大宅がピンとはねつけるように、不快らしい調子で答えたので、殿村は黙ってしまった。
二人は黙々として、薄暗くしめっぽい森の中を歩いて行った。
鉄道線路がチラチラ見えている位だから、無論深い森ではないけれど、線路の反対側は奥知れぬ山に続いていて、立並ぶ木立が、どれも一抱え二抱えの老樹なので、さながら大森林に踏み入った感じであった。
「オイ、待ち給え!」
突然先に立っていた殿村が、ギョッとする様な声で、大宅を押し止めた。
「いやなものがいる。戻ろう。急いで戻ろう」
殿村は脅え切っていた。薄暗い森の中でも、彼の顔色が真青に変っているのが分った。
「どうしたんだ。何がいるんだ」
大宅も相手のただならぬ様子に引き入れられて、惶しく聞き返した。
「あれ、あれを見給え」
殿村は逃げ足になりながら、五六間向うの大樹の根元を指さした。
ヒョイと見ると、その巨木の幹の蔭から、何ともえたいの知れぬ怪物が覗いていた。
狼? イヤ、なんぼ山家でも、こんなところへ狼が出る筈はない。山犬に違いない。だが、あの口はどうしたのだ。唇も舌も白い牙さえも、生々しい血に濡れて、ピカピカ光っているではないか。茶色の毛の全身が、ドス黒く血の斑点だ。顔も血みどろのブチになって、その中から燐光を放つ丸い眼が、ジッとこちらを睨んでいる。顎からは、まだポタポタと血のしずくが垂れている。
「山犬だよ。土竜かなんかやッつけたんだよ。逃げない方がいい、逃げると却て危いから」
流石に大宅は山犬に慣れていた。
「チョッ、チョッ、チョッ」
彼は舌を鳴らしながら、怪物の方へ近づいて行った。
「なあんだ。知ってる奴だよ。いつもこの辺をウロウロしているおとなしい奴だよ」
先方では大宅を知っていたのか、やがて血みどろの山犬は、ノソノソと樹の蔭を出て、二三度彼の足元を嗅いだかと思うと、森の奥へと駈込んで行った。