そんな風に深く考えた訳ではなかったけれど、おせいの悪に鋭い直覚が、理由を考えるまでもなく、「大丈夫だ大丈夫だ」と囁いて呉れるのだった。
子供を探しにやった女中はまだ戻らなかった。裏で洗濯をしている女中も、家の中へ入って来た気勢はない。早く、今の内に、夫のうなり声や物音が止まってくれればいい、そればかりが彼女の頭一杯の願いだった。だが、押入れの中の、執念深い物音は、殆ど聞取れぬ程に衰えてはいたけれど、まるで意地の悪いゼンマイ仕掛けの様に、絶え相になっては続いた。気のせいではないかと思って、押入れの板戸に耳をつけて(それを開くことはどうしても出来なかった)聞いて見ても、やっぱり物凄い摩擦音は止んではいなかった。そればかりか、恐らく乾き切ってコチコチになっているであろう舌で、殆ど意味をなさぬ世迷言をつぶやく気勢さえ感じられた。それがおせいに対する恐しい呪いの言葉であることは、疑うまでもなかった。彼女は余りの恐しさに、危く決心を飜して長持を開こうかとまで思ったが、併し、そんなことをすれば、一層彼女の立場が取返しのつかぬものになることは分り切っていた。一たん殺意を悟られて了った今更、どうして彼を助けることが出来よう。
それにしても、長持の中の格太郎の心持はどの様であったろう。加害者の彼女すら、決心を飜そうかと迷った程である。併し彼女の想像などは、当人の世にも稀なる大苦悶に比して、千分一、万分一にも足らぬものであったに相違ない。一たんあきらめかけた所へ、思いがけぬ、仮令姦婦であるとはいえ、自分の女房が現れて、掛け金をはずしさえしたのである。その時の格太郎の大歓喜は、何に比べるものもなかったであろう。日頃恨んでいたおせいが、この上二重三重の不倫を犯したとしても、まだおつりが来る程有難く、かたじけなく思われたに相違ない。いかに病弱の身とはいえ、死の間際を味った者にとって、命はそれ程惜しいのだ。だが、その束の間の歓喜から、彼は更に、絶望などという言葉では云い尽せぬ程の、無限地獄へつきおとされて了ったのである。若し救いの手が来ないで、あのまま死んで了ったとしても、その苦痛は決してこの世のものではなかったのに、更に更に、幾層倍、幾十層倍の、云うばかりなき大苦悶は、姦婦の手によって彼の上に加えられたのである。
おせいは、それ程の苦悶を想像しよう筈はなかったけれど、彼女の考え得た範囲丈でも、夫の悶死を憐み、彼女の残虐を悔いない訳には行かなかった。でも、悪女の運命的な不倫の心持は、悪女自身にもどうしようもなかった。彼女は、いつのまにか静まり返って了った押入れの前に立って、犠牲者の死を弔う代りに、懐しい恋人のおもかげを描いているのだった。一生遊んで暮せる以上の夫の遺産、恋人との誰はばからぬ楽しい生活、それを想像する丈で、死者に対するさばかりの憐みの情を忘れるのには十分なのだ。
彼女は、かくて取返した、常人には想像することも出来ぬ平静を以て、次の間に退くと、脣の隅に、冷い苦笑をさえ浮べて、さて、帯を解きはじめるのであった。