彼はそれを思うと、さい前から過激な運動に、尽きて了ったかと見える力を更らにふりしぼって、叩いたり蹴ったり、死にもの狂いにあばれて見た。彼が若し健全な身体の持主だったら、それ程もがけば、長持のどこかへ、一ヶ所位の隙間を作るのは、訳のないことであったかも知れぬけれど、弱り切った心臓と、痩せ細った手足では、到底その様な力をふるうことは出来ない上に、空気の欠乏による、息苦しさは、刻々と迫って来る。疲労と、恐怖の為に、喉は呼吸をするのも痛い程、カサカサに乾いて来る。彼のその時の気持を、何と形容すればよいのであろうか。
若しこれが、もう少しどうかした場所へとじ込められたのなら、病の為に遅かれ早かれ死なねばならぬ身の格太郎は、きっとあきらめて了ったに相違ない。だが、自家の押入れの長持の中で、窒息するなどとは、どう考えて見ても、あり相もない、滑稽至極なことなので、もろくも、その様な喜劇じみた死に方をするのはいやだった。こうしている内にも、女中がこちらへやって来ないものでもない。そうすれば彼は夢の様に助かることが出来るのだ。この苦しみを一場の笑い話として済して了うことが出来るのだ。助かる可能性が多い丈けに、彼はあきらめ兼ねた。そして、怖さ苦しさも、それに伴って大きかった。
彼はもがきながら、かすれた声で罪もない女中共を呪った。息子の正一をさえ呪った。距離にすれば恐らく二十間とは隔っていない彼等の悪意なき無関心が、悪意なきが故に猶更うらめしく思われた。
闇の中で、息苦しさは刻一刻と募って行った。最早や声も出なかった。引く息ばかりが妙な音を立てて、陸に上った魚の様に続いた。口が大きく大きく開いて行った。そして骸骨の様な上下の白歯が歯ぐきの根まで現れて来た。そんなことをした所で、何の甲斐もないと知りつつ、両手の爪は、夢中に蓋の裏を、ガリガリと引掻いた。爪のはがれることなど、彼はもう意識さえしていなかった。断末魔の苦しみであった。併し、その際になっても、まだ救いの来ることを一縷の望みに、死をあきらめ兼ねていた彼の身の上は、云おう様もない残酷なものであった。それは、どの様な業病に死んだ者も、或は死刑囚さえもが、味ったことのない大苦痛と云わねばならなかった。