四
土蔵の二階で書見をするというのは少し風変りと申せ、別段とがむべきことでもなく、何の怪しい訳もない、と一応はそう思うのですけれど、又考え直せば、私としましては、出来るだけ気を配って、門野の一挙一動を監視もし、あの人の持物なども検べましたのに、何の変った所もなく、それで、一方ではあの抜けがらの愛情、うつろの目、そして時には私の存在をすら忘れたかと見える物思いでございましょう。もう蔵の二階を疑いでもする外には、何のてだても残っていないのでございます。それに妙なのは、あの人が蔵へ行きますのが、極って夜更けなことで、時には隣に寝ています私の寝息を窺う様にして、こっそりと床の中を抜け出して、御小用にでもいらっしったのかと思っていますと、そのまま長い間帰っていらっしゃらない。縁側に出て見れば、土蔵の窓から、ぼんやりとあかりがついているのでございます。何となく凄い様な、いうにいわれない感じに打たれることが屡々なのでございます。土蔵だけは、お嫁入りの当時、一巡中を見せて貰いましたのと時候の変り目に一二度入ったばかりで、たとえ、そこへ門野がとじ籠っていましても、まさか、蔵の中に私をうとうとしくする原因がひそんでいようとも考えられませんので、別段、あとをつけて見たこともなく、従って蔵の二階だけが、これまで、私の監視を脱れていたのでございますが、それをすら、今は疑いの目を以て見なければならなくなったのでございます。
お嫁入りをしましたのが春の半、夫に疑いを抱き始めましたのがその秋の丁度名月時分でございました。今でも不思議に覚えていますのは、門野が縁側に向うむきに蹲って、青白い月光に洗われながら、長い間じっと物思いに耽っていた、あのうしろ姿、それを見て、どういう訳か、妙に胸を打たれましたのが、あの疑惑のきっかけになったのでございます。それから、やがてその疑いが深まって行き、遂には、あさましくも、門野のあとをつけて、土蔵の中へ入るまでになったのが、その秋の終りのことでございました。
何というはかない縁でありましょう。あの様にも私を有頂天にさせた、夫の深い愛情が(先にも申す通り、それは決して本当の愛情ではなかったのですけれど)たった半年の間にさめてしまって、私は今度は玉手箱をあけた浦島太郎の様に、生れて初めての陶酔境から、ハッと眼覚めると、そこには恐しい疑惑と嫉妬の、無限地獄が口を開いて待っていたのでございます。
でも最初は、土蔵の中が怪しいなどとハッキリ考えていた訳ではなく、疑惑に責められるまま、たった一人の時の夫の姿を垣間見て、出来るならば迷いを晴らしたい、どうかそこに私を安心させる様なものがあってくれます様にと祈りながら、一方ではその様な泥坊じみた行いが恐しく、といって一度思い立ったことを、今更中止するのは、どうにも心残りなままに、ある晩のこと、袷一枚ではもう肌寒い位で、この頃まで庭に鳴きしきっていました、秋の虫共も、いつか声をひそめ、それに丁度闇夜で、庭下駄で土蔵への道々、空をながめますと、星は綺麗でしたけれど、それが非常に遠く感じられ、不思議と物淋しい晩のことでありましたが、私はとうとう、土蔵へ忍びこんで、そこの二階にいる筈の夫の隙見を企てたのでございます。
もう母屋では、御両親をはじめ召使達も、とっくに床についておりました。田舎町の広い屋敷のことでございますから、まだ十時頃というのに、しんと静まり返って、蔵まで参りますのに、真っ暗なしげみを通るのが、こわい様でございました。その道が又、御天気でもじめじめした様な地面で、しげみの中には、大きな蝦蟇が住んでいて、グルルル……グルルル……といやな鳴き声さえ立てるのでございましょう。それをやっと辛抱して、蔵の中へたどりついても、そこも同じ様に真っ暗で、樟脳のほのかな薫りに混って、冷い、かび臭い蔵特有の一種の匂いが、ゾーッと身を包むのでございます。もし心の中に嫉妬の火が燃えていなかったら、十九の小娘に、どうまああの様な真似が出来ましょう。本当に恋ほど恐しいものはございませんわね。
闇の中を手探りで、二階への階段まで近づき、そっと上を覗いて見ますと、暗いのも道理、梯子段を上った所の落し戸が、ピッタリ締っているのでございます。私は息を殺して、一段一段と音のせぬ様に注意しながら、やっとのことで梯子の上まで昇り、ソッと落し戸を押し試みて見ましたが、門野の用心深いことには、上から締りをして、開かぬ様になっているではございませんか。ただ御本を読むのなら、何も錠まで卸さなくてもと、そんな一寸したことまでが、気懸りの種になるのでございます。
どうしようかしら。ここを叩いて開けて頂こうかしら。いやいや、この夜更けに、そんなことをしたなら、はしたない心の内を見すかされ、猶更疎んじられはしないかしら。でも、この様な、蛇の生殺しの様な状態が、いつまでも続くのだったら、とても私には耐えられない。一そ思い切って、ここを開けて頂いて、母屋から離れた蔵の中を幸いに、今夜こそ、日頃の疑いを夫の前にさらけ出して、あの人の本当の心持を聞いて見ようかしら。などと、とつおいつ思い惑って、落し戸の下に佇んでいました時、丁度その時、実に恐ろしいことが起こったのでございます。