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八墓村-第五章 鎧よろいの中(7)

时间: 2022-06-11    进入日语论坛
核心提示:二度目の毒茶その夜、離れへかえってきたときの私は、まるで熱病にうかされたような気持ちだった。私は離れへかえりつくやいなや
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二度目の毒茶

 

その夜、離れへかえってきたときの私は、まるで熱病にうかされたような気持ちだった。私は離れへかえりつくやいなや、水差しの水をゴクゴクと口飲みにした。それほどそのときの私は、興奮のためにのどが乾いていたのだ。

ああ、私はいまこそ、母の慈悲がわかるのだ。母がどうしてあの地図を、私の守り袋に入れておいてくれたか、そしてまた、なぜあの地図をあのように大事にせよといいのこしたか、私にはいまはじめてわかったのだ。そしてまた、地方にのこる伝説だの口こう碑ひだのというものが、かならずしも馬鹿にならぬことを、いまはじめて知ったのだ。

いまから三百七十余年の昔、八つ墓村の先祖のひとたちによって殺された、八人の尼子の残党は黄金三千両を馬につんできたというではないか。八つ墓村の先祖のひとたちが、ふいに襲って八人の落人を殺したのは、ほかに理由もあったけれど、ひとつには、その黄金に目がくらんだためであるといわれている。しかも肝心の黄金は、そのときついに発見されなかったと伝えられている。

ああ、その黄金は、いまだに地底の迷路のなかに、隠されているのではあるまいか。そして、いまから二十六年まえ山へ逃げ込み、地にもぐった私の父は、地底の迷路を彷ほう徨こうしているうちに、はからずもその黄金の隠し場所につきあたったのではあるまいか。そして、その中から三枚だけ持ち出したところを、小梅様と小竹様に毒殺されたのではあるまいか。なんにも知らぬ小梅様と小竹様はどうして父がそのようなものを所持しているか、考えてみようともせず、父の他の持ち物といっしょに、石棺に納めてまつっておいたのではなかろうか。

そうだ。それにちがいない。そう考えるよりほかに、あの三枚の黄金について、適当な説明を求めることはむずかしい。

いつか私はきいたことがある。定量定質の大判を鋳造した最初のひとは織田信長で、それよりまえはただ金塊を槌つちで打ち平らめ、極ごく印いんもなければ墨書きもなく、必要に応じて秤はかりではかって、切り遣いにしたものだという。私がさっき見てきた黄金は、そういう判金の一種ではなかろうか。尼子の滅んだ永禄九年は、織田信長が天下に覇はをとなえるより以前のことだし、このころ天下に群雄が割拠して、金銀においても紛乱時代で、各地にいろんな判金があったという。

尼子の落人八人は、再挙の日にそなえて、それらの黄金の何枚かを、馬につんで落ちのびたのだ。したがって、これを黄金三千両というのはまちがっているのかもしれぬ。後の世のひとが、語りつぎ、語りつたえているあいだに、白髪三千丈式に、多いことの形容として、三千両と価値を定めたのかもしれない。だが、そんなことはどうでもよいのだ。尼子の落武者が、何枚かの大判を持ってきてどこかへ隠したこと、そしてその大判がいまだにどこかに隠されていること。それらの事実にさえまちがいがなければ、多た寡か大小は問題ではない。そして、それらの事実にまちがいのないことは、あの石棺の中にある、三枚の黄金が証明しているではないか。

私はまた、異常な興奮と戦慄に、体が細かくふるえるのを感じた。私は肌身はなさず持っている、古い守り袋を首からはずすと、わななく指でその中から、日本紙に書かれた例の地図を取り出した。

いつかもいったとおり、それは毛筆で書いた八や幡わたの藪やぶ知らずみたいな、複雑な迷路の地図で、その中の三つの地点に、それぞれ地名が書き込んである。三つの地名は「竜の顎あぎと」「狐きつねの穴」「鬼火の淵ふち」と、いずれも変な名前で、そのそばに、つぎのような三首の歌が書き添えてある。

 

みほとけの宝の山に入るひとは竜のあぎとの恐しさ知れ

 

ぬば玉の闇やみよりくらき百八つの狐の穴に踏みぞ迷うな

 

掬すくうなよ鬼火の淵の鬼清水身をやく渇によし狂うとも

 

ああ、もうまちがいはない。いままではなんの気もなくこの歌を読みすごしていたが、いまこうして読み直してみれば、これこそ埋もれた宝の山へたどりつく、みちしるべであると同時に注意書きでもあるのだ。恐らく宝の山へいく途中には、「竜の顎」だの「狐の穴」だの「鬼火の淵」だのという難所があって、うっかりそこへ踏み迷うと命をおとすような危険があるのだろう。

母がどうしてこのような地図を持っていたのか私は知らぬ。また、このような歌を、いつだれがつくったのかも私にはわからない。しかし、そんなことはどうでもよいのだ。これが黄金三千両という、埋められた宝の山へみちびく案内書であるということだけで十分なのだ。

私は心を躍らせて、地図の面に眼をさらしたが、よく見ていくうちに、しだいに失望をおぼえてきた。この地図はまだ完全とはいえぬ。ところどころ線がぼやけたり、とぎれたりするところがあった。それはおそらくこの地図を書いたひとにも、まだ探検がよく行き届いていない箇所なのだろう。それはよいとして、もっと困るのは、この地図の場所へ近づく道がわからないことだ。私の知っている地下のトンネルに相当するところは、この地図のどこにも見当たらない。ここではじめて私は、姉の持っている地図の重要さをさとった。姉の持っている地図には、「猿の腰掛」という地名があるという。「猿の腰掛」のありかならば私も知っている。ああ、そうだ、姉の地図とこの地図とは、二枚つづきになっているのではあるまいか。そして姉の地図は入り口を示し、私の地図はその奥を示しているのだろう。しかし、この地図にも、肝心の宝の山が記してないのはどういうわけか。この地図にはまだもう一枚、つづきがあるのだろうか……

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