彼女は帯を解くのをやめて、気味の悪いのを辛抱しながら、間の襖を開けて見た。すると、さっきは気づかなかった、押入れの板戸の開いていることが分った。物音はどうやらその中から聞えて来るらしく思われるのだ。
「助けて呉れ、俺だ」
幽な幽な、あるかなきかのふくみ声ではあったが、それが異様にハッキリとおせいの耳を打った。まぎれもない夫の声なのだ。
「まあ、あなた、そんな長持の中なんかに、一体どうなすったんですの」
彼女も流石に驚いて長持の側へ走り寄った。そして、掛け金をはずしながら、
「ああ、隠れん坊をなすっていたのですね。ほんとうに、つまらないいたずらをなさるものだから……でも、どうしてこれがかかって了ったのでしょうか」
若しおせいが生れつきの悪女であるとしたなら、その本質は、人妻の身で隠し男を拵えることなどよりも、恐らくこうした、悪事を思い立つことのす早やさという様な所にあったのではあるまいか、彼女は掛け金をはずして、一寸蓋を持ち上げようとした丈けで、何を思ったのか、又元々通りグッと押えつけて、再び掛け金をかけて了った。その時、中から格太郎が、多分それが精一杯であったのだろう、併しおせいの感じでは、ごく弱々しい力で、持ち上げる手ごたえがあった。それを押しつぶす様に、彼女は蓋を閉じて了ったのだ。後に至って、無慙な夫殺しのことを思い出す度毎に、最もおせいを悩ましたのは、外の何事よりも、この長持を閉じた時の、夫の弱々しい手ごたえの記憶だった。彼女にとっては、それが血みどろでもがき廻る断末魔の光景などよりは、幾層倍も恐しいものに思われたことである。
それは兎も角、長持を元々通りにすると、ピッシャリと板戸を閉めて、彼女は大急ぎで自分の部屋に帰った。そして、流石に着換えをする程の大胆さはなく、真青になって、箪笥の前に坐ると、隣の部屋からの物音を消す為でもある様に、用もない箪笥の抽出を、開けたり閉めたりするのだった。
「こんなことをして、果して自分の身が安全かしら」
それが物狂わしいまで気に懸った。でも、その際ゆっくり考えて見る余裕などあろう筈もなく、ある場合には、物を思うことすら、どんなに不可能だかということを痛感しながら、立ったり坐ったりするばかりであった。とは云うものの、後になって考えた所によっても、彼女のその咄嗟の場合の考えには、少しの粗漏もあった訳ではなかった。掛け金は独手にしまることは分っているのだし、格太郎が子供達と隠れん坊をしていて、誤って長持の中へとじ込められたであろうことも、子供達や女中共が十分証言して呉れるに相違はなく、長持の中の物音や叫声が聞えなかったという点も、広い建物のことで気づかなかったといえばそれまでなのだ。現に女中共でさえ何も知らずにいた程ではないか。