五
その晩、どうして私が蔵の中へなど参ったのでございましょう。夜更けに蔵の二階で、何事のあろう筈もないことは、常識で考えても分りそうなものですのに、ほんとうに馬鹿馬鹿しい様な、疑心暗鬼から、ついそこへ参ったというのは、理窟では説明の出来ない、何かの感応があったのでございましょうか。俗にいう虫の知らせでもあったのでございましょうか。この世には、時々常識では判断のつかない様な、意外なことが起るものでございます。その時、私は蔵の二階から、ひそひそ話の声を、それも男女二人の話声を、洩れ聞いたのでございました。男の声はいうまでもなく門野のでしたが、相手の女は一体全体何者でございましょうか。
まさかまさかと思っていました、私の疑いが、余りに明かな事実となって現れたのを見ますと、世慣れぬ小娘の私は、ただもうハッとして、腹立たしいよりは恐ろしく、恐ろしさと、身も世もあらぬ悲しさに、ワッと泣き出したいのを、僅にくいしめて、瘧の様に身を戦かせながら、でも、そんなでいて、やっぱり上の話声に聞き耳を立てないではいられなかったのでございます。
「この様なおう瀬を続けていては、あたし、あなたの奥様にすみませんわね」
細々とした女の声は、それが余りに低いために、殆ど聞き取れぬほどでありましたが、聞えぬ所は想像で補って、やっと意味を取ることが出来たのでございます。声の調子で察しますと、女は私よりは三つ四つ年かさで、しかし私の様にこんな太っちょうではなく、ほっそりとした、丁度泉鏡花さんの小説に出て来る様な、夢の様に美しい方に違いないのでございます。
「私もそれを思わぬではないが」と、門野の声がいうのでございます「いつもいって聞かせる通り私はもう出来るだけのことをして、あの京子を愛しようと努めたのだけれど、悲しいことには、それがやっぱり駄目なのだ。若い時から馴染を重ねたお前のことが、どう思い返しても、思い返しても、私にはあきらめ兼ねるのだ。京子にはお詫のしようもないほど済まぬことだけれど、済まない済まないと思いながら、やっぱり、私はこうして、夜毎にお前の顔を見ないではいられぬのだ。どうか私の切ない心の内を察しておくれ」
門野の声ははっきりと、妙に切口上に、せりふめいて、私の心に食い入る様に響いて来るのでございます。
「嬉しうございます。あなたの様な美しい方に、あの御立派な奥様をさし置いて、それほどに思って頂くとは、私はまあ、何という果報者でしょう。嬉しうございますわ」
そして、極度に鋭敏になった私の耳は、女が門野の膝にでももたれたらしい気勢を感じるのでございます。……………………………………………………………………………………
まあ御想像なすっても下さいませ。私のその時の心持がどの様でございましたか。もし今の年でしたら、何の構うことがあるものですか、いきなり、戸を叩き破ってでも、二人のそばへ駈込んで、恨みつらみのありたけを、並べもしたでしょうけれど、何を申すにも、まだ小娘の当時では、とてもその様な勇気が出るものではございません。込み上げて来る悲しさを、袂の端で、じっと押えて、おろおろと、その場を立去りも得せず、死ぬる思いを続けたことでございます。
やがて、ハッと気がつきますと、ハタハタと、板の間を歩く音がして、誰かが落し戸の方へ近づいて参るのでございます。今ここで顔を合わせては、私にしましても、又先方にしましても、あんまり恥かしいことですから、私は急いで梯子段を下ると、蔵の外へ出て、その辺の暗闇へ、そっと身をひそめ、一つには、そうして女奴の顔をよく見覚えてやりましょうと、恨みに燃える目をみはったのでございます。ガタガタと、落し戸を開く音がして、パッと明りがさし、雪洞を片手に、それでも足音を忍ばせて下りて来ましたのは、まごう方なき私の夫、そのあとに続く奴めと、いきまいて待てど暮せど、もうあの人は、蔵の大戸をガラガラと締めて、私の隠れている前を通り過ぎ、庭下駄の音が遠ざかっていったのに、女は下りて来る気勢もないのでございます。
蔵のことゆえ一方口で、窓はあっても、皆金網で張りつめてありますので、外に出口はない筈。それが、こんなに待っても、戸の開く気勢も見えぬのは、余りといえば不思議なことでございます。第一、門野が、そんな大切な女を一人あとに残して、立去る訳もありません。これはもしや、長い間の企らみで、蔵のどこかに、秘密な抜け穴でも拵えてあるのではなかろうか。そう思えば、真っ暗な穴の中を、恋に狂った女が、男にあいたさ一心で、怖わさも忘れ、ゴソゴソと匍っている景色が幻の様に目に浮かび、その幽かな物音さえも聞える様で、私は俄に、そんな闇の中に一人でいるのが怖わくなったのでございます。また夫が私のいないのを不審に思ってはと、それも気がかりなものですから、兎も角も、その晩は、それだけで、母屋の方へ引返すことにいたしました。