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八墓村-発 端(1)

时间: 2022-05-31    进入日语论坛
核心提示:発 端八つ墓村というのは、鳥取県と岡山県の県境にある山中の一寒村である。むろん、山の中のことだから、耕地といってはいたっ
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発 端

八つ墓村というのは、鳥取県と岡山県の県境にある山中の一寒村である。

むろん、山の中のことだから、耕地といってはいたって少なく、せいぜい十坪か二十坪ぐらいの水田が、あちらにポッツリこちらにポッツリあるくらいのものだし、しかも気候の関係からいって作柄も悪く、いかに食糧増産を叫んだところで、主食に関する限り、やっと村内の人口がまかなえるかまかなえないかの程度にすぎない。

それにもかかわらず村全体がわりに豊かに暮らしているのは、他に生業があるからである。八つ墓村の生業というのは、炭焼きと牛である。牛を飼うことは近年はじまったのだけれど、炭焼きは昔から、この村のもっとも主おもななりわいの道であった。

八つ墓村を抱く山は、遠く鳥取県までつづいており、その山々を埋めつくして、楢なら、樫かし、櫟くぬぎなどの木が生い茂っているから、炭材に事欠くようなことはなく、昔からこの地方の楢なら炭ずみといえば、関西地方でも有名である。

それからもう一つの生業であるところの、牛を飼うことは近年にはじまったのだけれど、いまではこのほうが、炭焼き以上に重要な村の財源となっている。この辺の牛はひとくちに千ち屋や牛うしとよばれて、役牛えきぎゅうとしてよく肉牛としてよく、近所の新にい見みで牛市が立つときには、全国から博ばく労ろうが集まるくらいである。

したがって村じゅうどの家でも、牛の五頭や六頭飼っていないことはないが、それらの牛は必ずしも、飼い主の所有というわけではなく、村の分ぶ限げん者しゃの買った子牛をあずかって、一人前の牛に育てあげ、それを売った利益金を、定められた率で出資者とわけあうのである。つまりふつうの農村の、地主と小作みたいな関係がここにもあるわけで、こういう山中の一寒村にも、貧富の懸隔ははっきりあった。八つ墓村の分限者は二軒あって、一に田た治じ見み、二に野村。田治見家は村の東にあるところから東屋とよばれ、野村家はそれに対立する意味で西屋とよばれている。

それにしても無気味なのはこの村の名前である。

八つ墓村。──ここにうまれ、ここに屍かばねを埋め、代々永くこの名になじんできた人々には、別になんの奇異な感じもあたえないのかもしれないが、はじめてこの名を耳にする、他郷の人々にとっては、一種異様な名前のように思われる。何かしら無気味な曰いわく因いん縁ねんがありそうに思われてならぬだろう。

いかにもそのとおり、そしてその因縁というのはいまから遠く、三百八十余年の昔、永えい禄ろく年間に端を発する。

永禄九年七月六日、雲州富田城主尼あま子こ義よし久ひさが、毛もう利り元もと就なりに降って月山城を明け渡したとき宗むね徒との公きん達だちで、この降服を肯がえんじなかった若武者一騎、七人の近習をしたがえて城を落ちのびた。伝説によると、その時一行は他日の再挙を期して馬三頭に三千両の黄金を積んでいたという。そして河を渡り山を越え、千辛万苦の末、たどりついたのがこの村であった。

はじめ村人は快く、八人の落武者を迎えた。落武者もまたこの山奥の素そ朴ぼくな人情に安心して、しばらくここを仮の宿りと定め、土民に姿をやつして、炭焼きなどをはじめた。

幸いここは山も深く、かくれ家に事欠くようなことはなかった。さらにまた、いざとなれば鍾乳洞しょうにゅうどうという格好のかくれ場所もあった。このへん一帯の地層は、石灰岩からできているので、渓けい谷こくへおりると、いたるところに鍾乳洞がある。なかには八や幡わたの藪やぶみたいに、だれもその奥底をさぐったものがないという、深い洞窟もあった。それらは討っ手が押し寄せた場合、究竟くっきょうなかくれ場所となるだろうと思われた。あるいは八人の落武者が、この村をしばしの宿と定めたのは、こういう地形を勘定に入れたせいかもしれない。

こうして半年あまりの歳月は、落おち人うどのうえにも平穏無事に打ち過ぎた。村人とのあいだにも、悶着もんちゃくは起こらなかった。

ところがそのうちに、毛利方の詮せん議ぎがしだいにきびしくなってきた。そして詮議の手はついにこの山奥までのびてきた。それというのが落人の大将というのが、尼子の一族でも聞こえた豪のものであったから、そういうものを生かしておいたら、他日、どのような禍わざわいの種になるかもしれぬと考えられたからである。

落人をかくまっている村の人たちも、しだいに自分たちの立場が不安になってきた。それに毛利方の提出したほうびの金にも目がくれた。だが、それよりもかれらがもっと心をひかれたのは、馬に積んできた三千両という黄金である。落人全部を殺してしまえば、だれもこの三千両のことを知るものはあるまいと思われる。いや、たとえ毛利方で知っていて、黄金の詮議があったとしても、知らぬ存ぜぬ、そのようなものは見たこともございませぬと言い張れば、のがれられぬこともあるまいではないか。

村の人々はそこでよりより評議した末に、衆議一決したところで、ある日、ふいに立って落人を襲うた。落人はそのとき全部、山の炭焼き小屋に集まって、炭を焼いていたところだったが、それを取りまいた村人は、三方から枯れ草に火を放ち、まず落人の退路をたっておいて、屈強くっきょうの若者たちがてんでに山刀、竹槍やりをふるって炭焼き小屋を襲撃した。乱世のこととて、土民たちも戦いくさのすべは知っていたのである。

落人たちはふいをつかれた。かれらはすっかり村人に心をゆるしていたおりからだけに、この襲撃は寝耳に水だった。場所が山の炭焼き小屋であっただけに、槍そう刀とうの用意もなかった。それでもありあう鉈なた、斧おのなどをふるって戦ったが、多勢に無勢で、所しょ詮せん勝ちみはなかった。一人討たれ、二人討たれ、ついに一行八人、ことごとく土民の手にかかって死んだのは、まことにはかない最期であった。

村人は八つの首く級びをはねると、炭焼き小屋に火を放ち、勝かち鬨どきあげて引き揚げたが、言いつたえによると、八つの首級はいずれも無念の形相ものすごく、見るものをゾッとさせたということである。わけても若大将の無念はひとしおで、土民の手でズタズタに斬られ、血みどろになって息を引きとる間際まで、七生しちしょうまでこの村に祟たたってみせると叫びつづけたというのは、いかさま、さもあるべきことであろう。

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