判事は威丈高に云って、テーブルの下から、もみくちゃになった一枚の浴衣を取出し、幸吉の前に差出した。見ると、浴衣の袖や裾に、点々として黒い血痕が附着している。
「僕には全く訳が分りません。どうしてこんなものが僕の部屋の縁の下にあったのか。浴衣は僕のものの様です。併し血痕は全く覚がありません」
幸吉は追いつめられた獣物の様に、目を血走らせ、やっきとなって叫んだ。
「覚がないではすむまいよ」判事は落ちつき払って「第一はKの署名ある呼出状、第二は実に不思議なアリバイの不成立、第三はこの浴衣だ。君はその一つをも言い解くべき反証を示し得ないじゃないか。これ程証拠が揃って、しかも弁解が成立たないとしたら、最早や犯罪は確定したといってもいい。私は君を、山北鶴子殺害の容疑者として拘引する外はないのだ」
判事が云い終ると、署長の目くばせで、二人の警官が、ツカツカと幸吉の側に近づき、左右からその手を取った。
「待って下さい」
幸吉はゾッとする様な死にもの狂いの表情になって絶叫した。
「待って下さい。君達の集めた証拠はみんな偶然の暗合に過ぎない。そんなもので罪に陥されて堪るものか。第一僕には動機がないのだ。僕が、何の恨みもない許婚の少女を、なぜ殺さなければならないのか」
「動機だって? 生意気を云うな」署長が堪りかねて怒鳴った。「君は情婦があるじゃないか。そいつと切れるのがいやさに、せき立てられる結婚を一日延ばしに延ばして来たんじゃないか。併し、もうこれ以上は延期出来ないはめになっていた。君の家と山北家との複雑な関係から、この結婚をもう一日も延ばし得ない状態になっていた。若しこの結婚が不成立に終ったら、君の一家は山北家は勿論、村中に対して、顔向けも出来ない事情があったのだ。君はせっぱ詰った窮境に立った。そして、とうとう、鶴子さんさえなきものにすればと、無茶な考えを起したのだ。これでも動機がないというのか。こちらではなにもかも調べ上げてあるのだよ」
「アア陥穽だ。俺は恐ろしい陥穽にはめられたのだ」
幸吉は咄嗟に返す言葉もなく、半狂乱に身もだえするばかりであった。
「幸ちゃん、しっかりし給え。君は忘れているんだ。もうこうなったら、本当のことを云い給え。ホラ、君にはちゃんとアリバイがあるじゃないか。N市に住んでいる女の人に証言して貰えばいいじゃないか」
人々のうしろから、殿村昌一が躍り出して、叫んだ。彼は友達の苦悶を見るに見兼ねたのだ。