでんばらばらにそれみずからを主張しながら、伸子の生活にぶつかり、またそのなかから湧きだして来ていることだろう。
「伸子」で終った一巡の季節は、「二つの庭」で新しくめぐり来た一つの季節としての情景を展開している。そこには、いく種類かの愛と憎しみと混乱、哀愁と憐憫がある。そのどれもは、伸子の存在にかかわらず、それとしての必然に立って発生し、葛藤し、社会そのものの状態として伸子にかかわって来ている。伸子は伸子なりに渦巻くそれらの現実に対し、あながち一身の好悪や利に立っていうのではない批判をもちはじめている。日本の社会が、あらゆる階層を通じてとくに婦人に重く苦しい現実を強いていることは、人生を愛す気質をもって生れている伸子を一九二七年の空気のなかで、社会主義へ近づけずにいなかった。「二つの庭」で、伸子は、これまで人として女として自然発生にあった善意と理性が、人間行動にうつされた場合の形として、社会主義を見出している。しかし、「二つの庭」で、伸子は、まだそのような個人的善意の社会的行動に自分をゆだねてはいないのである。伸子は組織について無知であり、社会主義的な集団にも属していない。
「伸子」はやがて「二つの庭」からも出る。「道標」の根気づよい時期は、伸子が、新しい社会の方法とふるい社会の方法との間に、おどろくばかりのちがいを発見した時であり、伸子の欲望や感情も手きびしい嵐にふきさらされる。
 はじめ、ただ一本の線の上に奏せられていたアリアのような「伸子」の物語は、こうして、「二つの庭」においては、小さなクヮルテット(四重奏)となり、やがて「道標」では、コンチェルト(協奏曲)にかわってゆく。
 そして、「伸子」がそう変ってゆくことこそ現代のすべての人々の善意にとっての自然ではないだろうか。こんにちの社会で、理性ある平和を愛し、人間の尊重と発展とを願うひとは、ヒューマニティの課題として自身の幸福への欲求をも自覚しずにいられないのだから。
 そこにこそ、このひとつらなりの長篇に力を傾ける作者の歓喜と信頼がかくされている。「二つの庭」は、人間の善意が、次第に個人環境のはにかみと孤立と自己撞着から解きはなされて現代史のプログラムに近づいてゆく、その発端の物語としてあらわれる。
   一九四九年六月

〔一九四九年七月〕

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