四
不倫の妻おせいが、恋人との逢瀬から帰って来たのは、その日の午後三時頃、丁度格太郎が長持の中で、執念深くも最後の望みを捨て兼ねて、最早や虫の息で、断末魔の苦しみをもがいている時だった。
家を出る時は、殆ど夢中で、夫の心持など顧る暇もないのだけれど、彼女とても帰った時には流石にやましい気がしないではなかった。いつになく開け放された玄関などの様子を見ると、日頃ビクビクもので気づかっていた破綻が、今日こそ来たのではないかと、もう心臓が躍り出すのだった。
「只今」
女中の答えを予期しながら、呼んで見たけれど、誰も出迎えなかった。開け放された部屋部屋には人の影もなかった。第一、あの出不精な夫の姿の見えないのがいぶかしかった。
「誰もいないのかい」
茶の間へ来ると、甲高い声でもう一度呼んで見た。すると、女中部屋の方から、
「ハイ、ハイ」
と頓狂な返事がして、うたた寝でもしていたのか、一人の女中が脹れぼったい顔をして出て来た。
「お前一人なの」
おせいは癖の癇が起ってくるのを、じっと堪えながら聞いた。
「あの、お竹どんは裏で洗濯をしているのでございます」
「で、檀那様は」
「お部屋でございましょう」
「だっていらっしゃらないじゃないか」
「あら、そうでございますか」
「なんだね。お前きっと昼寝をしてたんでしょう。困るじゃないか。そして坊やは」
「さあ、さい前まで、お家で遊んでいらしったのですが、あの、檀那様も御一緒で隠れん坊をなすっていたのでございますよ」
「まあ、檀那様が、しようがないわね」それを聞くと彼女はやっと日頃の彼女を取返しながら「じゃ、きっと檀那様も表なんだよ。お前探しといで、いらっしゃればそれでいいんだから、お呼びしないでもいいからね」
とげとげしく命令を下して置いて、彼女は自分の居間へ入ると、一寸鏡の前に立って見てから、さて、着換えを始めるのであった。
そして、今帯を解きにかかろうとした時であった。ふと耳をすますと、隣の夫の部屋から、ガリガリという妙な物音が聞えて来た。虫が知らせるのか、それがどうも鼠などの音ではない様に思われた。それに、よく聞くと、何だかかすれた人の声さえする様な気がした。