あとがき(『宮本百合子選集』第一巻)
宮本百合子
「貧しき人々の群」は一九一六年、十八歳のときに書かれた。そして、その年の秋中央公論に発表された。
「貧しき人々の群」は、稚いけれども純朴な人道的なこころもちと、自然の豊富さ、人間生活への感動にたってかかれている。少女だったわたしは、日本の農村というものが、どんなに封建的な土地関係におかれており、また、どんなにその農業の方法がおくれているかということを知らなかった。農民生活のそれらの条件が、一方で益々発展する資本主義の経済機構から板ばさみをうけて、農村の貧しさ、野蛮さが、一層苦しいものとなっているという社会関係もしらなかった。それらについて知らなかったけれども、子供の頃より折々そこに暮して、村の街道の赭土に深くきざみつけられた轍のあとまで眼と心にしみついている東北の一寒村の人々の生活の感銘から、この小説をかいたのであった。
当時、日本の文学は、白樺派の人道主義文学の動きがあり、他方に、自然主義が衰退したあとの反射としておこった新ロマンティシズムの文学があった。谷崎潤一郎の「刺青」などを先頭として。同時に『新思潮』という文学雑誌を中心に芥川龍之介が「鼻」「羅生門」などを発表し、菊池寛が「無名作家の日記」を発表したりした時代であった。婦人作家として、野上彌生子が「二人の小さきヴァガボンド」を発表し、ヨーロッパ風な教養と中流知識人の人道的な作風を示した。「焙烙の刑」その他で、女性の自我を主張し、情熱を主張していた田村俊子はその異色のある資質にかかわらず、多作と生活破綻から、アメリカへ去る前位であった。
こういう文学の雰囲気の中に素朴な姿であらわれた「貧しき人々の群」は、少女の書いたものらしく、ロマンティックな色彩と子供っぽい社会観をもっていても、日本の農村の或る生活を、リアリスティックな筆致で描き出したところに特色があった。若い作者のおどろきに見はられた眼と心とを通じて、そこに描かれている穢いものまで、それが生活であるという真面目な光りを浴びている。中流の少女が、自分の環境から脱け出て、荒々しく生活の沸騰している場面に取材したということも、一つの特色であった。そして更にもう一つの特色は、この小説で、作者自身が自分の生きかたと文学とについて、一種の公約をしている点である。作者は、それが公約であるとは知らず、ただ心いっぱいの思いで、悲しい同胞よ、わたしはいつかきっとあなたがたの、もっとよい友となる、と約束している。
この願いとその実現のための努力とは、それからのち、三十年に亙る様々の変転、種々の困難と危機とを通じて今日までつづけられている。その間に、日本の社会は幾変転し、大衆の歴史は前進した。その歴史の歩みが、「貧しき人々の群」の作者をも成長させた。日本の文学がその発展として、文学の社会的意義の自覚と階級の観念を理解し摂取した。それが契機となって、わたしのぼんやりとしていた人道的善意は、次第に、自分をこめての民衆が発展する歴史の必然の方向を発見して行ったのであった。日本のプロレタリア文学運動が、社会と文学についてのその真実をわたしに知らせたのであった。
「日は輝けり」は一九一七年一月に発表された。大都会のゴタゴタのなかで、生活と闘いながら自分を成長させようとしている一人の青年を中心に、一つの家族を描こうとした。作者の未経験が許す限り、リアリスティックであろうとしている。けれども、今日の読者は、発見するだろう。この一生懸命で濃厚な作品に、本質的な未熟さとしてあるのは、庶民の生活感情と勤労者の生活感情とのちがいについて、作者がちっともわかっていないという点であるということを。
「一つの芽生」は、弟の死という事実に面して、その悲しみをどこまでも客観的に追究し、記録しておこうとする熱意によってかかれた短篇である。今日、よみかえしてみて興味のある点は、この短篇が、死という自然現象を克明に追跡しながら、弟をめぐる人間関係が、同じ比重で追究されていないところである。これは、なぜだったのだろう。
生きる歓喜にむせぶような心もちの少女が、死の迫って来る力、生命の消されてゆく過程に、息をのんで凝視したこともわかるが、しかし、人間関係が二次的に扱われたことに、意味ふかい限界が示されている。十九の少女は、自分の日々がその中で営まれている環境の内部にある複雑な家族関係とその感情、弟の短い生涯を悲劇的にした家族制度の因習ということには、とりくむ実力をもっていなかったことが、この短篇に語られているのである。
「貧しき人々の群」「日は輝けり」などで、環境をとび越えられそうに見えた一人の少女の生活と文学との現実の過程は、「一つの芽生」に暗示されている環境そのものから来ている無力と未熟さによって、ひきもどされ、更にきびしいもみ合いに向わせられたのであった。
一九四七年五月