「ハイ、わたくし共も、そうではないかと思いまして、さい前本人の幸ちゃんに尋ねて見ましたのですが、僕がそんな呼出しなぞかける訳がない。その時間にはN市へ行っていたのだから。……それに第一、伯母さんも御存知の通り、僕はこんな下手な字は書きません。又、鶴子さんに逢いたければ、不自由らしく手紙で呼び出したりなんかしないでも、僕がじかに誘いに行く筈じゃないか。って申すのでございます。アノ、これは若しや、誰か悪者が、幸ちゃんからの手紙の様に見せかけて、鶴子をおびき出したのではございますまいか」
判事と被害者の母親との問答は、それ以上進展しなかった。そこで、国枝氏は真先に取調べた大宅幸吉を、もう一度その調べ室に呼入れる必要を感じた。同席の警察署長を始め同意見であった。
大宅幸吉は問題の呼出手紙を見せられると、さっき鶴子の母親が申述べたのと大体同じ様な答えをした。
「君は昨夜N市へ行っていたのだね。ハッキリした現場不在証明だ。で、N市では誰かを訪問したのでしょうね。別に君を疑う訳ではないが、重大事件のことだから、一応は先方へ聞合わせる程度の手数はかけなければなりません」
予審判事は何気なく尋ねた。
「別に誰も訪ねなかったのです。会って話した人もありません」
幸吉は苦し相に答えた。
「では、買物にでも出掛けたのですか。それなら、その店の番頭なり主人なりが覚ているかも知れない」
「イイエ、そうでもなかったのです。ただ町へ出たくなって、Nの本町通りをブラブラ歩いて帰ったのです。買物と云えば、通りがかりの煙草屋でバットを買った位のものです」
「フム、そいつは拙いな」
国枝氏は胡散らしく、相手の顔をジロジロ眺めながら、暫く思案していたが、やがてヒョイと気がついた様に元気な声を出した。
「イヤ、そんなことはどうだっていいのだ。君はN市の往復に乗合自動車に乗ったでしょう。無論運転手は君の顔を見知っている筈だ。その運転手を調べさえすればいいのです」
判事がホッとした様に云うと、意外にも幸吉の顔にハッと狼狽の色が浮んだ。青ざめて急には口も利けない程だ。
判事は唇の隅に奇妙な微笑を浮べて、併し目は相手の心を突き通す鋭さで、ジッと幸吉の表情を見つめていた。
「偶然だ。恐ろしい偶然だ」
幸吉は妙なことを呟きながら、救いを求める様に、国枝予審判事のうしろに立っている人物を眺めた。
そこには幸吉の親友の探偵小説家殿村昌一が、気の毒そうな顔をして佇んでいた。彼がどうして、この調べの席に、しかも調べる人々の側に列していたかというに、昌一は国枝予審判事と高等学校時代の同級生で、現在も文通を続けている友達であったからだ。作者は物語の速度をにぶらせまい為に、この両人の偶然の邂逅の場面を態と省略したのである。
両人がそんな間柄であったから、判事は取調べに際して、何かと好都合であったし、又探偵作家の殿村にとっては、犯罪事件の実際を見学する好機会となった。彼は事件の証人として、友達の予審判事から一応の取調べを受けたが、それが済んでも退席せず、人々の暗黙の了解を得て、その場に居残っていた訳である。
で、今大宅幸吉が、N市へ往復した自動車について質問を受け、顔色を変えて妙なことを呟いたのを聞くと、殿村はハッとしないではいられなかった。彼は幸吉の苦しい立場を大方は推察していた。昨夜はN市に住む恋人に逢いに行ったのに違いない。幸吉はそれを隠す為にアリバイを犠牲にしようとさえしているのだ。